頼りなげな声
「……え?」
既婚者? 一体どういうこと?
「Aisaって確かまだ、二十代前半じゃなかったっけ? 結婚してたの?」
「……そうみたいだ。俺も、知らなかった。あいつはずっと隠してたんだ。マネージャー以外にな。SNSでも一時的に記事が上がってたみたいだけど、朝香は見てない?」
「SNSか。あんまり見ないようにしてるから」
「そうか。じゃあ検索してみるといい。あいつが既婚者だと発表した記事が見れると思うから」
翔に言われたとおり、スマホで「Aisa 既婚」と検索をしてみた。すると確かに、今年の六月末に既婚者だと発表している記事が出てきた。相手は学生時代の同級生。六月末といえば、翔が淡路島に帰ってきた直前のことだ。どうして急にそんなことを公表したのか——疑問に思っていると、翔と目が合った。
「……子供ができない身体だったそうだ。その、相手の人がな。だから離婚して、俺とくっつこうという策略だったそうだ。俺は一度も交際を許可した覚えもないんだけど。でも俺が、思うように自分に靡かない。あいつは女としてのプライドも人一倍強いからな。自分を相手にしてくれない俺に対する復讐だと思う。既婚者であることを発表して、俺を追い詰めようとしたんだ。きっともうすぐ、俺とAisaの不倫騒動の記事が出るはず」
「えっ……そんなことで? そんなことのために既婚者だって発表するの? 翔に復讐するため?」
「そうだ。そういうやつなんだ。香風堂に電話をかけてきたのは、あいつが探偵か何かを雇って、俺の生い立ちを調べて、そこから朝香のことまで調べ上げたからだと思う」
——翔を返して。
——翔はもう、あなたの知らない人なんだから。
Aisaから受けた電話は、あたかも翔が自分のものであるかのような口ぶりだった。けれどそれも、彼女の作戦だったのか。得体の知れない存在から電話がかかってきたら、誰だって警戒するし翔への接触を控えるだろう。彼女はそう考えたのだ。
「母さんが死んだのも、ちょうどあいつが既婚者だと公表したのと同じ時期だ。俺は混乱して、もう何もかも、分からなくなって……。母さんは、自殺だった。父さんとその家族のことをずっと追いかけていたんだそうだ。息子の俺が、東京で精一杯がむしゃらに働いている間にもずっと、母さんは父さんをっ……。そして自分の想いが永遠に父さんに届かないことを思い知ったんだろう。父さんに愛されない人生なんていらないって思ったんだろうな。それで、致死量まで薬を飲み干した。……そんな事実を突きつけられて、目の前が真っ暗になった。母さんの葬儀やら役所への届出やら色々終わった後、俺は空っぽになったような気がした。もう何のために仕事をしたらいいのかも、分からなくなって……それで帰ってきたんだ。淡路島に……それだけが理由だった」
顎を掻きながら、翔が淡路島に帰ってきた理由を告げた。
翔が帰ってきた。
一ヶ月と少し前に、溌剌とした表情で菜々が私に伝えてきた日のことを思い出す。あの後、翔と会って、昔と変わらない彼の明るさに戸惑いつつ、もう一度彼と向き合ってみたいと思い直して。でも翔は、胸の奥にずっと暗い、海の底みたいな闇を抱えていた。昔よりも線が細くなったと感じたのは、東京での出来事に身を窶していたからに違いない。不安を覆い隠すために、あえて明るい自分を演じていたのだ。
彼が高校生の時に、家庭の事情を私や周囲の人に悟らせないように仮面を被っていたのと同じように。彼は十年経った今、再び仮面を被り直した。
「なあ、朝香。俺はどうしたらいいと思う……? 後悔してるんだ。母さんと、もっと話せば良かった。子供の頃、仮面を被ることなんてせずに、周囲の人に助けを求めていれば良かった。朝香にも、もっと早く本当の自分を見せていれば良かったって」
今まで一度も見たことがない、頼りなげな声に私は身体の芯から震えていた。
親鳥を見失った雛鳥のように、彼は底知れない不安を抱えている。それが分かって、切なさとやるせなさが込み上げる。
「私は……分からない。ごめん、ちょっと気持ちの整理がついてないというか」
「はは、そうだよな。急にこんな話聞かせてごめん」
「ううん……違うの。私が、至らないところばかりで。ごめん……」
何に対して謝っているのか、お互いに判然としないまま時間だけが流れていく。翔はそれから口を開くこともなかった。




