Aisa
「びっくりした。翔がそんなふうに考えて、東京で暮らしていたことも。高校生の時に、お母さんが大変な状況になっていたことも……」
高三の六月に、翔の家でばったり会った彼の母親は心を病んでいる最中だったんだろう。だから、あんなふうに生気が抜け落ちていたのだ。あの時会った彼の母親の虚ろな表情が、頭から離れない。
「驚くだろうな。言っただろ、幻滅するって。朝香のことを好きだった気持ちに嘘はない。でも朝香が好きだった俺は、本当の俺じゃ、ないんだ」
本当の俺じゃない。
翔との過去のすべてを否定するかのような一言に、身も心も凍りつく想いがした。
違う……私は、翔が本当はどんな性格の男の子だったとしても、彼を愛していたはずだ。絶対彼を好きになる。そう断言できる。
……本当に?
“絶対”なんて、どうして言い切れる?
未だかつてないほど、頭の中が混乱していた。翔を想う気持ちが強かったからこそ、実際の翔と私が見ていた彼とのギャップに、心の整理がつけられなかった。
「……翔が、淡路島に戻ってきたのは、仕事のことが関係してるんだよね? その後、あなたの身に何が起こったのか、教えてもらえる?」
混沌とした気持ちを宥めるつもりで、話の続きを促した。
「……ああ、話すよ。仕事は最近まで、上手くいっていたんだ。ありがたいことに映画やドラマの主演の話が増えて、生活にもゆとりが出た。母さんとは別々で暮らすようになっていたんだけど、俺の方から仕送りもしていた。母さんにお金を渡すことで、自分が母親から存在を認められるような気がしてたなんて言ったら、馬鹿なやつなんて思われるかもしれないな。とにかく、お金の面で問題はなかった。仕事も順風満帆にいっていたはずなんだ。それなのにあいつが……あいつのせいで」
「あいつ……? あいつって、私の店に電話をかけてきた女の人……?」
「たぶん、そう。あいつは——Aisaは、俺の人生を破滅させようとしてい
る。今もずっと、俺のことを狙ってる」
「Aisa? それってもしかして、『cats』の人?」
「ああ、そうだ。まあ、みんな知ってるか。香風堂に電話をかけてきたのはAisaだと思う」
『cats』というのは、女子五人組のアイドルグループだ。五年前にかなり人気が出て、爆発的ヒット曲を生み出した。Aisaはその『cats』でセンターを務めていた人物だが、今は引退してソロでタレントとして活動している。そんなAisaが翔を狙っている? しかも、香風堂に電話をかけてきたのが彼女だったなんて。あの時の背筋が凍るような低い声を思い出しても、どうしてもスポットライトの下で笑顔を振り撒くAisaとは結びつかなかった。
「Aisaがどうして翔を? 二人は知り合いなの? 共演したことがあるとか?」
「……いや、共演はしていない。俺とAisaが出会ったのはたまたまだ。新宿で、酔ったおっさんが女の子に絡んでる場面に出会して、助けたんだ。その絡まれてた女の子が、彼女だった。向こうは俺にすぐに気づいたみたいだけど、俺は最初気づかなかった。その後、彼女に——交際を迫られた。俺は断っていたんだけど、やり方が強引で——」
そこまで話した後、翔は口を噤んだ。なとなく、彼がAisaと何をしたのか想像がついてしまう。私もあえて詳細は聞かなかった。翔とそういうことを一度もせずに別れを迎えてしまった過去に対する未練もあったかもしれない。翔と私の間に流れる空気が、停滞して黒く澱んでいくようだった。
「勘違いしないでほしいんだけど、一線は超えてない。第一、彼女に対して気持ちはなかった。家に連れ込まれたりもしたが、何もしなかった。そこだけは信じてほしい。俺はAisaと関係を切ろうとした。Aisaのことを好きだとはこれっぽっちも思わなかったから。だけどあいつは俺との関係を切ろうとしない。それどころか前に進めようとする。俺は彼女を拒み続けた。プライベートのことが仕事に影響するのも嫌だったからな。そんな中、彼女が世間に『自分は既婚者です』と発表したんだ」




