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潮に閉じ込めたきみの後悔を拭いたい  作者: 葉方萌生
第五章 虚の瞳

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あなたが戻ってきた理由

「翔」


 階段から一番近いところにある部屋の扉から、翔が顔を覗かせていた。この部屋に住んでいたっけ——記憶を掘り起こそうとしてみたが上手くいかない。


「もしかして俺の家訪ねてきた? だったら今はこっちなんだ。向こうの部屋は今別の人が借りてる」


 ああ、そうか。

 賃貸アパートなのだから、この十年で住人が入れ替わっていても不思議ではない。まして翔の家は十年前に東京に引っ越しているのだから、今も昔と同じ部屋に住んでいる方がおかしい。


「ごめん私、勘違いしてた」


「いや、大丈夫。それよりどうした? 家まで訪ねてくるなんて初めてだろ。よかったら上がってく?」


「……うん」


 軽い誘い方をしてくる翔に、私はほとんど無意識に頷いていた。

「どうぞ」と翔に促されて、玄関の中へと吸い込まれてく。昔彼の家に一度だけ上がったことがあるが、間取りはほぼ同じだった。居間には畳が敷き詰められていて、部屋は多分一つしかない。一人暮らしをするのにちょうど良いぐらいの家だった。


「今日は、おばさんは? 迷惑じゃない?」


 何気なく尋ねたことだった。翔は何か躊躇う素ぶりを見せた後、「母さんは」と口を開く。その前に、部屋の奥へと進んだ私ははっと息を止めた。


 遺影が飾られていたのだ。

 立派な仏間のようなものはなくて、写真と、供えられた饅頭と、骨壷が全てを物語っていた。写真の中で柔らかく微笑む翔のお母さんは、私が初めて彼女を目にした時とは比べ物にならないほど若々しく美しい。随分前に撮られた写真なのだと分かった。


「おばさん……いつ?」


 恐る恐る振り返って、翔に問う。翔はばつの悪そうな表情を滲ませながら、

「一ヶ月ぐらい前」と呟いた。


「翔が淡路島に戻ってくる直前ってこと?」


「そう。もうすぐ四十九日を迎えるところ」


「そうだったんだ。それは、なんというか……お悔やみ申し上げます」


 かつて大切だった人の母親の訃報に、通り一辺倒の慰めしか出てこない自分に辟易とさせられる。


「もしかして、淡路島に戻ってきたのはお母さんのことがあったから?」


「ん、まあ、そうだな。それが一因でもある」


 含みを持たせた言い方に、私は首を捻る。


「他にも原因があるってこと?」


 翔は、今度の質問には答えずに「何か飲む?」と私に訊いた。私は「お茶で大丈夫」と答える。彼は温かいお茶を運んできてくれた。


「辛気臭い話してごめんな。母さんのことよりさ、朝香の話を聞かせてよ」


 辛気臭い話だなんて、母親のことをそんなふうに言ってしまっていいのだろうか。とはいえ元々は私の方が先に始めた話なので、翔の勧めに乗らないわけにはいかなかった。


「そうだった。実はね、今日お店に不審な電話がかかってきたの」


「不審な電話? どんな?」


「『翔を返して』って。『翔はもうあなたの知らない人なんだから』っていうのも言われた」


 正直に電話の相手から告げられたことを話すと、翔はその刹那、大きく目を見開いた。驚愕。そんな表現が合うような驚きようだ。何か心当たりがあるのだろうか? たったこれだけの電話で、一体何が——。


「……その電話の人、女の人だった?」


「ええ。女性の声だった。でもすごく低い声をしてて、本当に女性なのかなって疑ったけど」


 そこまで話すのが限界だった。

 翔はくしゃりと顔を歪め、「あいつ……」と憎々しげに呟く。その声が地の底を這っているように低く、咄嗟に電話をかけてきた女性の声を思い出す。翔がこんなふうに、誰かを精一杯恨んでいるような素ぶりを見せるのを初めて見た。私の中の明るい翔の像がガタガタと音を立てて崩れ出す。


「翔、どうしたの……? その人のこと、知ってるの?」


 たまらなくなって訊いた。悪魔に取り憑かれたように、翔と焦点が合わない。怖くなった私は、翔の肩を掴んで揺らす。翔はやっぱり「あいつのせいだ」「あいつが」とうわごとのように繰り返すだけで、私の声が聞こえていないようだった。


「翔っ。ねえ!」


 今度は彼の頬を両手で掴み、自分の方へと向ける。弾かれたように瞬きを繰り返す。そこでようやく、彼と目を合わせることができた。


「ごめん、俺……」


 翔は泣いていた。涙がすーっと彼の美しい頬を滑り落ちる。翔が泣いているところを、私は初めて見た。十年前、私とお別れをする時だって、彼は涙を流さなかった。


「翔、何があったの? もしかしてその女の人と、翔が淡路島に帰ってきたことが関係してる? ずっとおかしいと思ってたの。翔はどうして突然活動休止して島に帰ってきたのかって」


 翔の肩をそっと抱きながら優しく問いかける。別れてから今日初めて、彼の身体に自分から触れにいった。懐かしい、翔の匂いがして胸が疼く。


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