聞きたくない
翔が東京に行っても、私は翔を好きでいる。
あの日、白昼のファミレスでそう誓ったはずなのに、綻びはあっという間に訪れた。
夏休みも半ばに迫り、明日からお盆休みが始まるという時期だ。
この時期、香風堂は一年で一番の繁忙期を迎える。お盆の初日、私は夏休みの思い出に一日だけ翔とデートをしようと約束していたのだが、その前日の夜に夕飯の席で父親から声を掛けられた。
「朝香、明日から繁忙期だからお前も手伝ってくれるよな」
食卓に並んだサバの煮込みと、白ごはんを突きながらそう言った父の声はどこか威圧的で、私にNOと言わさない力があった。
「明日? 明日は予定があるって言わなかった?」
一週間前のことだ。毎年お盆に仕事を手伝っているのだが、今年は一日だけ休ませて欲しい、と父にお願いしていた。その時父は「一日だけなら」と渋々了解してくれていたのだ。
「事情が変わった。一昨日、大量の注文が入ったんだ。一日たりとも無駄にできない。だから明日も手伝いなさい」
「……」
まるで一週間前の約束などなかったかのような口ぶりで父は残酷な宣言をした。罪悪感の欠片もない。淡々と、社長として従業員に業務命令をするのと同じ。父の隣に座っていた母も、父の意見に同意するかのように静かに頷いた。
「明日は……明日だけは、どうにかならない? 友達と大事な約束があるの。パートさんもいるでしょ? どうして私が」
本当は友達ではなく彼氏なのだが、今ここで彼の存在をちらつかせても火に油を注ぐだけだ。
「パートなんかあてにならん。家庭がある人が多いから、休みが多いんだよ」
「はあ。それでも私が出る意味なんて」
「お前は香風堂の跡継ぎとしての自覚が足りん!」
突如、食卓に響き渡る怒号に、私はひっ、と小さな悲鳴を上げた。母は父が何を言っても動じない様子だ。母はいつもそうだ。父の言葉に追従する。私の気持ちなんて、きっと考えてくれない。母にとって、父は絶対的な存在だから。
私は、右手に持っていたお箸を滑り落とした。カチャン、と軽い音が響く。その音を聞くまでが限界だった。私は、食卓の椅子からガタンと立ち上がり、リビングから出た。
「おい朝香!」
父親が私を呼ぶ声に、思わず耳を塞ぐ。いやだ。聞きたくない。うるさい。うるさい! これ以上私に命令しないでっ。これ以上私を縛らないでっ。迫り上がってくる怒りとも悔しさとも言い切れない濁流のような感情に飲まれそうになりながら、身一つで家を飛び出した。
目的地なんてなかった。それなのに私は一目散に翔の家へと向かっていた。六月に一度だけ訪れた彼のアパートは、夜の闇の中で見ると以前見た時よりもおどろおどろしさが増していた。壁はところどころ剥がれ落ち、夜の闇に隠せない汚れがたくさんついている。
アパートの階段を駆け上がり、翔の家のインターホンを鳴らそうとした。その直前に、ガチャリと音がして玄関扉が開かれた。中から現れたのは翔だ。私はぎょっとして尻餅をつきそうになる。きっと彼だって同じだっただろう。お互いに目を丸くして見つめ合った。
「朝香……? どうしたんだ?」
突然玄関の前に現れた恋人に驚きを隠せない様子の翔。「翔……」と、口を開いたのだけれど、何を言えばいいのか分からない。
翔に会って、私は何をしようとしていたんだろう。
翔に何を話そうとしていたのだろう。
「……っ」
唇をぎゅっと噛み締めたまま、目尻に涙が溜まっていくのが分かった。翔は何かを察したように、「行こう」と私の手を取る。彼はなぜか長袖を着ていた。裾のところがほつれている。彼と出会った高校一年生の入学式の日、制服の糸を切るために彼からハサミを借りたことをぼんやりと思い出した。




