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潮に閉じ込めたきみの後悔を拭いたい  作者: 葉方萌生
第四章 闇の星

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無理してない

 翔が持ってきてくれたケーキを食べたあと、私たちはしばらく無言で勉強をしていた。期末テストは一週間後に迫っている。真剣に勉強をしていても、時間が全然足りないくらいだ。けれど私は、翔と、翔のお母さんとこの家のことが気になって、勉強中ずっと気もそぞろ状態だった。

 一時間、二時間、黙々と手を動かしただろうか。

 気がつけば窓の外の景色が暗く沈んでいて、翔が「はーっ」と大きく伸びをした。と同時に、玄関の扉に鍵が差し込まれて、カチャリと開く音がした。


「ただいま」


 帰ってきたのは言わずもがな、翔のお母さんだ。翔の母親に会ったのはその時が初めてだ。長い黒髪が特徴的な人で、顔は翔と似ていた。色白の美人で、誰もが目を惹かれるような魅力を放っている。

 それなのに、なぜだろう。

 彼女からは、どうしても生気が感じられないのだ。

 薄幸そうなオーラすら放っている。よく見れば目元にはクマが広がっていて、化粧でなんとか隠してはいるものの、クマの色が濃いので目立っている。首元や手首に、爪で掻きむしったような赤い引っ掻き傷があった。ぱっと目についた症状はそれぐらいだったけれど、彼女は全身で、疲労感を表現しているような人だった。


「こ、こんばんは。お邪魔しています」


 反射的に挨拶をすることはできた。でも、翔のお母さんは私を見てすっと目を細めた後、ボソリとした声で「こんばんは」と返してくれるだけだった。良いように思われていないことは明らかだけれど、決して邪険にされているわけでもない。宙ぶらりんの評価を下されたみたいで、胃がきゅうと痛んだ。

 咄嗟に口から挨拶が漏れた私とは反対に、翔は口をぽかんと開けて母親を凝視していた。


「母さん、こんなに早く帰ってくる予定だったっけ……?」


「夜の仕事が、なくなったの」


 掠れた声でそれだけ告げると、彼女はリビングの奥の部屋へと消えていった。まさに、「消えた」という表現がぴったり当てはまるほど、彼女の足取りはふらふらとしていた。

 私と翔の間に、なんとなく気まずい空気が流れる。


「……そろそろ、お暇しようかな。お母さんにも迷惑だろうし」


 居心地が悪そうにしていた翔の前で、私はそう言った。翔は「ああ、ごめん」と心ここに在らずな状態で同意する。荷物を片付けて、鞄を手に持った。


「途中まで送るよ」


「ありがとう」


 翔もサッと立ち上がり、二人で外に出た。雨はまだ降り続いている。翔のアパートから終始無言で歩いた。傘のせいでどうしても視界が遮られてしまう。足元ばかり見つめて歩いていた私に、翔がそっと声をかけた。


「今日は来てくれてありがとう。まさか母さんが帰ってくると思わなくて。バタバタしてごめんな」


「ううん。私の方は全然気にしてないよ。ケーキまでいただいて、ありがとう」


 二人の間にまた沈黙が流れる。こんなふうにお互いの出方を探り合ったのは初めてかもしれない。翔との会話はいつだってきっちりと歯車がはまっているかのように噛み合っているのが普通だった。多少喧嘩をして歯車がずれても、すぐに元通りになる。でも今は、食い違う幅が徐々に大きくなっている気がするのだ。


「……お母さん、いつもあんな感じ?」


 あと五分ぐらい歩けば、私の家に到着する。「途中まで送る」と言ってくれた翔だったが、結局最後まで送ってくれるのだと分かった。


「ん、そうだな。なんか仕事がすごく、疲れるみたいで」


 翔が顎を掻きながら答える。二年間一緒に過ごしてきて、彼が顎を掻きながら喋る時は嘘をついている時だと理解していた。


「そっか。母子家庭だし大変だよね。翔、無理してない?」


「無理してない。昔からあんな感じだったから、もう慣れちゃったというか。俺は普通だよ」


 淡く微笑みながら答えた翔の心中を、その時の私には推しはかることができなかった。

 やがて私の家が見えて、翔が「また明日な」と片手を挙げる。


「うん、また明日」


 別れる時、一年前の私たちならきっと、ハグをしたりキスをしたり、外国人がしそうなスキンシップを恥ずかしげもなくやっていた。でも今は、互いに手を振るだけ。わずかに開いてしまった二人の距離が、永遠に縮まることはないのだと、この時はまだ知らなかった。


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