過去
船は再び、ゆっくりと動き出す。渦潮は海の上にいくつも存在していて、ぐるぐると回っていく水飛沫にじっと見入ってしまう。
「私さ……昔、あの中に落ちたことがあるんだよね」
渦潮を見ながら、気づいたらそんなことを打ち明けていた。
「は、落ちた? どういう意味?」
不可解な翔の声が響く。
そりゃそうだろう。渦潮の中に落ちたなんて、にわかには信じられない話だ。しかも、私は今こうしてここで息をしている。あの中に落ちて、無事でいられるはずがない。
「信じてもらえないと思うんだけど、中三の夏、この『うしお丸』に乗っていた時に、渦潮の中に落ちちゃったんだ」
「……なんで?」
「なんで、だったんだろう。船が座礁したわけでも、天候が荒れていたわけでもなかった。今日みたいに晴れていて、大渦の日だってアナウンスが流れて。お客さんもたくさんいて、クルージング日和だった。それなのに、私だけが渦潮の中に落ちた」
ぐるぐる、ぼこぼこ。
渦の中に身体が吸い込まれていった時の感覚がリアルに蘇って来る。
あの時、当然のように自分は死ぬのだと思った。耐え難い苦しみの中で、いつか身体中から酸素がなくなり、力尽きて海の底に沈んでいく。そう思っていたのに。
「その時私ね、臨死体験のようなものをしたの。保育園時代の過去に戻って、それで」
見知らぬ男の子に出会った。
お腹を空かせたその子は、私が持っていたラムネを食べて、安堵の表情に包まれていた。はっきりとした顔立ちの子だったことは覚えているけれど、細かいところまでは記憶に靄がかかったように思い出せない。
「過去に戻った……? ラムネ……?」
翔は分かりやすく困惑の色を浮かべていた。きっと信じてもらえないだろう。分かっている。でも、死ぬまでに誰かに打ち明けなければ、この記憶を抱えきれないとも思った。
「気づいたら船に戻っていて、何事もなかった。他の乗客も普通に渦潮を観察していて、私だけが竜宮城から帰ってきた浦島太郎みたいに混乱してた。事故や事件が起きたわけじゃなかったの。あの日、確か船には私一人で乗っていたから、その時の出来事を共有する人もいなくて、ずっと、誰にも言えなかったんだ」
ぐるぐる、ぼこぼこ。
船の下で渦を巻く海が、得体の知れないブラックホールみたいに恐ろしく感じた。
遠くから眺めている分には地球の神秘のようなものを感じられるけれど、あの中に落ちることを想像すると、今でもゾッと身体が震える。
翔は私の話を聞いて、ただただ絶句していた。
当然の反応だ。私の作り話にしか思えないだろう。




