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タイムリープ


 ぶくぶくぶく

 ごぼぼぼぼぼっぼっぼ


 泡と、波と、底知れない引力のような力が、私の全身を信じられない強さで包み込む。冷たい、苦しい。そんな言葉じゃ済まなかった。あ、死ぬかも。じゃなくて、死ぬ。視界がぐるぐると回り、ものの数秒で目を開けられなくなった。真っ暗な冷たい海の底に、旋回しながら叩きつけられる——一瞬のうちにそんな想像に駆り立てられて、恐怖心が全身を支配した。それでもやっぱり思考を続けることすらままならなくなって、酸素の回らなくなった私の身体は、事切れたように渦の中に飲み込まれていった。

 ——はずだった。


「……!」


 まぶしい。

 最初に感じたのは、まばゆいほどの太陽の光だ。目を閉じていても分かる。まぶたの向こう側で、なぜか陽の光が燦々と降り注いでいる。一体どういうことだろう。私は、鳴門海峡(なるとかいきょう)の渦潮に飲み込まれて死を覚悟していたというのに。

 ん……死?

 そうか。これはもしかして、死後の世界?

 それとも、死の淵を彷徨う私が見る幻覚? 目を開けたら目の前に三途の川が広がっているとか——そこまで想像して、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。


「ここは……」


 見覚えのある田舎道が視界いっぱいに飛び込んでいた。砂利道と、その両側には見渡す限りの田んぼが連なっている。鼻を掠める潮の香りは、長年暮らしてきた故郷——淡路島のそれだった。尻餅をついたような姿勢でその場にへたり込んでいる自分の両膝が見える。


「え?」


 自分の両足の違和感に気づき、ぎょっとする。

 小さい。あまりにも小さく、肌艶の良い脚に、砂利がひっついていた。

 砂利を払った手のひらも、どう見ても小さい。子供のそれだった。

 慌てて自分で自分の身体をぺたぺたと触る。柔らかい肌、平らな胸、どう見ても小さな四肢、そして肩にかけた手作りのキルティング鞄。鞄の右下に、「きじま あさか」とマジックで名前が書かれている。懐かしい自分の持ち物に、目が眩んだ。


「保育園の鞄……」


 

鞄が伝えてくる真実に、私はどうにか思考を追いつかせようとぐるぐる頭を回転させた。でもどうしても分からない。海に落ちて、渦潮にのまれたはずの自分が一体どうして見慣れた風景の中で、保育園時の身体で存在しているのか。


「うえええ、ううう」


 何も思考が追いつかないうちに、遠くから誰かの声が聞こえてきた。


「泣いてる……?」


 今の自分と同じくらいの子供の声だった。ひっく、ううう、という嗚咽と共に、「おなかすいたよお」と嘆く言葉が重なった。

 私はその声につられて立ち上がる。ほとんど反射だった。小さな子が泣いているなら助けてあげたい——自分も小さな子供の身体であることも忘れて、泣き声のする方へふらふらと近づいていく。


 やがて見つけた、道の端っこでうずくまる一人の男の子の姿。私が着ているのとは違うスモッグを着ている。ところどころ薄汚れていて、一週間ぐらい洗ってないんじゃないかってぐらい汚かった。転んだのか、裾には土がついていて、よく見れば袖のゴムが取れてよれよれになっている。保育園のスモッグがここまでダメになっているとこを見たことがなくて、私は度肝を抜かされた。


「どうしたの?」


 スモッグのことはいったん頭の隅に追いやって、純粋に泣いている彼に声をかけた。男の子は私の存在に気づいて、顔を覆っていた両手を外す。可愛らしい顔をした子だった。目はくりくりと大きくて、鼻筋が通っている。だけど、そんな整った顔立ちとは裏腹に、涙が頬をぐしょぐしょに濡らしていて、それだけで居たたまれない気持ちになった。

 男の子は私の姿を認めると、不思議そうな顔をしたが、すぐに


「おなかすいた……」


 と漏らした。


「お腹が空いてるの?」


「うん……」


「ご飯、食べてないの?」


「……うん」


 一体いつからご飯を食べていないのかは分からない。けれど、お腹が空いたと路上で泣くほど窮地に立たされている事実は理解できた。


 困ったな、と周りを見回す。周囲にあるのは田んぼばかりで、農家のものと思われる民家がポツポツと点在しているだけだ。さすがに、見ず知らずの人の家に押しかけて「ご飯をください」なんて言う勇気はない。しかも、中学生の私の身体ならまだしも、今は自分の保育園時なんだし——そこまで考えて、はっと閃いた。


 自分の肩から下がっている鞄のファスナーを開ける。給食セットと連絡帳が入ったその鞄の内ポケットに、ラムネが入っていた。青いケースに入っている、あの馴染みのあるラムネだ。小さい頃から大好きで、保育園の先生にバレないようにラムネを持ち歩いていたのを思い出したのだ。


「これ食べる?」


 何の腹の足しにもならないラムネを、男の子に差し出した。男の子は涙をすんと引っ込めて、私の手の中にあるラムネを見やる。お腹が空いる時に駄菓子なんていらないかな。そう諦めかけたとき、彼は「うん」と頷いてそっとラムネを手にした。


 それからはもう必死な様子でプラスチックの蓋を開けて、白くて丸いラムネを一個、二個と、勢いよく取り出した。パクっと、口の中に放り込む。咀嚼する時間はものの数秒だった。いくつものラムネを口の中に入れて、もぐもぐと口を動かす。途中、勢いが良すぎたのかむせてしまったので、私は水筒のお茶も彼にあげた。


 一分もしないうちに、男の子はラムネをすべて平らげてしまった。普段なら、友達に自分のお菓子を全部食べれてしまったら悲しいはずなのに、この時はむしろ嬉しかった。


「お腹、大丈夫になった?」


 私がそう尋ねると、彼はうん、としおらしく頷いた。が、すぐにラムネのケースが空っぽになってしまったことに気づいたのか、申し訳なさそうにはっと顔を強張らせた。


「大丈夫だよ。私、家にもまだラムネあるし。怒ってないよ」


 男の子の顔が安堵で緩む。泣くほどお腹が空いていて、たぶんラムネを全部食べたところでお腹いっぱいにはなっていないはずなのに、他人のことを気遣える男の子のことを愛しいと思ってしまった。


 それから自分がどうやって男の子と別れたのか、はたまた彼を家まで送り届けたのか、覚えていない。気づいた時には、中学生の自分の身体に戻っていて、しかも渦潮観光船「うしお丸」に乗っていた。渦潮の中に落ちる前に、乗っていた船だ。はっとして周囲を見回しても、慌てる客や取り乱している客は一人もいない。みな、渦潮の解説を聞きながら、鳴門海峡に一際大きな泡を発生させている渦潮を覗き込んでいた。


 さっきのは一体なんだったんだろう……。

 あまりにも不思議な体験に、夢だったのではないかと疑った。いや、きっと夢じゃない。男の子の不安そうな表情も、私の手からラムネを受け取った時に触れた彼の手の感触も、確かに残っている。

 それに、なんとなく男の子の顔に見覚えがあると思った。でも誰なのか、思い出せない。そのうち記憶が曖昧になっていって、一週間もすると男の子の顔はもやがかかったように、思い出せなくなった。

 ただ、十五歳の時に鳴門海峡の渦潮に飲み込まれて不思議な体験をしたという記憶だけが、十年以上経った今もなお、こびりついている。

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