ep6 涙
成瀬はどうにかしてこの教室から出ようと窓の外を見た。
ここは、特別教室の集まる東館の2階だ。
運が良ければ、うまく降りられるかもしれないが、下手をしたら怪我をする可能性がある。
今は少しでも早く泉のところに行かなければならない。
成瀬はごそごそと自分のズボンのポケットに何か入っていないか確かめた。
そして、その中から部屋ピンを2本見つけた。
確かこれは、朝、葵のヘアースタイルを整える時に使ったものだ。
そして、昔結城が屋上の扉を針金のようなもので鍵を開けていたことを思い出し、真似してみようと二つ折りのヘアピンを無理矢理1本に伸ばし、それを鍵穴に突っ込んでみた。
ガチャガチャと音はなるものの、開きそうにはなかった。
成瀬はその場に座り込み、時計を見つめる。
今頃、生徒会長の演説の順番が回ってきている頃だろう。
伸ばしてもらったとしても限界がある。
このままでは泉の演説に間に合わなくなり、泉は推薦演説がないまま終わってしまうことになってしまう。
それは演説失敗した時より致命的だ。
成瀬は悔しくて、目の前の扉を殴りつけた。
その音は廊下中に響いていたが、全生徒や教師が体育館に集まる中、耳に入るものなどどこにもいなかった。
泉は緊張しながらも、懸命に演説を始めた。
なぜ、自分が生徒会長になりたいのか。
そして、生徒会長になったらどうしたいのか、少しでも多くの生徒に納得してもらえるように懸命に主張する。
しかし、その間に成瀬が現れることはなかった。
演説が終わるころには、冷たい生徒たちの目線を感じた。
成瀬が推薦するという期待が一気になくなった分、泉の評価は確実に下がっていた。
そんな時、ステージの横から速足でステージに滑り込んでくる者がいた。
その人物を見て、誰もが驚きを隠せなかった。
それは成瀬と同じぐらい有名な悪評高い、結城馨だったからだ。
泉もなぜこのタイミングで結城がステージに上がって来るのか理解できず、困惑する。
しかし、結城はお構いなしで、泉に場所を譲るように言った。
周りで見ていた選挙管理委員の生徒たちも何も聞かされておらず、戸惑っているばかりだ。
「遅くなったが、成瀬に代わって泉の生徒会長への推薦人になった結城だ」
彼女はマイクに向かってそう叫んだ。
その瞬間、体育館内の生徒は一斉に騒ぎ出す。
「最初に言っておきたい。生徒会長として最も必要な素質は何か?」
質問形式で返ってくると、周りの生徒たちはそれぞれ顔を合わせて相談し合った。
「それはどれだけこの学校を良くしたいと考えているかだ。クラスの人気者だとか成績が優秀だとか、本当にそれは生徒会長として必要なのか? 生徒会長は我々学園の代表だ。どんなことがあっても、我々の味方である必要がある。上面でいい顔したって、いざとなった時手のひらを返すような奴に代表は任せられない。けど、泉は違う。この1年間生徒会の仕事をしっかりこなしてきた実績もある。この立候補者の中で誰から頼まれたわけでなく、自ら志願したのは泉だけだ。私はそんな泉にこそ、生徒会長として相応しいと思う。今まで会計として、責任ある仕事を問題なく務め、最後までやり切った。次こそは、生徒会長としてこの学園をより素晴らしいものに、そして、我々にとって意義のある学園生活を送れるよう尽力してくれるはずだ。私はそんな泉を信じたい。例え、対人恐怖症という欠点を抱えていたとしても、彼女はそれを克服するためにもここにいる。そんな彼女を我々は応援すべきではないのか? 我々もただ傍観しているのではなく、同じ学園の生徒として協力すべきだと思う。そのためにもまず、泉を生徒会長として任命し、全力応援すべきだ。これが私の泉千春を生徒会長として推薦する理由だ。以上!!」
結城は原稿もなく、真正面を向いて推薦理由の演説を見事にこなした。
その意気込みと迫力はどの演説より生徒たちの印象に残っていた。
あれだけ成瀬の演説を期待して、騒いでいた生徒たちも今は静観している。
結城は言い終えた後、委員会の進行役のアナウンスも聞かない中、勝手にステージを降りて行った。
進行役は混乱しながらも、必死に流れを取り戻そうとアナウンスを始めていた。
ステージからステージ横に下がった結城が真っ先に向かったのは桜井の前だった。
結城は壁に寄りかかり腕を組んでいた桜井の胸倉に手を伸ばし両手で掴んだ。
しかし、桜井は驚きもせず、悠長に結城を見下ろしている。
「すぐそうやって突っかかってくるところが結城の悪い癖だよ」
桜井はあくまで冷静な対応をする。
それが余計に結城にとって腹立たしかった。
ステージから戻って来た泉もその光景を心配そうに見つめていた。
「お前、成瀬をどうした!? どこにやった!?」
周りは結城が何を言っているのか理解できなかった。
桜井はにやりと笑って見せた。
「何それ? なんで俺がそんなこと知っているの? 成瀬がいなくなったのは、まさに俺の演説中なんだろう? なら、俺に関係あるわけないじゃん」
「ふざけるな。お前なら、自分が手を下さなくても、他人に押し付けることぐらい容易だろう!」
ちょっと待ってと桜井は目を閉じ、手のひらを見せる。
「そうだとしても、俺が成瀬を連れ去る理由って何? もし、生徒会長の演説を失敗に終わらせたいなら、成瀬じゃなくて泉を連れ去った方が確実だろう?」
「お前の目的が生徒会長の座でもなく、泉でもなく、成瀬の信用の失墜だからだ。生徒会に入るのを決めたのも、成瀬が断ったからだろう」
「どうしてそんなこと言い切れるのさ。俺は別に成瀬の事なんてなんとも思っちゃいないよ? 成瀬の信用を失墜させたところで俺にどんなメリットがあるわけ?」
桜井も強気だった。
今まで相手をしてきた中で桜井が結城にとって一番手を焼く相手だ。
「メリットじゃない。お前にとって成瀬が最大のデメリットなんだよ。今までお前はどこに行っても一番だった。ルックスも良くて、成績もそこそこ、運動神経だって悪くない。人格も認められていて、おまけに人が羨むほどの可愛い幼馴染までいた。お前は、誰から見ても非の打ち所のない完璧な奴だったんだよ。けど、成瀬が現れたことで、お前の評価の全てを成瀬が持って行っちまった。それがお前のプライドを傷つけたんだ」
はっと桜井は吐き捨てるように笑う。
「お前、どんなけ俺を見てんの、気持ちわりぃ。そうだとして、俺がやったって証拠はないよな? 本当に成瀬自身が嫌になってボイコットしたっていう可能性だってある」
「あいつに限ってそんなことはない!!」
結城ははっきりと言い切った。
結城がここまで他人を断言することは珍しい。
「なんでそんなことを言い切れるんだよ?」
桜井は掴まれていた手を無理矢理引き放して質問した。
さっきまでの余裕そうな表情は見当たらない。
「明確な根拠はない。けど、成瀬は一度約束したことを簡単に裏切るようなやつじゃないんだ!」
桜井にもはっきりと分かった。
結城は成瀬を信用している。
誰とも関わり合おうとしない、あの結城が根拠もなく成瀬を信じているのだ。
「もし、成瀬の居場所を吐かないんなら、私は絶対に成瀬を見つけ出し、全生徒の前でお前のしたことをあいつの口から言わせてやる。今ならまだ、お前より成瀬の言葉の方が信憑性あるからな!!」
その言葉で桜井の足が一瞬、結城から遠のいた。
しかし、言うつもりはないのか黙って下を向いた。
「たぶん、視聴覚室ですよ。私、成瀬先輩に伝言を頼まれていた子に直接聞きましたから」
二人の間に入ってきたのは、百崎だった。
百崎は成瀬が演説に帰って来ないのを気にかけて、成瀬に話しかけていた生徒に問い詰めたのだ。
それを聞いた瞬間、結城は体育館から駆け出して視聴覚室に向かった。
そして、冷ややかな目で百崎は桜井を見つめる。
「ほんと、あんたって昔から最低な性格してるわよね」
桜井もちらりと百崎を見て答えた。
「お褒めの言葉を頂けて光栄です」
彼はそう言って委員会の人たちの案内に従い、再びステージに戻った。
百崎も不愉快そうにその後に続く。
成瀬は膝を抱えてドアの前で座っていた。
演説はもうとっくに終わっている時間である。
今日は生徒会選挙が終わったら一斉に下校となるし、いつになったら見つけてくれるのだろうと不安になった。
せめて、浜内ぐらいが心配して学校中を探してくれるのを期待するしかなかった。
そんな時、大きな音を立てて視聴覚室の扉が開いた。
そこに現れたのは、息を切らした結城だった。
結城は心配そうに成瀬を見つめていた。
「成瀬、大丈夫か!!」
その言葉がどんなに心強かったか、結城にはわからない。
こんな場所に閉じ込められるのも初めてで正直、怖かった。
冷静を装っていても、不安であったことは隠しきれない。
そう思うと自然と成瀬の眼から一筋の涙が零れた。
結城も成瀬が泣き出すとは思わず、焦り出す。
「お、おい! 本当に大丈夫か?」
結城は成瀬の顔を覗く。
成瀬は慌てて涙をぬぐった。
「うんん、大丈夫。生徒会選挙、もう終わっちゃったよね?」
成瀬は情けなく笑った。
彼自身が教室に閉じ込められると言う危機に直面していたのに、気にするのはそこだった。
本当に馬鹿だなと思いながら、結城は息をつく。
「大丈夫だ。泉はちゃんと最後までやり切ったよ」
結城のその優しい言葉に成瀬は再び涙が溢れそうになった。