美少女辺境伯と剣鬼の老人による、「騎士団、つくってみた!」
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辺境伯なので、彼女は原則、辺境にいる必要がある。最側近として彼女に仕えるのが、彼のもっぱらの仕事だ。彼女――肩までの金髪と橙色の瞳が殊の外美しい、とても見栄えのする少女であるレナスは、常にと言っていいくらい、間延びした時間を持て余している。一般的には相当なイレギュラーが起こらない限り、辺境の貴族は手透きなわけだ。まあ、それだけだ。どんなはずれくじを引いたところで、実際問題、暇なニンゲンは暇なのだから、やむなく暇で暇でしょうがないと感じる輩だっていることだろう、それがレナス――。
今日も執務室の、大仰なノブを右にぐいと捻り、ドアを引き、開ける。
セイレン・リーオー。
それが、彼の名だ。
セイレンは「おはよう」と毎朝の形式的な挨拶をした。上長に向かっては「おはようございます」のほうがかなり正しいのだろうが、あいにく主人とはそのような堅苦しい間柄にはあらず、むしろ、先方からはフレンドリーであることを望まれている。
セイレンの主人は回転式の椅子――それなりに豪奢な革張りの黒いそれに背を預けていた、大窓の向こうの雨空のほうを向いていた。
「おぉ、来たかね、おはようだ、セイレンくん。おはようなのだ、ふっはは」
頭にくるとまでは言わないが、なんだか、なんだろう、意味不明な余裕綽々さを正面切って披露されると不思議と――否、否が応でも顔をしかめたくなり、ついでに役目について嫌気までが差すというものものだ。
だがまあ、しょせんは側仕えだ。
まだまだ十代に過ぎないレナス辺境伯の、セイレンは側仕え――。
その役目に甘んじているのではない。
その立場を気に入っている――というわけでもないが。
*****
「あのね、セイレン、あたしはね? じつはあたしの今の身分、役割に、結構、満足しちゃっているのだぉ?」
相も変わらず謎めいた語尾をもってセリフとする少女だ。だぉ? なんだ、「だぉ?」とは? まあ、感心まではせずとも「ああ、こいつは面白い奴だな」くらいには感ぜられる。心が広いのだとセイレンは自身を評価する。で、なんだったか。現状に満足している? だったら、それがなんなのか。悪いことではないではないか。
「まあ、聞いてよ、セイレン翁」
「確かに私は翁とされる年齢だが、それがどうかしたか?」
「だって、やっぱ暇じゃん?」
「それはわかった」
「だぉだぉ? だから要するに、辺境伯すぎるということなのだよぅ」
またそんな話か。誰に対してというわけではなく、ただしつこく言うようで気が引けなくはないのだが――辺境と付くからぱっとした感は得られないのかもしれないが、しかしそのじつ、立派な貴族なのだ。低い位ではない。言ってみれば、勤勉であればそれだけでよいのだ。世にある地位とはそういうものだ。そういうものでしかない。
老年に突入した折からすっかり頻尿のセイレンは、話の途中であろうにもかかわらず踵を返してトイレに向かおうとする。主であるレナスが、「待てぇぇぇっ」と後ろから抱きついてきた。
「あたしはお手透きなのだよぅ、セイレンっっっ」
「レナス、私はトイレに行くので忙しいんだ」
「約束しよ? 約束」
「なんの約束だ?」
「あのね、あたしはいっちょ、やってやりたいんだ」
「だから、何をだ?」
セイレンの前へとレナスは回り込む。
長躯の彼を見上げ、にこりと笑んだ。
「肝要なのは正直さなので申し上げよう。あたしは騎士団をつくりたいんだ、えっへん!」
えっへん?
薄い胸を張ってみせたのである。
またわざとらしい振る舞いをしてくれたものだ。
「騎士団をつくりたい?」セイレンははっきりと首をかしげたみせた。「それは過ぎた行為だ。そこまでの権限は与えられていない」
「でも、どーしても編成したいのぉ」
「なぜだ?」
「つまるところ、確実な備えは必要だし、雇用も生まれるし――みたいな?」
一理あることをのたまっても、次の瞬間、「きゃはっ」と笑ってみせるものだから、都度、説得力に欠ける――という一面もあるのだが、なにせこちとら雇われの身なのだからと考慮する次第であり――。まったくおりこうさんなセイレン・リーオーである。
「わかった。望まれれば協力しよう。なにせ私は雇われの身だからな」
「やっりぃ」右手を突き上げ、レナスはぴょんと一つ跳ねた。「やっぱり強い男子には憧れるよね。だってあたしは女のコなんだし、しかもぴちぴちの」
「ぴちぴち?」
「そうだよ。ってゆーか、ぴちぴちぴちぴちじゃんっ」
老翁であるセイレンからすると、ぴちぴち、あるいはぴちぴちぴちぴちなる概念は遠く久しい。その頃を忘れてしまっていてもやむを得ないというものだ。
まあ、いいだろう。
「だが、やはり上役の許可は必要だ。正規の手続きは踏まなければならない」
「そのへんは事後、承諾してもらうってことでいいでしょ。そもそも諸先輩方はお尻で椅子を磨いているだけなんだから」
「そこまで把握しているのであれば、わかった」一つ頷いてみせた、セイレンである。「選抜は? 私がやればいいのか?」
「ううん。あたしがやるぅっ」なぜだろう、意味不明なまでに堂々としたウインクが飛んできた。「最後の最後の見極めってところを、きみにはやってもらいたいのだよ」
なるほど、理解した。理解したから「そろそろトイレに行ってもかまわないか?」との問いかけを急いだ。
「ほんとうにおじいちゃんだね」
呆れられた。
苦笑のような表情を浮かべるものだから、余計にそう見える。
トイレへの足を速めつつ、ちくしょう、ああ、ちくしょう。なぜ、どうして、相手は辺境伯とはいえ、私は少女の飼い犬に成り下がっているのだろうか――と考える。もう引退してしまえばいいではないか。晴耕雨読の日々で良いではないか。なのに、なぜだ? なぜ、レナスのことが気になってしょうがないのだ?
トイレから出たところで、レナスが待っていた。にこっと笑って、セイレンの前を歩く、先導するように。なんだなんだ、景気がいいまでに機嫌良さげだなとの感想を抱きつつ、後に続く。
「あのね、セイレン、騎士団とかつくれちゃったら、あたしもいっぱしってことにならない?」
よくわからない物言いだなと思う。しかし、何か仕事がしたい、何か成果をあげたいというのは事実なのだろうし、だったらその行為自体はポジティブに解釈してやるべきだ。そもそも、今の年齢にして爵位を継いだのだ。どの方向にどれだけのパワーで突き進むのかはわからないが、やる気なのは間違いないし、その意気込みはどうしたって買える。
「もっかい言っとく。最後はあたしが決めるけど、意見はしてね? セイレンがダメだって言うなら、考え直すかもだから」
「物申すような真似はしたくないな」
「ん? どうして?」
「自分のことは自分で決めるべきだからだ」
「厳しいなぁ、ただの側近のくせに」
「ただの側近だからこそ、だ」
レナスが振り返った。
セイレンに向けて、右手で「いぇーい!!」とブイサイン――不可解だ。
*****
辺境は辺境だからという理由で、兵の配備がないわけではない。戦闘の折には上からお達しがあるわけだが、急ぎの場合等は交戦の是非自体、辺境伯に委ねられる。だったらなおのこと、その辺境伯は戦力を常に把握しておかなければならない。それはあたりまえのことなのだ。「騎士団を編成したい」というのは文言からするとレナスのわがままでしかない。しかし、それはそうあっていいことだし、ゆえに誰も異論の唱えようがない。中央の上役からしたって許可を与えるしかない――という寸法だ。
黒塗りの大きな執務机の向こうの革張りの回転椅子に座り、くるくる回っているレナスである。
「わかってはいたことなんだけど」
「なんの話だ?」
「えっとね? すでに師団とか旅団とか、そういうものはあるんだ」
「固有名詞の問題なら調整すればいい。何も騎士団にこだわる必要は――」
「ヤダ。あたしは騎士団がいいっ」
そら、きた。
また、あからさまなわがままを言う。
「いくつつくるんだ?」
「まずは一つ。筋肉質な屈強の兵隊さんを募りたいんだ」
異議はない。まずは一団を設けてみて、それがうまく機能するようであれば、臨機応変に追加を考えればいい。
「どうあれ準備は万端か」
「うん、完璧。問題ナシ」椅子から腰を上げたレナスである。「さて、では参ろうか、我が騎士、セイレン・リーオーよ。立派な騎士団を編成しようぞ」
なんだ、その妙に偉そうで大仰な口ぶりは。とはいえセイレンは仕える立場だから、何があろうと許容するしかないのである。ぎゃふんとでものたまえば良いのだろうか――。
*****
選考会――一対一での決闘じみた立ち合いを経て、結果、一人、「こいつはスケール的にヒトを率いる器だろう」という者が現れた。年齢は二十歳と若く、将来性がある。刈り上げた短髪が気持ちいい。短躯なのはご愛敬だ。細身ながらも、試合の中、鍔迫り合いにおいても力負けをするようななかったのだ。ただ一つ、少々の問題点を抱えていた。トーナメントを勝ち上がり、立ち上がってぱちぱちと手を叩き賞賛の意を示すレナスの前に来ると、求め、差し出された彼女の右手を取り、甲にキスをしたのだ。キザったらしい好色の男と知れたわけだ。べつに嫌そうな顔はしなかったが、「あはは」と笑ったレナスが少し戸惑っている節は垣間見えた。
*****
例によって、レナスの執務室である。応接セット――レナスが一人掛けのソファにつき、向かいの二人掛けには彼女から許しを得た上で、選考会の優勝者である二十歳の若者――ヒューゴーが座っている。色を好むらしいとは見当がつき、また知ったが、そこに悪意は感じられず、だから言ってみれば好青年でしかない。レナスはにこにこ笑んでいる。セイレンは彼女の左隣に立っているわけだが、二人のあいだに特段の問題が発生するとは思えない――そんな空気が漂っているのだ。
「ヒューゴーさん」
「とんでもありません。ヒューゴーとお呼びください」
「だったらヒューゴー、私はあなたを騎士団の長に任命しようと思います。引き受けてくれますか?」
「もちろんです、レナス様。あなたのための騎士団だと考えると、私は喜びに打ち震えるしかありません」
「レナスでいいってば」ついに破顔したレナスである。「仲良くしよーっ。あたしはそれを望んでますっ」
ヒューゴーも柔和な笑みを浮かべ、喜ばしいとでも言わんばかりに、「はっ!」とキレの良い返事をした。「承知いたしました、姫様!」という声も、しゃんとしたものだった。
*****
翌朝。あちこちからの嘆願書の束を抱えてレナスの執務室を訪れたところ、彼女はすでに片っ端から書類にはんこを押していた。「うがーっ、うがーっ」などと謎めいた雄叫びを上げながら、次から次へと捺印する。そもそも嘆願レベルの紙切れについて偉い位にあるニンゲンが目を通すというのがイレギュラーなのだが、そのへんはレナス自身が望んだことだ。だからこそ、勢い良くぱっぱぱっぱと処理するのはいただけない。だが、本人もそれはわかっているだろうから、あえてツッコミを入れたりはしない。好きなようにしたらいい。明白なミスを犯すようなら、いつか誰かが咎めにくることだろうから。
セイレンは執務机に追加の書類を置いた。当然、「うげげっ」と苦々しい感じに顔を歪めたレナスである。
「酷いよぅ、無情だよぅ、デスクワークだけで一日が終わっちゃうよぅ」
「だったら、立場を降りたらいい」
「意地悪っ」
ぶうたれながらも仕事をこなすあたりは可愛らしい。ただはんこを押しているわけではなく――じつはわかってはいるのだ、スピード感をもってきちんと目を通している。非凡と言える才能だ。なにせ、頭の回転が速いのである。
――と、ドアがノックされたのはそのときだった。
激しいノックだ。セイレンと同い年の執事の老人の声――「お嬢様、お嬢様っ!」などと聞こえてくる。
「お嬢様じゃないよー、レナスちゃんだよーっ、でも、入っていいよーっ!」
そんなふうに、レナスは大きな声で許可を出した――執事が入ってきた次第である。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「それが……」
執事は白いハンカチで額の汗をしきりに拭いながら、「紫肌が現れたとの報でございます」と述べた。紫肌――その名のとおり、紫色の肌をしたニンゲンに近い見た目の存在だ。そのじつ蛮族であり、怪物と表現して差し支えない。「えっ」と驚いたふうなレナス。いっぽう、セイレンは表情を変えることなく、「また現れたか」くらいにしか思わなかった。しかし、久しぶりの来訪であることは間違いない。レナスが着任してからは初めてのことだ。若干でも怯み怯えるようなところを見せるかと思ったのだが、そんなことはなかった。彼女は冷静かつ毅然とした口調で「数は?」と問いかけたのだった。
「五百はいるとのことでございます」
「五百?」レナスはピンとこなかったらしい。「セイレン、それは多いの? 少ないの?」
「連中にしては多い」
「でも、そのくらいの数なら――」
「五百なら多いと言った」セイレンは言う。「奴らを駆除するには、一般兵で換算すると、一匹あたり、最低三人は必要だ」
「そんなに? で、いったい、何が目的なの?」
「略奪と凌辱だ」
……わかった。
そんなふうに、レナスは首を縦に振り――。
「あたしがやる。先頭に立つ」
セイレンは眉を寄せた。「馬鹿を言え。おまえごときが敵う相手じゃない」と告げ、「ここでじっとしていることだ」と言いつけた。
しかし、「ヤダ」と返してきて――。
「誰が死ぬのも嫌だもん。だったらあたしが戦うんだもん」
額に右手をやり、首を横に振ったセイレンである。
「セイレンはどうするの? あたしのそばにいてくれるの?」
「前に出ようと考える」
「だっ、だめだよ、そんなの」
「街に入れなければおまえを守ることにもなる」
「だったらあたしも――!!」
「だめだ。ここで報だけを待て」
いやだ!! 大きな声を出して立ち上がると、セイレンのことをじっと見てきたレナスである。
「そんなの聞くくらいなら、あたしが真っ先に死んでやるんだから!!」
悪い報せを見聞きしたくないから、真っ先にこの世とオサラバする。
そういう輩を、ヒトは卑怯者だと呼ぶのだが――。
ひとまず、強い目をしている。
だったら――許可してやろう。
これ以上、ここで足止めに時間を食うのは有意義とは言えない。
守ってやればいい――無駄な労力を費やすことにはなってしまうが。
「わかった。行くぞ、レナス、剣を取れ」
「うん!」
レナスは執務机に立てかけてあった鞘――剣を取ってきた。それを腰に帯び、少々緊張感した表情ながらも、「行けるよ!」と宣言した。「お嬢様、お気をつけて」と深く頭を垂れた執事に「大丈夫」と頷いて見せると、勢い良く戸を開けた。セイレンも続く。勇ましいことだ。ノーブル・オブリゲーションくらいはきちんと理解しているらしい。
赤絨毯が敷かれた廊下を歩いているときのことだった。角を曲がって、若い男が姿を現したのである。大きな薔薇の花束を持っていて――真白の軍服に身を包んだ茶髪、短髪の彼は先達て騎士団の長に任命されたヒューゴーだ。ヒト、特に男の顔を覚えるのは苦手なセイレンであるが、見間違いはないだろう。
レナスは立ち止まり、だがすぐにのっしのっしと歩きだし――肩を怒らせているのがわかった。
自分と同じくらいの背丈のヒューゴーの前で、彼を見つめるレナス。後ろで立っていても――見なくたってわかる。レナスは怒っている。
「ヒューゴー団長、あなたはここで何をしているの?」
「手が空いているので、訪問させていただきました。この花束をお贈りしたかったのです。綺麗でしょう? 特に良い出来なのだと、花屋からも聞かされました」
「あなたは何も知らないの?」
「というと?」
レナスが右手で、ヒューゴーの左の頬をぶったのである。
ヒューゴーは頬を押さえ、驚いたような顔をした。
「紫肌が攻めてきたの! なのにあなたはこんなところで何をしてるのかって訊いてるの!!」
えっ。
ヒューゴーはいよいよ目を大きくする。
「紫肌? ほんとうですか?」
「嘘なんて言わないよ! なんでそんなに呑気なの!?」
「いえ、花を吟味しておりましたので、それなりの時間、席を外しましたから」
とにかく頭にきているらしい。レナスは今一度、ヒューゴーの頬を平手打ちしようとする。手首を掴むことで、セイレンはその動きを制した。こんなところでしょうもないことに時間をかけている場合ではない。
「行くよ、ヒューゴー団長。これ以上、うだうだ言うようなら地位を剥奪してやるんだから」
それは乱暴に強権を振るうのと同義なのだが。
ヒューゴーは「わかりました」と物分かりがいい。追いついてきていた執事に花束を手渡すと、先頭に立って歩きはじめた。
「ひょっとして、姫様もお出になるんですか?」
「姫様なんて偉そうなものじゃないんだけど?」
「私にとっては姫様です」すっすと進むヒューゴーは――体幹がしっかりしているのだろう、今日もなかなかに姿勢がいい。「危ないと思います」
「知ってる。でも、我慢できないから」
「わかりました。お守りします」
「そうだよ。挽回してよね」
花束をお贈りする。
それはそんなに悪いことなんでしょうか?
――などと、ヒューゴーは空気の読めないことを言った。
その旨、気に食わなかったのだろう、レナスはヒューゴーの背を両手でどんと押した。
「失言でした。申し訳ありません」
笑った、ヒューゴー。
まったく、この青年の言動のどこからが冗談で、どこまでが真なのか。
*****
足場が悪い。ぬかるんでいる。昨日まで降り続いた雨のせいだ。馬は泥を跳ね上げる。最も体重が軽いし、微差なれど最も足の速い馬に騎乗しているからだ。レナスが先頭をゆく。セイレンとヒューゴーは懸命に手綱をしごいて追いかける。「待て! レナス!!」という声も満足に届かないらしく、彼女はどんどん先行してしまう。
まだ領内を出てから間もない箇所にて接敵、紫肌――怪物どもと対峙した。まずいな。前線は食いちぎられそうだ。相手が五百なら我が軍は最低でも千五百、安心を得るなら二千は必要であるわけだ。急ごしらえでその数は難しかったということか。危機感が足りないとか、見込みが甘いとか、そういったことはいろいろと言えるが、改善策を立てようにも、それはこの場を凌ぎきってからのことだ。
いよいよ最前線。レナスが馬を急停止させた。臆したのだろう、なにせ初めての戦場だ。セイレンとヒューゴーはあっという間にレナスを追い越し、馬から飛び降りた。二人して剣を抜き、早速、斬りかかる。玄人連中にはいまだ「剣鬼」と恐れられるセイレンだ。腕力は若い時分よりずいぶんと衰えたものの、それでもまだそのへんの奴らに後れを取ったりはしない。ばっさばっさと斬ってまわる。斬って斬って、斬りまくる。唐竹にし、大袈裟にし、紫色の返り血を浴びながら、少し離れたところで戦っているヒューゴーに目を向けた。強い。力強く、また鮮やかな剣さばきだ。いける、これなら。負けようはずがない。そのうち、紫肌どもが逃げだした。無防備に背を向け、走りゆく。これで良かった。自軍の死者は少なくないが、守りきったことで戦勝と言えた。
なのに――。
レナスが追いかけてしまう。
あらかた片づけ、退けたのだ、もう相手をする必要はない。
あっという間にかっとんでいってしまったので、もはや声すら届かない。
セイレンより早く、ヒューゴーが馬を駆ってあとを追った。セイレンも近くの馬を拾い、急ぎ、続いた。追いつき、並走のかたち――。
「ヒューゴー、いい、下がれ!」
「そうもいきません! だって、姫様なんですから!」
「私がなんとかすると言っている!」
「五百も使った陽動作戦だったんですね!」
ああ、そのとおりだ。
だから、これ以上追うのは、著しく危険が伴う。
やがて森に入り、馬がバテるまで進んだ。えらく開けた原っぱに出ると、向こうに長い杭に囲まれた集落が見えてきた。間違いない、紫肌の拠点だ。その前方で兵が待ち構えている。知能なんて低いであろうに、立派な鶴翼の陣。嫌な予感が確かな感覚として全身の肌をひりつかせる。
馬を止めたレナスに追いついた。紫肌の動きは速かった。森の中に潜んでいたらしく――その気配は明らかに窺えたのだが――後方にも蓋をされてしまった。いっぽうでこちらはなんとかついてきた兵を加えても三十にも満たない。我が軍にあって最も屈強な騎士団のニンゲンも混ざってはいるものの――。
レナスは馬上で動かない――きっと動けないでいる。しかし、セイレンが「レナス!」と叫ぶと、首を横に振ってみせた。緊張からか、怯えからか、ぎこちない様子で馬から降りると――それでもしっかりと、鞘から抜いた剣を構えたのである。
とことん馬鹿な姫君だ。
己一匹では勝てっこないというのに。
震えることをくり返す手でいったい、どうしようというのだ?
包囲網がじょじょに狭まる。
あらゆる欲にまみれた紫肌だ、ゆえに下卑た笑い声が聞こえてくる。
「あっはっは!」と豪気に、ご機嫌なまでにヒューゴーは大笑いしたのである。
ヒューゴーは馬から降りると、遮るようにしてレナスの前に立った。
セイレンは馬に乗ったまま近づいた。
「姫様、お逃げください。ここは私が支えます」
「む、無理だよ。だって、敵はあんなに――」
「それがおわかりなら、どうしてここまで踏み込まれたのか」
「それは……」
「重ねて申し上げます。お逃げください」ヒューゴーはぴしゃりと言い。「逃げられますよ。だって、伝説の剣鬼が一緒なんですから」
「でも、そんな――!!」
くるりと身を翻し――ヒューゴーはレナスのことを、きっと力一杯に抱き締め、頬にキスまでて――。
「ヒュー、ゴー……?」
「短い時間しかお仕えできませんでした。しかし、あなたに選んでもらえたことは、私にとってなによりの誇りなのです」
右手から剣を落とすと、レナスは「うえぇ、うえぇ」と泣きだした。
ヒューゴーが拘束を解いた――彼の名を呼ぶレナス。それでも「早く!」と怒鳴られると、馬の背に跨った。細い声で、呟くように、「ヒューゴー……」とまた言った。
「もはや悔いなし!!」
ヒューゴーは敵軍目掛けて突進する。紫肌一匹に対して三人必要なのは事実だが、彼に関してはその限りではない。一騎当千をやってのければ、そのときは帰還することができる。まったく可能性がないわけではないと、セイレンは思うのだ。
「ヒューゴー! ヒューゴー!!」
「行くぞ、レナス! 奴の心意気を無駄にするつもりか!!」
「でも!!」
「ついてこい!!」
退路について突破口を開くべく、セイレンは馬を走らせる。頃合いを見計らって降り、迫りくる者どもを蹴散らす。最低限でいい。最低限、逃げ道をこしらえることさえできればそれでいい。「おぉーっ!!」と聞こえた。揃った声だ。自軍を、自らを鼓舞するような大きな声だ。そうか。援軍か。動きについては遅くない。指示を出したのは頭の良い、的確な判断が出来る奴らしい。
もう大丈夫だ。
「レナス、行け! とっとと帰っていろ!」
「でも!」
「問題ないと言っている! 私が引き返す!!」
唇を噛んだことだろう。
悔しげな表情を浮かべたことだろう。
しかし、レナスは指示に従ってくれた。
レナスの後ろ姿を見届けると、セイレンは紫肌が落とした槍を持って馬に乗った。レナスの退路の確保については増援で事足りるだろう。しかし、ヒューゴーが立ち向かった、大げさな陣まで敷いていた連中は――。
増援にはなんとしても前線までたどり着いてもらわなければならない。そうあることを信じて、なんとかして時間稼ぎをしなければならない。
セイレンは急ぐ、急ぐ、急ぐ――。
*****
乱暴なまでに槍を振るい、紫肌どもを蹴散らす。腕力は若い頃の半分程度だろうか。それでもそんじょそこらの奴には負けない、負けてやらない。先端で突き、柄で叩き、刃で斬る。ヒューゴーは囲まれていたのだが、なんとかそこまで割って入ることができた。
槍を捨て、馬から飛び降りると、セイレンはすぐさま剣を抜いた。
「ヒューゴー、いいぞ、よくやった。退け。あとは私で十分だ」
「この数です。勝てるとは思えない、いくら剣鬼でも限界はある」
「こういうのは老いぼれの仕事だ。おまえには未来がある。だから、引け」
「私は――俺は、もう助からない」
ヒューゴーは薄い鎧を身に着けているのだが、ぼろぼろであることからもはや機能を果たしているとは言えず、しかも、手斧を叩き込まれたのだろう、背中に大きな手傷を負っている。息づかいも荒く、いつ倒れてもおかしくないといった印象を受ける。
悔しさに、セイレンは歯噛みした。
こんな気持ちに悔しさに満ち満ちたのは、いつぶりのことだろうか。
セイレンとヒューゴーが背を合わせあい、たがいにおしゃべりをやめた段になって、紫肌の連中はげらげらげらと下品な笑い声を発しはじめた。負けたら、まあ、食われるのだろう。だからこそ、負けてやるつもりなど微塵もない。しかし、斬っても斬っても湧いてくる。数が多い。といってもやはり全盛期なら……いや、それでもきつかったか? ――そうは思わない。誰になんと言われようと、生涯無敗でいなければならない。それが剣鬼と呼ばれる男の意地だ。
まだ増援は到着しない。そもそも専守防衛の体制であり、兵はテキトーな数しか与えられていないのだ――と今更ながらに実感する。それでもこれまでやってこられたのだから、その判断はあながち間違いとも言えないのだろう。しかし、ここまでしてやられるなら、攻め滅ぼすことも考える必要があったのではないかと思わされる。――そんなことを言っても、もう遅い。
狭まる包囲網。
次々に迫る敵。
剣鬼は屈しない、ヒューゴーも。
結局――どれだけの時間、戦ったのか。
増援が着くより先に、紫肌どもは我先にと逃げだした。
ああ、そうか。
やり抜いたのか……。
荒い息。
痺れた手。
疲れて膝が笑っている。
無様だ、何が剣鬼か、まったくもって、情けない。
両膝から崩れ落ちたヒューゴーが、そのままどっと前に倒れ込んだ。
セイレンは近づき、彼を仰向けにし、背に右手を回し、上半身を起こしてやった。
「勝ちましたね」ヒューゴーは笑顔だ。「そもそも、勝てる争いだったんだ」
「ああ。騎士団長の面目躍如だ」セイレンも笑みを浮かべ、頷いた。「おまえは偉い。それはもう、立派なものだ」
ヒューゴーが血を吐いた。
もう助からない。
そんなこと、わかりきっている。
「言い残すことはあるか?」
「姫様に愛していると伝えてください」
「わかった」
ヒューゴーの身体はがくりと力を失ったのだった。
*****
喚くように泣きに泣き、泣き――いつまで経っても、レナスは泣きやまなかった。ヒューゴーの最後の一言は伝えるべきではなかったのだろうか。――否、伝えてほしいと頼まれたのだから、伝えなければならなかったのだ。
今度は執務机に突っ伏した、レナス。やはり大声で泣く。右手でどんどんどんっと机を叩きもした。かける言葉が見当たらない。老いと呼べるまでに年を重ねようと、こういう場合、何も言えなくなる。何も言わないほうがいいのかもしれないが――。
突っ伏したままのレナスがくぐもった声で、「騎士は……」と呟いた。それから、「騎士にとっては、死こそが名誉なの……?」と、弱々しいながらも訊ねてきた。
そうではないから、セイレンは「違う」と答えた。「恨むなら私を恨め」と付け加えた。
「どうしてセイレンを恨まなくちゃなの?」
「誰かを恨むことで気が済むのなら、私はおまえにそうしてもらいたい」
レナスはようやく、ゆっくりと顔を上げた。
「あたしは誰も恨んでないし、誰も恨まないよ?」
「好きにしたらいいと言った。そして、泣きたいのなら、もっと泣けばいい」くるっと背を向けたセイレン。「外で待っている。落ち着いたら呼んでくれ」
すぐさまレナスがセイレンの前に回り込んだ。潤んだ目で見てきたかと思うと、彼の胸に額を押し当てた。
「紫肌は潰さなきゃ。悪いけど、あんな奴ら、生きてちゃいけない」
「弔い合戦というわけだ」
「だめ?」
セイレンは「だめじゃない。私が先頭に立とう」と答え、「抱き締めて」と言われたから、応えてやった。小さな頭を撫でてやりながら、彼の人物について、思いを馳せる。
ヒューゴー、おまえは偉い。少しドジなところもあったかもしれないが、立派な最期だった。もはや老い先短い身ではあるものの、勇敢な騎士団長であるおまえのことを、剣鬼・セイレン・リーオーは一生、決して、忘れないぞ。
セイレンの左の目尻から、一筋の涙が頬に伝った。
年を取ると涙もろくなる、その証左と言えた。