アイドルとオレら
「あのさ、今日は十時には切り上げよう」
渋谷がきりだした。大塚は不思議そうに渋谷を見つめ、中野は一瞬で不満に満ちた顔に変えた。
「どうして、今日はとことん飲み明かす気が、満々だよ。この店の酒、オレたちで全部、飲むつもりで来たんだよ」
中野が抗議する。給料日あとの金曜日の夜八時、駅前の居酒屋で、久しぶりの三人の飲みだった。職場は一緒だが、なかなか都合がつかなかった。特に、中野がこの飲みを楽しみにしていた。なんだかんだで、独身男が集まって飲むのは、楽しくてしょうがないのだ。すでに、始まってから一時間たち、ほどよく酔いが回ったところだった。
「悪い。明日ちょっと予定があって、早く起きないといけないから」
「予定ってなんだよ?」
「ハーブティーレディのイベントに参加してくる」
説明しよう。ハーブティーレディとは、カモミール啓子とローズヒップ麻里、レモングラス明美の三人組のアイドルユニットである。「疲れた心を、ホッと癒す」をコンセプトに、疲れた独身男性に大人気だ。
「いいな。え、どこでやるの?」
大塚が食いついた。
「お台場。生のハーブティーレディを観てくる。というか、入場無料だから、大塚も行く?」
「行く行く。麻里ちゃん観たい」
「へえ、大塚、麻里ちゃん派。オレ、明美ちゃん派」
「で、何時から?」
「それが、朝の九時」
「早いな。なら、今日は十時で切り上げよう」
渋谷、大塚が盛り上がっているなか、中野は不満に満ちた顔は変わらなかった。
「はいはい、ようするに、気心しれたオレたちの楽しい飲み会よりも、裏では何しているかわからない、女に会いに行くのを優先するのね」
中野は不満をつぶやき、クエン酸サワーを飲み干した。
「もしよかったら、中野も一緒に行かないか?」
「生でアイドルを観られるなんて、やろうとおもわないとできないじゃん」
渋谷、大塚は中野を誘いだした。しかし、中野の仏頂面は止まらない。
「いやだよ。そんな、入場無料のアイドルイベントなんて、めちゃくちゃ混むだろ」
「だけど、ハーブティーレディだぜ。ハーブティーレディを無料で生は、めちゃくちゃ混んでいても、行く価値はあるよ」
「いやだ。そもそも、オレ、ハーブティーレディに、そんな、興味がない。というか、アイドルに興味がない」
「そうだ。今、興味がないなら、ためしに明日、行ってみようよ。他のアイドルと違って、ハーブティーレディは、中野も楽しめるから」
「いやだ。あえて言わせてもらうなら、アイドルを楽しむなんて、本当、馬鹿げていると思っているから」
中野の態度は、ダイヤモンドよりもかたい。逆に、なぜそこまでかたいのかは、大塚、渋谷ともに気になった。ここまで話したところで、店員がおかわりを聞いてきたので、一度、会話が中断された。三人は、各々、ドリンクを注文した。少しの沈黙が流れた。
「だって、どんなに頑張ったところで、オレたちがアイドルを抱ける確率は、限りなくゼロだろ」
中野に、なぜ、そこまでアイドルに興味が持てないか聞いてみた答えがこれだった。
さらに中野は続ける。
「かりに、オレがカモミール啓子にハマったとする。応援する。そして結果をだしてくれる。活躍する女は、どんどんきれいになっていくんだよ。そしたら、どんどんこっちもハマっていくんだよ。どんどん、ハマっていったところでさ、抱けないんだよ。オレは、そんな苦行の道に走る気にはなれない」
「いや、オレたちアイドルをそんな感じで観てなかったから。かわいい女の子が頑張っている姿に癒される気持ちでいたから」
大塚が反論した。中野がさらに返す。
「ちょっと、街を見渡してみろよ。頑張っているかわいい女の子なんて、ゴロゴロいるだろ。それなのに、アイドルにこだわる理由はなんなの?」
大塚は言葉に詰まった。調子に乗り、中野は続ける。
「さらに、街のかわいい女の子は、アイドルと比べて、抱ける確率が跳ね上がるんだよ。出会って口説くことができるんだよ」
中野は得意な顔になっている。大塚は、もう言葉を失っている。
「ということは、最近、中野は街のかわいい女の子とイケないことやったの?」
渋谷の質問に、中野の得意な顔が、みるみる曇っていった。曇っていっただけでない。そうとうな一撃だったみたいだ。静かに涙がこぼれた。
「確率は、跳ね上がっているはずなんだけどな」
涙といっしょにこぼれた言葉がこれだった。
このまま、この飲み会は盛り上がりを失い、九時前にお開きとなった。大塚と渋谷は次の日、ハーブティーレディのイベントをおおいに楽しんだ。
中野の行方は、知らないほうがいい。