第三話 台風一過
次の日の朝、自宅のリビングで朝食に添えるコーヒーを淹れていると、ちょうど起床したらしい理亜が二階の自室から降りてきた。
無表情は相変わらずだが、瞼の上がりきっていない瞳と寝ぐせのついた髪が寝起きを伺わせる。
寝間着として僕の服を貸しているせいか、華奢な身体と衣服とのサイズが合っておらず、なんとも言えない不格好さだ。
「おはよう」
「…………おはよう」
愛想の欠片もない挨拶。それでも、理亜が挨拶を返してくれたことに僕は大きく安堵した。
あまり思いたくはないが、今までの彼女の反応からして無視をされても不思議ではないわけで……。
正直スルーされる覚悟はしていたのだが、元々挨拶はしてくれる子なのか、それとも昨日の一件で少しは信用してくれたのか、どちらにせよ予想が外れて嬉しいこともあるものだ。
「洗面所にタオルを用意しておいたから顔を洗ってくるといい。君が戻ってきたら朝食にしよう」
「朝、食……」
「ああ、もしかして基本朝は食べない派?」
「……朝に、ご飯を食べるの?」
「そうだけど……」
質問に質問で返されて、僕は今一つ自信に欠ける返答をしてしまう。
別に理亜の問いが難しかったわけではない。答えようと思えば自信をもって返事が出来る内容であったし、実際にそうすることもできた。
けれど、ただ何となく理亜が“朝ご飯”という単語そのものを理解できていないような気がして、どう答えるべきかどうか迷ってしまったのだ。
もしかすると彼女は朝ご飯を“食べない”のではなくて“食べたことがない”のではないか。
そんな考えが脳裏を掠めて、そして途端にそのことが頭から離れなくなる。
思えば、初めて出会ったあの日から理亜が食事をしている姿を見たことが無いが、一体どのようにして飢えを凌いでいるのだろう。
「君、普段いつ食事をしているんだ?」
「……食べられる時に。決まった時間なんて、ない」
相変わらずというか、表情一つ変えずに理亜がそんなことを言うので僕は密かに息を呑む。
まさかとは思うのだが、出会ってから今まで理亜は食事をしていなかったりするのだろうか。
流石に水分は取らなければ倒れていると思うので、恐らく公園の水飲み用の蛇口などから水分補給を行ってはいると思うのだが、金銭を持っていない彼女が食べ物を得られる手段はほぼないはずだ。
ましてや理亜は他人からの施しを受けたがらない。これらの条件から導き出される結論はもはや一つしかなかった。
「だったら朝食は食べるといい。食べれる時に、なんだろう?」
「でも、私は何も返せない……」
ぽつり、と理亜がこぼしたその言葉が、予想通り過ぎて僕は思わず苦笑いしそうになる。
恐らく、これが彼女の矜持とも言うべきものなのだろう。理亜はいつも受けた恩を返すことを考えていて、返しきれないと判断した場合は絶対に受け取ることはしない。
「ならこうしよう」
少し強い言い方になってしまったのは、どうにかして理亜に言葉を伝えようと必死になっていたからだろう。
施しが受けられないというのは大いに結構なことだが、これ以上無理をされると逆にこちらが見ていられない。
それに今日は思い付きで計画していた予定もあるし、丁度良い機会だ。
「食事を用意するよ。君のために。その代わり今日一日君の時間を僕にくれないか?」
「時間……」
「そう時間。これなら君も気兼ねなく食事ができるだろう?」
束の間沈黙。
無表情のままの理亜はどうするべきか迷っているというよりは、少々困惑しているようにも見えたが、最後には控えめな頷きを返すのだった。
朝食後、食事と引き換えに理亜の一日を手にした僕は理亜を家の外へと連れ出した。
外出の理由は多々あるが、主な目的は理亜の身なりと身の周りのものを揃えることだ。
父の和弘が引き取ったことをきっかけに共に住むこととなった理亜だが、着ていた服以外の持ち物がほぼなく、そしてそれらも傷みや汚れの酷いものばかりときている。
即興で歯ブラシなどの必需品は買い足したものの、まだ足りないものが数多くあるということで、こうして買いに行くことにした訳だ。
ちなみに外は文句のつけようもないくらいに快晴で、おまけに気温も湿度も高い。
まさに台風一過の青空である。
汗ばむ陽気に目を眇めつつ、理亜を連れて最寄りの駅から電車へ乗り込めば、運良く座ることができた。
「……どこ、行くの?」
冷房の効いた涼しい車内で息をついたのも束の間、珍しく理亜から話を振られて僕は思わず目を瞬く。
見れば隣に座った理亜が怪訝そうにこちらを見つめていた。
「色々行くつもり。まずは美容院かな」
「……美容院?」
「そう。君の髪、もう長いこと手入れをしてないんじゃないか?」
ずっと気になっていたことを口にする。
出会った時から思っていたが、理亜の髪はかなり伸びきっている上に、男性の僕から見てもそれが分かるくらいには傷みが酷い。
枝毛なんかを処理して貰わなければ、シャンプーやトリートメントでケアを行う以前の問題だろう。
「ちょうど二駅先に叔母……父さんの妹が経営してる美容院があるんだ。そこなら希望も言いやすいし、その傷みきった髪をどうにかしてもらおうと思ってね」
「……別に、困ってない」
「そういうことは関係ない。周りを不快にさせない身なりでいるっていうのはそれだけで意味があるのさ」
ふ、と薄く笑う。どちらかというと嘲笑に近いものだったかもしれない。
悲しいことだが人というものはやはり見た目や清潔感を気にするものだ。身なり悪ければ中身を見てはもらえないし、場合によっては侮蔑の原因となることだってある。
逆に最低限の身なりさえ整えていれば、周りと積極的に友好関係を築かなくても外観を罵られることはまずない。
実際、僕はそうやって生きて来たし、そうするだけで互いに不快な思いをせずに済むというなら、やらない手はあるまい。
「まぁ、君は黙ってついて来てくれればいい。逃げたりはしないでくれよ。このためにわざわざ君の時間を貰ったんだからさ」
一応逃げられないように釘を刺しておく。
「……わかった」と答えた理亜の声は電車の走行音と車内のアナウンスに掻き消され、僕の耳には届かなかった。
叔母の営む美容院は駅から五分ほど歩いた場所にある。
賃貸ビルの一階部分を間借りして構える小さな店で、他の美容院や理容院に比べれば随分小ぢんまりとしているように見えるが、実は叔母自身の腕の良さや、木材を多く使用した雰囲気のいい店内なんかが人気を集めていて、毎年黒字を叩き出せる程度には繁盛しているらしい。
元々店内の席数が少ない上に、最近顧客が増えてきたとの事で予約が取れるか心配だったのだが、電話をしたら喜んで時間を空けてくれた。
「文姉、来たよ」
「あら、いらっしゃい路惟ちゃん」
理亜を連れて店に入ると早速叔母の文乃が出迎えてくれた。
父親と同じ黒であるはずの髪を美しい茶色に染め上げて、軽く結い、纏めている彼女。
元々の顔立ちが良いということもあるだろうが、その髪型に関しては流石美容師と言ったところで、実年齢よりも随分と若く見える。
「伝えてた時間より早いけどいい?」
「大丈夫よ。それにしてもこの前来たばかりなのに珍しいわね」
「いや、今日は僕じゃなくて、この子の髪をどうにかして欲しいと思ってさ」
後ろで身を隠すように縮こまっていた理亜を指差す。
すると叔母は納得したように頷いて見せた。
「ああ、この子ね。兄さんが引き取った子供っていうのは」
言いながら、まるで影のように息を殺している理亜を見つめる文乃。
対して視線の圧を食らった理亜は少しだけたじろいでいるように見える。
「いいわね~。弄り甲斐がありそうな髪をしてるわ。どうしたいかとかは決まってるの?」
「いや特には……。一応彼女の希望を聞いてほしいんだけど、何も答えないようだったら好きにしてくれていい」
「なかなかアガること言ってくれるじゃない」
ほんの一瞬だけ不敵な笑みを浮かべた文乃は、その後満面の笑みを携えて理亜を席へと案内してゆく。
僕はそんな二人の姿を尻目に苦笑を浮かべつつ、待合席へと腰掛けた。
「お待たせ路惟ちゃん」
ふとそんな声が頭上掛かったのは美容院に来てから一時間と少し経った後のことだった。
弄っていた携帯をしまいつつ、顔を上げれば心底満足そうな笑みを浮かべた文乃――と、いつも通りの無表情の中に疲れを滲ませている理亜がいる。
――へぇ。凄いな。
理亜の髪型見て僕は思わず目を見張った。
ショートとボブの間くらいの長さでカットし程よくボリュームを持たせつつ、サイド長めに残すアレンジを施した女子ならではの髪型。
トリートメントなども付けてもらったらしく、傷みの酷かった髪にはほんの少しだけ艶が戻り、以前とは見違えるほど良くなっている。
実際、その髪型は理亜にとてもよく似合っているし、外に出ても不快感を抱かれることはまず無いだろう。
なんなら、理亜の顔はとても整っているので周りから好印象かもしれない。
「流石、文姉」
「はい、不合格」
「は……?」
賞賛したつもりが、溜め息を返されて困惑する。
一体何が“不合格”だというのか。
「路惟ちゃんねぇ。私の腕を褒めてくれるのはありがたいけど、他に言うことがあるでしょう?」
「ん? ああ、ありがとう。文姉」
「お礼じゃなくて……」
はぁ、とわざとらしく頭を抱えて見せる文乃。
「まったく、兄さんそっくりね。気は遣えるのにどこかずれてるっていうか……。理亜ちゃんに何か言ってあげることがあるでしょって意味よ」
「ああ、そういう……」
今更ながら、納得する。
確かに今回見た目が変わったのは理亜であり、文乃はその作業をしたに過ぎない。
外観が大きく変わるイメージチェンジというやつは周りからどう見られるかという不安がとても大きいだろうし、文乃の言う通り先に理亜へ感想を言うべきだったのだろう。
「いいね。その髪型、とても似合っているよ」
「…………そう」
理亜は抑揚のない声でそう返して、明後日の方向へと目を逸らす。
傍らでは文乃が「ぎりぎり合格点ね」と肩を竦めていたのは見なかったことにした。
美容院を出た後、僕たちは再び電車に乗って移動する。向かうのは数多くの店が集まる大型ショッピングモールだ。
移動に電車を使うと言っても美容院からショッピングモールまではそこまで遠いわけではないので、この調子であれば昼過ぎには到着できるだろう。
無論、目的は理亜の日用品の買い出しであるが、肝心の本人は先ほどの美容院の一件でかなりお疲れのご様子。
きっと髪をカットしてもらっている最中に文乃の話に付き合わされていたのだろう。僕はその光景を想像しつつ、目的地についたら食事にして休憩を取らせようと心に決めた。
予想通り昼過ぎに目的のショッピングモールに到着すれば、緑を多く取り入れたエントランスが出迎えてくれた。
平日ということもあってか人は思っていたよりも少なく、僕はそっと胸を撫で下ろす。
人が多いのには慣れているつもりだが、理亜はそうではないかもしれないし、空いているに越したことはない。
「ここ、は……?」
ぽつり、と半歩後ろを歩く理亜がそう呟くのが聞こえた。
「ここはたくさんの店が集まって一つになっている場所さ。ここに来れば大体何でも揃う」
「……そう」
「来るのは初めてかい?」
「……うん」
「それなら、ゆっくり見ていくといい。分からないことがあれば遠慮なく聞いて。別に恥ずかしいことじゃないから」
言って僕は理亜を先導するように歩き出す。
それほど長い付き合いでもないが、これまで理亜と関わってきて、彼女があまり物事を知らないままで育ってきたということくらいは察しが付いている。
だからこそ、理亜には様々な事を知る機会を与えられればと思うし、今回の外出も良い経験になればと思うのだが、当然そんなことは口に出せるはずもない。
「さてと、まずは昼ご飯にしようか。そろそろいい時間だし、何か食べたいものはある?」
「あの、私……」
「うん?」
「お金、持ってないし、無くても平気……だから」
心底申し訳なさそうに口にする理亜を見て、思わず鼻で笑ってしまう。
今までの経験から彼女の胸の内は察するが、謙虚さというのもここまでくると鬱陶しく思えてくる。
「たとえ君はそうでも僕はお腹が空いてるんだ。それに食事の代わりだと言っただろ。君の一日は質素な朝食だけで引き換えられてしまうような、安いものなのか?」
「……」
淡々と告げれば、返す言葉を失ってしまったらしい理亜が沈黙する。元々俯きがちな彼女の視線が居場所を無くしたように隅へと逸れた。
少し強く言いすぎたかもしれないと内心で反省するが、放っておくと理亜はますます自分を押し殺してしまいそうなので、後悔はしていない。
「少なくとも僕は、そうは思わない。もう少し高く君の時間を買うよ」
こうして僕は少々強引に理亜を先導するのだった。
路惟と文乃のとある会話。
「文姉、今日はありがとう」
「いえいえ。それより路惟ちゃん、あの子は原石だから手放しちゃだめよ?」
「原石?」
「そう。あの子、顔立ちは整っているし、髪も肌も信じられないくらい伸びしろがある。磨けばきっと美人になるわ」
「……はぁ」
「そうすれば、路惟ちゃんにようやく春が来るかもでしょう?」
「……余計なお世話だよ」
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ご覧いただきありがとうございます。
文乃がカットした理亜の髪型ですが、「ショートボブ」というヘアスタイルのアレンジのようです。今回、文乃は理亜にシャンプーとトリートメントを渡して使い方を指導し、家で使うように伝えています。