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新月の夜

 メラニーの訪問から五日が経った。

 クラウディアは港にも執務室にも行けず、ネリーに頼んで厨房の仕事を手伝わせてもらっていた。


 六日目の夜。

 クラウディアは、メラニーの言葉が胸に刺さったまま、痛みを拭いきれないでいた。

 部屋に一人でいると、メラニーだけでなくゾフィーの姿までありありと蘇り、二人の声が重なってクラウディアに畳み掛ける。



 ――お前は幸せになれない。



 あの蔑んだ目。憎しみのこもった眼差し。どうしてそこまで嫌われるのかわからないままのクラウディアだった。

 


 気がつけば、クラウディアはいつの間にか泣いていた。

 これまでだって散々言われてきたことなのに、どうして今更、涙が出るのか。


(もう自分のことさえ、よくわからないわ)




 夜が更けても、とても眠れそうになかった。クラウディアは、思いきって手燭を持って外に出た。


 外は黒一色の暗闇の世界だった。 

 月がすっかり欠けているのだ。星も雲に隠れている。


(今日は新月だったのね)


 ガラスのシェードに守られた手元の小さな灯りだけを頼りに、クラウディアは歩いた。


 いつもは港と屋敷を往復する荷馬車に乗せてもらうのだが、公爵邸は意外に港に近かった。歩けない距離ではないはずだ。





 しばらくすると、今ではすっかり慣れ親しんだ潮の香りが漂ってきた。港が近いということだ。



 暗いとはいえ目が慣れてくると、不思議と闇の濃淡がわかった。記憶にある昼間の風景と相まって、港までの道が照らされて見えるようだった。




 人気のない建物を抜けて港までやってくると、潮の匂いが一際濃くなった。


 夜の港は静かで、昼間の喧騒が嘘のようだ。

 海も空も黒いせいで、なんだか恐ろしくすらある。

 船着場に係留されている船がなければ、海との境目がわからなかったかもしれない。



 クラウディアは昼間でも行ったことがないのに、急に港の端まで行きたい衝動に駆られた。

 何も考えず、ただただその衝動に従って、クラウディアは目を凝らしながら、海に落ちないように歩いた。




 港をぐるりと回り込んでどんづまりになっている所は絶壁だった。大きな岩が浜辺にせり出している。

 暗闇の中、手燭で照らすと、岩肌は磨かれたように冷たく光った。触ると意外にも、つるりとなめらかだった。


 二十センチほどの段差になっているところに腰をかけて、クラウディアは波の音に耳を傾けた。

 見えなくても、岩肌にぶつかって散っていく波の様子は感じられた。

 ザブン、ザブンという規則的なリズムと潮の香りに、クラウディアは安らぎを感じた。




 何も考えず時間だけが経つのが心地いい。

 そう思った瞬間、脳裏にユリウスの声が、その口調と共に蘇った。



『幸せになりたいと願わなければならないんだ』



「幸せになりたいと願うですって……?」


(みんな、私は幸せになんかなれないって言うのに。本当に願ったら幸せになれるの?)


 興奮して頬を紅潮させてはいたが、ユリウスの瞳に嘘はなかったと思う。



(はあ。何を馬鹿なことを考えているの)




 漁師たちの朝は早い。

 日が昇る前――というよりも、その日の夜と次の日の朝の間くらい――に、彼らは海に出るのだ。


 そろそろ誰か来るかもしれない。いい加減にしなければ。

 蝋燭の残りも少ない。




 クラウディアは、屋敷を抜けても行くあてがなく、唯一知っている道を歩いて港に来ただけだった。

 港に何があるわけでもないのだ。


「ふっ」


 今の自分にできることは仕事だけ。寝不足では、それすら疎かになってしまう。

 馬鹿なことをしたと自分を笑って岩から下りた。





 屋敷へ帰る道は、港へ向かった時よりも暗闇が深く感じられた。

 

 クラウディアは、眠れず部屋にいた時よりも、一層陰鬱な気持ちになっていた。






 翌日、屋敷の中でユリウスの姿を見かけ、クラウディアは駆け寄ろうとして思いとどまった。


(そういえば、あの日はろくにご挨拶しないまま部屋を出ていってしまったけれど。ユリウス様を怒らせてしまったことを、ちゃんとお詫びしていないままだわ。でも――)


 非礼を詫びるべきだという気持ちと、とても声などかけられないという気持ちとがぶつかって、後者が勝った。


(そもそも使用人がおいそれと主人に向かって話しかけていいはずがない)




 さっと隠れたクラウディアにアントンが気づいた。


 「みいつけたー」と、かくれんぼの鬼のようにアントンに声をかけられて、クラウディアは焦った。


「あ、あの」

「もしかして寝不足ですか?」

「え?」

「お昼寝したい時は私に言ってくださいね。あ、そうだ。何か合図でも決めておきますか?」

「そ、そんな――」


 注意されたと勘違いされたクラウディアに、アントンはさすがに冗談がすぎたと反省した。


「すみません。冗談です。ただ、夜はしっかり眠っていただきたいなと言いたかっただけなんです。あ、そうそう。ユリウス様ですが――」


 クラウディアの顔が曇ったため、アントンは苦笑した。


「まだ少し気まずいようでしたら、しばらくは港でスザンナの仕事を見せてもらうといいですよ。私からユリウス様とネリーに伝えておきますから。ねっ?」

「は、はい」




 眠りの浅いアントンは、昨夜、屋敷を抜け出したクラウディアに気がついていた。

 慰め方のわからないアントンは、予想以上に悩んでいるらしいクラウディアに、時間を与えるくらいしか思いつかなった。

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