王宮からの視察
クラウディアがグラーツ領に来てから、はや一月が経った。
午前中は、港でニクラスやスザンナに教えてもらいながら塩漬の加工を手伝ったり、午後は、ユリウスからグラーツ領の経営について意見を求められる、という楽しい日々がクラウディアの日常になっていた。
その日の明け方は珍しく、地上に立ちこめた憂いを洗い流すように強い雨がザーッと降った。
クラウディアがいつもの古着に着替えて屋敷を出ると、雨は上がっていたが地面が濡れていた。
(まあ、どのみち濡れて汚れるんだけど)
クラウディアが港で、その日初めて見た魚の名前を漁師たちに教わっている時だった。スザンナが血相を変えて建物から飛び出てきた。
「今、アントンの旦那からの使いでヨハンが来たんだけどさ。なんでも王宮から視察にやってきた奴がいて、こっちに向かっているらしいんだよ」
それを聞いた者たちは、それぞれの手を止めて口々に文句を言い始めた。
「はあ? 勘弁してくれよ。なんだよ視察って。そんなもん、今まで来たことないのにさー」
「本当だよ。王都の奴らなんて、ここを最果ての地とか言って、今まで寄りつきもしなかったのに。なんで今になって……あ」
「私――のせいですよね」
(そうよ。そうに決まっているわ。私がちゃんと罰を受けているか確認しに来たんだわ)
スザンナが大声で一喝した。
「うるっさい! そんなことはどうだっていいんだよ。それよりアンタ。急いで屋敷に戻れってさ。ユリウス様の命令だよ。王宮がどうのこうのなんて、あたしゃ知ったこっちゃないんだよ。ほらっ。急ぎな」
「あ、あの。でも。私がいないんじゃ――皆さんが」
「お黙りっ。アンタはユリウス様の言うことだけ聞いときゃいいんだよ」
スザンナがクラウディアの両肩をガシッと掴んで言い聞かせた。
それから問答無用とばかりに手を引っ張って、建物を突っ切るように足早に歩いていった。
通りが見えるところまで来ると、ニクラスの姿が見えた。
遠くの方を見ていた彼は、スザンナとクラウディアに気がつくと、頭の上で大きく両腕を交差して合図した。
「ちっ。なんだよ」
スザンナにはその意味がわかったようだが、クラウディアには何のことだかわからない。
通りに近づくにつれて、普段とは違う喧騒が聞こえてきた。
ニクラスを取り囲むように立っている者たちは、皆、助けを求めるようにも懇願しているようにも見える。
普段、威勢がいいだけに、怯えたような表情の彼らを見て、クラウディアは胸騒ぎを覚えた。そんな彼女の顔をスザンナが両手で挟んで、自分の方に向かせると顔を近づけた。
「いいかい。よく聞くんだよ。ここにいる奴らは全員、家族も同然なんだ。アタシら夫婦はここの者を守るって決めているんだ。こいつらだってそうさ。互いに助け合って生きているんだからね。もう! アンタもその中の一人だって言ってんだよ。そんな顔をするんじゃないよ」
「……スザンナさん。私、私――」
「ふっ。まあ、なるようになるさ。役人なんざ、どうせ言われたことをやるだけだからね」
スザンナもニクラスに並んで視察官の到着を待った。二人の陰に隠れるようにクラウディアは背後にまわり、一人、息をひそめていた。
「どけっ! おい、そこ! 道を開けろ!」
人を押し除けて先導しているのは、馬に跨った王宮の近衛兵たちだった。クラウディアがいかめしい姿の彼らを見るのは裁判の時以来だ。途端に体が萎縮してしまう。
近衛兵の後ろには、視察官が乗っていると思しき馬車が続いていた。
(嘘――でしょう?)
見覚えのある馬車だった。近づくにつれ、いよいよはっきりと見える。
扉の紋章を見るまでもなかった。インスブルック家の馬車だ。
(どうしてうちの馬車に乗っているの?)
クラウディアの疑問の答えはすぐにわかった。
馬車が止まると、扉の前に二段の小さな踏み台が用意された。
扉が開き、細い足が階段に乗る。
「もう、何なのよ! この腐ったような匂いはっ!」
不満を吐き捨てながら姿を現したのはメラニーだった。




