港で働いている人たち
港に立つユリウスは、その美貌と鍛えられた長身の体躯が放つオーラで、皆の視線を集めていた。
誰もがうっとりと見つめる中、一人の中年男性が、「ユリウス様」と親しげに声をかけた。
「ああ。ニクラスか。久しぶりだな」
「今日はなんです? 水揚げは見込み通りだし、特に問題はないはずですがね」
「ん? ああ、そんなんじゃない。海を見たことのない人間がいたので、連れてきただけだ」
今度は、その場にいた全員がクラウディアに視線を移した。
「客人ですかい?」
「客人? まあ、そんなところだ」
(え? そんな。それでは勘違いされてしまうわ)
クラウディアが否定しようと口を開きかけたのを察したアントンが、先に軽く訂正した。
「まあまあ。客というのは大袈裟ですが。屋敷で働いていただくことになったので、港のことも知っておいてほしいと思い、お連れしたのです」
「へえ」
ニクラスはクラウディアを興味深そうに見た。
「そりゃあグラーツ領で生活するなら、ここに慣れてもらわないといけませんからね。まあ、いやでも慣れますけど」
目をパチパチさせているだけのクラウディアに、ニクラスが、「がはは」と笑った。
「あっしは、ここの元締めのニクラスです。お好きに呼んでもらって結構ですぜ」
「あ。私はクラウディアと申します。よろしくお願いします。ニクラスさん」
「クラウディア? なんか聞いたことがあるような……」
はて? と顎をさすりながら考え込んだニクラスに、ユリウスがピシャリと言った。
「何を聞いたか知らんが、大事な働き手だ。そのつもりでよろしく頼む」
「ま。ユリウス様がそうおっしゃるなら何も言うこたあねえさ。港に来た時は面倒を見させてもらいますぜ」
「任してくれ」と、腕組みをしながら頷くニクラスに、一人の女性が駆け寄った。
「ちょっとアンタ! 何をニヤついてんのさ! あれ? ユリウス様」
ユリウスに気づいた女性は、その隣にいるクラウディアをじいっと見た。
「アタシはスザンナ。こいつの女房さ。ガサツな男どもが失礼なことしなかったかい? ここじゃ若い娘は珍しいからね。なんかあったらアタシに言いな。尻を思いっきり蹴り上げてやるからね」
「け、け――」
あまりの威勢のよさにクラウディアは驚いたが、スザンナは構うことなく彼女の手を引いて、先ほどの建物の中へと連れて行った。
スザンナはいくつか樽を見て回り、目当てのものを見つけると、中からぴちゃぴちゃ跳ねている魚を掴んで出した。
「こいつをさばいてやんな」
「へえ」
スザンナに指示された男性が、まな板の上で調理する。
皿の上に、薄く削ぎ切りにされた白い身が並べられていく。
スザンナは黄色い果物を半分に切って、皿の上の身にしぼりかけた。
途端にレモンの爽やかな香りが放たれた。
「ほら、食ってみな」
クラウディアが戸惑っていると、「ああそうか」と、フォークを添えてくれた。
(何かしら。包丁で切っただけで火を使っていないのに。これを食べろと?)
クラウディアは、皿からスザンナに視線を移すと、周囲の人たちの注目を浴びていることに気がついた。
(どうしよう。でも多分、ここにいる方たちは普通に食べているものなのよね。私もここで働いている人たちの仲間なんだから、勇気を出さなきゃ)
クラウディアは、馴染みのあるレモンの香りだけを頼りに、皿の上の薄いものを恐る恐る口に運んだ。
(え? 何これ!)
舌に乗せるとレモンの風味が広がっただけで、特段、変な味はしなかった。生臭さも感じない。
噛むと身が押し返してきた。
見た目の薄さからは想像もできない弾力があった。
歯応えがあるのに柔らかい。記憶にない味。どう表現していいかわからなかったけれど、一つだけ言えることは――。
「美味しい。食べたことのない味なんですけど、とっても美味しいです」
「あっはっはっ。そうだろ? あっはっはっ」
その場が笑い声で溢れた。
クラウディアがおっかなびっくり食べる様子がおかしかったのか、みんな笑っていた。
そこからは、入れ替わり立ち替わり、これも食べてみろ、こっちも美味しいぞと、次々にクラウディアの前に皿が並べられた。
クラウディアは並べられるまま食べていたが、さすがにお腹がいっぱいになってしまった。
いつからそこにいたのか、アントンがパンパンと手を鳴らした。
「もう、その辺で勘弁してあげたらどうです? これ以上は拷問ですよ」
「ええ! まだまだだろ。もっと旨い魚があるのにさ」
ニクラスも、その辺にしておけと視線を配った。
ユリウスが最後に締めた。
「何も今日で食べ納めっていうわけでもないんだ。また食べにくればいい」
「また来てもいいのですか?」
「別に。構わないが」
「では、また来ます」
なぜか周りから歓声が上がった。
「おうよっ。歓迎するぜっ」
「毎日でもいいぜ」
その後はスザンナに、魚を塩漬けにする作業などを見学させてもらい、あっという間に時間が過ぎていった。
スザンナによれば、港で働いている者たちは夫婦者が多いらしい。夫が漁にでて、妻が塩漬けを手伝う。
クラウディアは、港で働く男性たちがスカーフを愛用していることに気づいた。
木綿のスカーフを頭に巻いたり首に巻いたりしている。よく見れば、どのスカーフも布の端に刺繍がしてあった。
「皆さん刺繍入りのスカーフをされていますけど」
「ああ。あれかい。あの刺繍の模様は、家ごとに代々伝わっているものなんだ。領家の紋章みたいなものさ。ほら、こいつのは動物だろ。そいつみたいに花の模様もあるし。ま、色々さ」
クラウディアの脳裏に不意に亡くなった父親の声が蘇った。
――紋章には意味があるのだ。そこには歴史が詰まっている。
インスブルック家の紋章には、本を小脇に抱えた騎士が入っている。
(そういえばアントンさんにも言われたけれど。私、グラーツ家の紋章を知らないわ。歴史どころか、何も知らないわ)
思いの外夢中になって過ごしたクラウディアは、帰りの馬車に乗る時に自分の足元を見て驚いた。
靴はもちろん、ドレスの裾までびちゃびちゃに濡れていたのだ。
ユリウスとアントンはブーツを履いているので、少々の水は問題ないだろうが、ドレスはすでにたっぷりと水を含んでいる。
(どうしよう。私が領主様の馬車を汚してしまうなんて許されないわ。歩いて帰ろうかしら)
「どうした? 早く乗れ」
ユリウスに命じられ、クラウディアはすまなさそうに乗り込むと、彼の向かいに座った。
少しの身じろぎでも雫が散ってしまいそうで、クラウディアは硬直した。
(せっかく頂いたドレスをこんな風に汚さないよう、ここへ来る時にはお仕着せを着て来なきゃだめね)
クラウディアは屋敷に戻ると、ネリーに使用人のお仕着せのお古をもらった。
「別にお古でなくてもいいでしょうに。もう一着やそこら、すぐに用意させますよ」
「いえ。それはもったいないです。汚れるとわかっているので、私が着られる物でしたらなんでもいいんです」
お仕着せはドレスと違って、使用人ごとにサイズを測って仕立てたりしない。ここでは三種類のサイズがあり、クラウディアは誰かが着古した一番小さなお仕着せをもらった。
ネリーが目を光らせているので、もちろん古くてもきちんと手入れをされて清潔に保たれている。
(よかった。これなら平気だわ)
誰かが着古したお仕着せを手に取って、嬉しそうにしているクラウディアを、ネリーが温かい眼差しで見ていた。
「それと、もしお許しいただけるのなら、もう一つお願いがあるのですが……」
夕食後、クラウディアの部屋にアントンが訪れた。
「どうなさいました? 何かあったのですか?」
「いえいえ。早くお渡ししたくて来てしまっただけです」
そう言ってアントンが差し出したものを見て、クラウディアは驚いた。
「え? どうして?」
「ネリーに相談されたではありませんか」
「つい先ほどのことなのに」
ユリウスの執事兼秘書というアントンの有能さを見た気がした。
「それでクラウディア様。何に使われるんです?」
「ああ。その。……で。……を」
「ふむふむ」
「……したいなと」
「なるほど。では私にお任せを。明日までに揃えておきましょう」
「よろしいんですか? 私のわがままなのに」
「いえいえ。ユリウス様のためですからね。ちなみにお色は決められていますか?」
「ユリウス様の瞳の色と同じ青がいいかなと思ったんですけど」
「そうですね。では青色のものを探しておきます」
「ありがとうございます」
アントンは去り際に、ああ思い出したという顔で、一言だけ添えた。
「あまり夢中になりすぎないでくださいね。ご自分の健康にだけは注意してください」




