本来の自分に戻るには
ヨハンを下がらせてアントンと二人になったユリウスは、まだ興奮が収まり切らずにいた。
脳裏に、申し立てをするつもりはないかと尋ねた時の、うつむいたクラウディアの姿がまざまざと蘇る。
あの時の、彼女が絞り出しように言った言葉。
『何も――変わらないと思います。判決が覆るとは思いません』
その言葉の意味がわかった。
おそらく横領の事実そのものがないか、あったとしても犯人は他にいる。
横領がなかったことを示す証拠、あるいは真犯人を示す証拠を、クラウディアは探せるはずがないと諦めているのだ。
頼る者もいない十五歳の娘には、あまりにも酷な話だ。
「だが反論くらいしてもよさそうなものだ。諾々と受け入れてどうする! その結果がこれなんだぞ」
沸々と怒りが湧いてきたユリウスは、アントンにぶつけても仕方がないとわかっているのに止められなかった。
「……まあ。それも無理はないでしょう。ネリーが言っていましたね。『おそろしく手際よく仕事をする』と。『普通の令嬢にできるはずがない』とも」
「二年間、毎日下働きをやらされていたのだからな。相当ひどい扱いを受けていたのだろう」
「ええ。二年の間に、公爵令嬢というプライドも、父親の補佐をしていたという自負も、全部奪われてしまったのでしょうね。ネリーが、『手を見ればわかります』と言っていました」
「手?」
ユリウスは、クラウディアのおどおどした態度しか記憶になかった。
「普通の使用人でもあそこまで荒れることはないそうですよ。水仕事のせいなのですが、クラウディア様は荒れるにまかせていて、自分の体なのにいたわる気持ちがないようだと」
「……そうか」
手荒れ一つで、そこまで見抜くネリーに、ユリウスは単に人生経験だけでなく、他人を思いやる心根で負けた気がした。
「幼い者にとっての二年間は相当長い年月ですからね。物心ついてから十年とすれば、その五分の一に相当する期間ですよ。……ユリウス様。飛べなくなった虫の実験の話を覚えていらっしゃいますか?」
「あれか。瓶に虫を入れて蓋をして閉じ込めると、虫はいくら飛んでも蓋にぶつかってしまうから、その後、蓋をとっても、蓋があったところまでしか飛ばなくなるというやつか」
「ええ。何日閉じ込めておくと、飛ばなくなるか覚えていらっしゃいますか?」
「どうだったかな。十日ほどか?」
「三日です」
「そうか。それがいったい……」
「クラウディア様は、二年もの間、蓋をされていたのではありませんか? 何をしても無駄だと刷り込まれているようです。ではどうすれば虫が元通り飛ぶようになるかご存知ですか?」
「そんな実験をしたという話は聞いていない」
「そうでしたっけ? 普通に飛ぶ虫を瓶の中に入れてやるだけでいいんです。その虫がなんの躊躇もなく飛んで瓶から出ていくところを見せてやるのです。そうすれば、飛べることを思い出すんですよ」
「ちょっと待て。何が言いたいんだ?」
「別に何も。ただ、ちょっと思い出しただけです」
「……お前」
「ふふふふ」
使用人が主人と顔を合わせることはほとんどない。使用人たちが主人の動向を把握した上で、目に留まらないように仕事をしているからだ。
だから、ユリウスがクラウディアの姿を見かけたのは、彼の気まぐれが招いた偶然だった。
その日、ユリウスは子どものはしゃぐ声に引かれて、なんとなく使用人たちが使う裏庭へ足を運んだ。
使用人が子どもを連れてくることは珍しくない。もちろん禁止しているわけでもないので、これまでも屋敷内に声が届くことがあった。
裏庭ではクラウディアがシーツを干していた。その周りをキャッキャッと子どもらが走り回っている。そんな子どもたちに、クラウディアは笑顔を見せていた。
ユリウスは驚いた。クラウディアが「笑う」という事実に、単純に驚いたのだ。
執務室に戻ってそのことをアントンに話すと、アントンは、悪戯っぽい目つきで、「おや。目が離せませんか?」とからかった。
ユリウスがムッとして、反論する。
「ちょっと意外だっただけだ。あんな顔で笑うこともあるのだと」
アントンは面白くてたまらない。
「おや? それだけですか?」
「笑うとは思わなかったから驚いただけだ。行くぞ」
「やれやれ。ユリウス様も人のことは言えませんよ。そのお顔をくしゃっと歪められたことがありましたっけ?」
「私をなんだと思っている? 面白いことがあれば笑うさ」
「そうですか。では最近、何か面白いことがありましたか?」
「あるはずがないだろう」
「ふむ。つまり――笑っていないっていうことじゃないですか。たまには違うお顔を見せてくださいませ」
(……こいつ。面白がっているな)
「いや。むしろ、お前の前では常にこの顔でいてやることにする」
ユリウスはアントンを射殺さんばかりに睨みつけた。




