06 秀電、空手道部
なんだか体が軽い感じがする──。
そういう日もあるだろうと、秀電はさして気にしなかった。
県立南都高校の体育館の一画では、空手道部の練習が朝から始まっていた。体育館は、バレーボール部と卓球部とでシェアされ、それぞれの部員たちが汗を流していた。体育館のドアや窓は全開にされていたが、吹き込む風はなく、たまに吹いても体温より熱い風なので、熱気がこもってしまいそうである。
それでも、まとまった練習ができる貴重な機会だと、だれもが一生懸命だ。
セミの声が絶え間なく鳴り響いているなか、白い空手道着を着た部員たちは、時間をかけて準備運動と柔軟運動を終えると、顧問の指導員である体育科の教員の前に整列する。礼。
空手道は、柔道や剣道と同じく「武道」であるが、格闘技というカテゴリーでありながら、柔道や剣道とは違って対戦相手になんらかの物理的打撃を与えるのは反則というルールを採用しているため怪我が少ない。それでいていざというとき身を守るためには役立つ──秀電が空手道部を選んだのには、そんな理由からであった。
「では、いつものように基本の練習から。二年生はひと通り基本を確認すると、組手に移る。では始め」
「はいっ」
各自距離をとり、かけ声も勇ましく基本の「突き」の稽古から始まる。拳を前に突き出しては引く、を繰り返す。
空手を始めたばかりの初心者も、何年もの経験を積んだ有段者であっても、基本の稽古は同じようにおこなう。基本練習はそれぐらい大事なのだ。毎日かかさず、一通りのメニューをこなし、体に動きをなじませる。
(なんだ?)
秀電は、最初の正拳突きで、さっきからの違和感の正体がわかった。しかし「なぜ?」という戸惑いがわきおこる。
自分のイメージと体の動きに信じがたいほどの差があった。体の正面に拳を突き出し、すかさず引く──。それがまさしく、目にもとまらない速さだったのだ。
突き指した手を見る。昨日は、顧問の体育教員が公用で不在のためクラブ活動はなく、秀電も終業式のあとは早々に帰宅し、膨大に出された夏休みの宿題の確認と、それらをこなす予定を考えるのに費やし、簡単なストレッチぐらいしか運動をしていなかった。手の突き指からまる二日、空手の稽古をしていない。
今になって気づいたこの感覚は、いったい……。
他の部員が稽古を続けるなか、秀電の手が止まってしまったのを顧問が認め、
「どうした、麦沢?」
歩み寄り、
「やはり突き指が気になるのか?」
生徒を預かる身とすれば、クラブ活動中の怪我にはすごく過敏にならざるを得なかった。なにか事故があったら責任問題に発展する。顧問が不在で生徒が勝手に練習する、というのも許されない。窮屈といえばそのとおりなのだろうが、それが当たり前だ。
「いえ、そういうわけでは……」
歯切れ悪く言う秀電に、教員は、
「完治してないなら、休んでいてもいいんだぞ」
「だいじょうぶです。続けます」
エミルに治してもらったとは言えない。
その直後、あっ、と小さく声をあげた。
──エミル!
そのことに思い当たり、秀電は「もしや」と思った。エミルの治療が影響しているのか。
確信はない。可能性があるだけだ。だが申告するわけにもいかず、練習を続けた。
「やめ!」
顧問の声とともに基本練習が終わり、三分の休憩のあと、二年生は二人一組で「組手」の稽古が始まる。
礼、とかけ声とともに、攻撃と防御を交互におこなう。約束組手と呼ばれるものだ。
空手の稽古では、あらかじめどんな攻撃をするか宣言して打つ。防御側はそれがわかったうえで防御するのだ。
コントロールされた攻撃で、相手に当てないようにする。もちろん、激しい一瞬の動きのなかで相手の体にヒットしてしまうことは日常的にある。それでも故意にインパクトしているか否かは当事者なら容易にわかった。
秀電は、どうなるだろうかと期待と不安を抱きつつ同じ二年生の部員と向かい合う。インターハイへの出場がかなわなかった三年生は夏休み前に全員が退部していた。スポーツ推薦で大学へすすめるほどのレベルの部員は歴代一人も出ていなかったし、卒業するまで部活を続ける三年生は一人もいなかった。現在、部員数は一、二年生で十名。こぢんまりとした部活だ。
「始め!」
顧問のかけ声で、組手稽古が始まる。
「中段突き」
秀電がかけ声とともに突き出した拳は、受けようとする前に相手の胴へと入っていた。そのスピードはまるで全日本の入賞者のようでついぞ間近で見ることのない速さだった。普段の動きとは明らかに違っており、別人のようだ。
対戦相手の目が驚きに見開かれている。だが空手道は「常に平常心で臨むもの」という教えを徹底しており、だからこのときも、双方ともなにごともないかのように振る舞った。
「上段突き」
相手のかけ声とともに、正拳がうなりをあげた。
が、秀電にはその動きがまるでスローモーションのように見え、防御態勢に移る体の動きもそれに容易く応じられ、あっさりかわせた。
何度攻守が入れ替わってもそうだった。秀電の速さが圧倒した。
「ちょっと待て」
まだ組手の最中だったが、相手が体を引いた。さすがに戸惑いを隠しきれなかったようである。
「どうなってるんだ? いつもと違うぞ。なにがあったんだ?」
「ほら、そこ! どうした?」
顧問教員がみとがめた。
「いえ、麦沢の動きがすごいんです」
「はぁ?」
突き指の影響で動きに張りがない、というなら理解できるが、すごい、というと、なんのことやらわからない。
「とにかく速いんです。先生よりも速いかもしれないです」
「なにを言ってるんだ?」
「とにかく見てください」
ただならぬ訴えに、半信半疑ながらも歩み寄る教員は、空手道部の顧問を引き受けるだけあって自らも若い時分は道場に通い稽古にはげんでいた。全国大会にも出場経験のある有段者で、五十代となったいまでも体の切れは失われてはいなかった。
他の部員たちも、つい稽古を中断して注目する。
教員は、実演指導するつもりで麦沢に対峙した。
「礼!」
生徒のだれよりも通る顧問教員の声。見守る部員たちの間に緊張した空気がたちこめる。
「上段突き」
麦沢が叫んだ。
来る、と教員が思うより早く、寸止めされた右拳がすでに教員の顔面に届いていた。
「!………」
教員の額から流れた汗が一筋、体育館の床に落ちたのは、暑さのせいばかりではなかった。
バタバタと階段を上がると、自室のドアをあけた。
西日の差し込む無人の室内に踏み込んでクローゼットをあけると、無表情のエミルが立っていた。この状況、初めて目にするとギョッとするが麦沢兄弟にとってはすでに日常だ。
「どうしたの?」
生き返ったかのように顔に表情が現れ、小首を傾げて秀電を見返すエミル。
「ちょっと聞きたいことがある」
秀電の目はいつもと違う光を放っていた。
エミルはクローゼットを出る。まるで長いことそこが居場所だったかのように、違和感がない所作である。
家には他にだれもいない。仕事に出ている両親は当然だが、弟の灯雅も留守だった。この暑いのにどこへ出かけたのやら。
秀電はエアコンを入れ、勉強机のイスに腰をおろす。小学校への入学時から使っている年季の入ったイスは、ギィと七〇キロの体重を受け止めてきしんだ。
「おとつい、おれの突き指を治してくれたよな?」
エミルはうなずく。
「もう、なんともないでしょ?」
「怪我は完治してるようだ。痛みもない。だが、なんともない、わけじゃないぞ」
「?」
「たしか『ナノマシン』って、言ったよな?」
「うん、そうだよ。わたしの体内にはナノマシンの合成機能があって、皮膚の毛穴を通してナノマシンを注入できるの。ナノマシンが患部を補修し、自然治癒能力をはるかにこえるスピードで傷を完治できる」
「完治するだけなのか?」
「なにがあったの?」
秀電の慎重な口調が、エミルを不安にさせる。
秀電は頭を整理する間、沈黙し、
「今朝、おれは学校の空手道部の稽古に出たんだ。突き指が完治したと信じて、いつものように稽古を始めた」
思い出しながら、丁寧に説明する。
「しかし、準備運動からいざ立ち会い稽古となったとき、有り得ないほどのスピードで相手を圧倒した……。有段者である顧問の体育教師も驚くほどの速さだったんだ。これは、おれの怪我を治したナノマシンの影響か?」
おそらくそうだろうと秀電は確信していた。どう考えても他に心当たりがない。もしかしたらエミルの生まれた未来世界では、人間はナノマシンによって超人的な能力を獲得して日常を暮らしているのかもしれない。それが「普通」のことだとしたら現代ではおおきな問題だった。
エミルは視線を天井に向け、人間らしい仕草で考えを整理して肯定した。
「うん。ナノマシンは怪我を治すために肉体の機能を強化するから、同時にその過程で一時的に過度なパフォーマンスを獲得してしまうけれど、でもわたしの生まれた未来では健康体を維持するために人間は常駐ナノマシンを注入してるからその機能は抑制されるのでなんの問題もない……あっ」
エミルは手で口元を押さえる。
「秀電は抑制ナノマシンが入っていなかったんだ……」
「ちょっと待て」
そこまで聞いて秀電はエミルを制した。空手のことよりも未来世界のことが気になった。未知の世界を知る機会に興奮してきた。
「未来の人間は、ナノマシンで肉体強化してるのか?」
「ううん、その逆。ナノマシンによって、あらゆる病気が駆逐され、怪我もすぐに治癒できるようになっているけれど、それによる肉体強化は負担がかかるから、それを抑える抑制ナノマシンを注入してるの。でも秀電には抑制ナノマシンが入っていなかったから超人的なパフォーマンスを発揮できたの。でもそれは体に大きな負担がかかるから、よくないんだ」
そうだろうな、と秀電は納得する。あんな動きは人間の能力を超えている。ナノマシンの機能でそれが実現できているとはいえ、人体がただですむとは思えない。
それにしてもとてつもないテクノロジーである。ナノマシンは理論的にはその可能性が考えられているが、現代ではまだまだ技術的に実現できていない。すべての病気が克服される未来では人間の生活や社会はどうなっているのだろうか、想像もできなかった。
「いま、『一時的』と言ったよな。おれの体に入ったナノマシンは、いつかは機能しなくなるのか?」
未来世界がどうあれ、今はそれに心を奪われている場合ではない。問題は、このままではまずい、という点だ。
というのも、顧問の体育教員は今日のことで、一気に秀電をレギュラー員にしようという考えを持ってしまったのだ。
南都高校空手道部は弱小チームであった。県大会で上位に食い込むことすらできず、ましてや近畿ブロックや全国大会のインターハイ出場など夢のまた夢。数年前に赴任してきた有段者である顧問教員にとってそんな状況はさぞや歯がゆかったに違いない。なにしろ部員のほとんどが未経験からスタートしていた。基礎的な体力づくりにさえかなりの時間を割かなければならなかった。学業との兼ね合いや、体育館での部活動時間を他の運動部とシェアしたりで、稽古時間は満足に取れない。そのうえ怪我をしてはいけないと、生徒の体力を考慮しないハードな練習は控えられた。無理をしない練習で実力をつけていくという、難しい指導を余儀なくされていた。
もちろん部員たちは真面目に取り組んでいたが、そんな事情ゆえ、他校との練習試合でさえなかなか勝利をつかめないでいた。
そこへ、秀電が驚きのスピードを持って現れた。
前日までそんな兆候さえなかったのだから、それは僥倖であった。なにが原因でそうなったかはわからず不審に思わないでもなかったが、目の前で現実に見たからには、これはいける、と強くうなずくのも道理であった。
このままではまずい、と秀電は焦った。
これで大会に出場して優勝などしてしまったら、あとがどうなることやら──。想像するだけで卒倒してしまいそうだった。
「ナノマシンは、人工生命体のようなもので、その分子構造を自己増殖させてプログラムされた機能を永続的に保持するよう設計されています。しかし分裂時のエラーをゼロにはできないため機能不全を起こすこともあり、そのリスクを低減するために、一定期間使用後にはアポトーシス(自死)するプログラムが組み込まれています」
「まどろっこしいなぁ」
秀電はエミルの予想外の長演説に閉口した。中二病のセリフのようで、なにを言っているのかよく理解できない。だから尋ねた。
「要は、いつナノマシンが機能しなくなるんだ?」
エミルは、饒舌だった先ほどまでと打って変わって頼りない口調で言った。
「さぁ……それは、わからないわ」
秀電はズッコケそうになった。
そこへ、ドアを開けて部屋に入ってきたのは灯雅だった。
「あ、にいちゃん、帰ってたんだ」
片手にコンビニのレジ袋。
「夏休みの宿題をエミルに教えてもらっていたんだけど、あんまり暑いんでアイスクリームを買ってきたんだ。エミルはすごいよ。さすがロボット。どんな問題でもわかってしまうんだ。これで夏休みの宿題なんか早々に終われそうだよ」
「それはよかったな」
幸せそうな灯雅に話の途中で邪魔され、秀電はムッとしたが、改めてエミルに向き直り、
「わからないって、どういうことだよ」
「データが欠落しています」
困った表情を浮かべるエミルはあわてて言いつくろう。
「でも、それほど長期にわたることはないはずです。ナノマシンの種類によって機能持続時間は異なりますが、何か月もということはないと思いますよ」
だから、とエミルは力をこめる。
「ずっと機能が維持されるよう、ナノマシンを追加しましょう」
驚愕の意見だった。
いや、そうじゃないだろう!