03 彼女の名はエミル
麦沢兄弟の部屋のベッドに女の子が寝そべっていた。デニムのホットパンツと、大きなピンクのハートマークの入った白いTシャツはちょっと子供っぽい。意識はなく、まるで眠っているようで、なんとも無防備な姿はありえない。
だが現実であった。
麦沢灯雅は、横たわる少女を居心地悪げに見守っていた。自分の部屋にいるにもかかわらず落ち着かなかった。
まさかこんなことになるとは、まったくもって思いがけないことだった。
──法隆寺近くで自転車を見つけられたかと思いきや、自転車だけでなく、女の子まで連れて帰ることになるなんて。
しかも彼女は人間ではなく、ロボット──。例の「黒い渦」から出てきた。あのとき渦から出てきた白い腕も彼女のものだったのだ。
それがわかった直後、彼女は道端で自らスリープ状態に入った。それを自転車の荷台に乗せ、支えるようにしてどうにかこうにか帰宅したのだった。
家にはまだだれも帰ってきていなかった。共働きしている両親はもちろん、クラブ活動をしている兄・秀電も。
家に帰ってから二階の部屋まで苦労して運び上げ、女の子のTシャツの裾から垂れ下がっていたプラグをコンセントに差し込んだ。
ところが、汗をかいていたのでエアコンを入れた途端、ブレーカーが落ちてしまった。しかたなくエアコンを切り、灼熱の部屋で苦行のような暑さに耐えていた。窓を開けていても入ってくる風は熱を持ち涼しさのカケラもない。
ならばブレーカーが別系統のリビングでエアコン全開で涼んでいればいいものを、ロボット少女がいつ目覚めるかわからず、目覚めたらなにをするのか心配だということもあって目を離したくなかった灯雅は、暑さに閉口しながらも部屋にいた。首から下げているタオルは、絶え間なく吹き出る汗をぬぐってすっかり湿ってしまっている。
──おれはいったい、なにをやってるんだろ……?
汗一つかかず横たわっている少女を見下ろしながら、勉強机のイスにすわる灯雅は自分の運命の星回りを思わずにはいられない。
──おれは、なにに巻き込まれてしまったのだろう。
そんな戸惑いを意識しつつも、しかし同時に、ふってわいた非日常がこの夏休みをどのように彩るか、どこかわくわくする気持ちもあった。だからこそわざわざロボット少女を部屋にまで運んできたのだ。
──もしこの少女が人間だったなら、おれは誘拐犯であり変質者だ。
そんなことを何度目か思っていたとき、兄・秀電が帰ってきた。
ドアが開いて、電灯が消えて薄暗くなっていた部屋に踏み込んだ秀電は、
「なんだ、いたのかよ?」
そう言いかけて、ベッドを見て絶句する。
「おお、弟よ、なんてことしてくれたんだ……!」
額を抑え、かぶりを振った。
灯雅はイスを蹴って立ち上がり、
「早合点するな! ちゃんと説明する!」
「説明だと?」
秀電はまっすぐに灯雅を見つめ、
「ああ、そうだろうよ、理由はあったんだろうよ。しかしおれはおまえの妄想じみた言い訳など聞きたくはない」
「そうじゃない!」
灯雅は必死に訴える。
「この女子は人間じゃないんだ」
「中学生ならまだ取り返しがつく。早く解放しろ」
だが秀電は灯雅の説明など聞く耳を持たない。この状況を見て誤解するのも無理はない。どうひいき目に見ても非は灯雅にあり、正当化できるわけがなかった。
「にいちゃん、落ち着いてくれ」
「落ち着けだと?」
秀電は天を仰ぎ、両手を振り回した。
「家に帰ってきたら、弟が見知らぬ女子校生をつれこんでいた。しかも意識を失って倒れている。家には他に家族はおらず、この期に及んでどう言いつくろう気だ? 悪いことは言わん。黙っておいてやるから、まっとうな弟に戻ってくれ」
灯雅はため息をついた。たしかに、客観的に見ても兄の反応は当然だろうと思った。だからとにかく誤解を解くには、ここで証拠を示さなければならないだろう。
「にいちゃんの言うことはわかるよ」
冷静になってもらうよう、灯雅は言葉を選びながら言を継ぐ。
「だから、おれの言うことも聞いてほしい。順を追って説明するから」
秀電は、日が傾いてきて暗くなってきた室内で、灯雅の目をじっと見た。そしてぽつりと言った。
「さっき人間じゃないって言ったな」
しっかり聞いていた。
「そうなんだ」
灯雅はうなずいた。
「ゆうべ、にいちゃんが倒した相手、それがこの女の子なんだよ」
「なにっ?」
秀電は改めて横たわる女子校生を見る。空手の一撃を加えた相手とあっては見る目もかわった。あのとき弟に害を成そうと見えた。その正体がこの女だと……にわかに信じ難い。
「なにか証拠でもあるのか」
鋭い目で兄は聞いた。
「おれが自転車を取りに行ったら、この女の子がいて、おれにそう言ったんだ」
本人でないとわからないことを言えば、納得せざるを得ない。
秀電は腕組みをしてうなった。暑さで汗だくの顔から雫が落ちた。
「それはわかった。しかしなんで寝てるんだ?」
「これを見てくれ」
灯雅は壁のコンセントに行き、そこに差し込んであるケーブルを手に取った。それをたどっていけば彼女のTシャツの裾のなかへと入っている。
「おまえ……そういう趣味か?」
「ちがう!」
「冗談だ。説明を続けてくれ。ちょっと暗くなってきたな。見えにくい。照明をつけていいか? というより、なんでこの暑いのにエアコンを入れないんだ?」
「ああ、だめ、待ってくれ!」
壁のスイッチに手を伸ばそうとした秀電を、あわてて制した。
そのあまりの勢いに兄はたじろぐ。
「どうした、大げさだな」
「ブレーカーが落ちてしまう」
「は?」
「充電中なんだ」
「充電って……ロボットなのか?」
信じられない、といった表情の秀電。
「どれどれ……」
寝ている女の子の傍らに片膝をつくと、ケーブルをたぐりよせ、Tシャツの裾をめくった。
「ちょっとにいちゃん!」
弟は兄の手をつかんだ。
「なにをする気だよ。それはまずいだろ」
「人間じゃないんだろ?」
「いや、でも……」
秀電にとってはマネキン人形にも似た物体にすぎないが、灯雅にとっては一度会話を交わした「生きている」存在だった。どうしてもそれなりの扱いになってしまう。
そのとき、彼女が目を開いた。首を起こし、二人の男子を見た。
Tシャツの裾をつまんでいた秀電と、その手を押さえていた灯雅は固まった。気まずい瞬間だった。
エミル──。
充電を終えた彼女はそう名乗った。
電灯とエアコンをつけ、やっと涼しくなった室内で、秀電と灯雅は謎のロボット少女の説明をものすごく期待した。
が──。
エミルという名前を語ったのみで、その他のことは「わからない」であった。驚愕の事実だった。
兄弟は同時に深いため息をついた。
いったいエミルとは何者なのか──それが本人にもわからないとは、どういうことなのか──。
「記憶喪失?」
灯雅は、そんな、マンガやアニメでおなじみの設定など簡単に起こるはずがないだろうと呆れた。しかも、
「ロボットが?」
「というより、故障だろうな」
冷静な声音の秀電は、エミルを見る。
どう見てもロボットには見えない。ぞっとするほどよくできている。どれほどのテクノロジーが使われているのか、現代の技術では不可能だろう、よしんばなんとかつくりあげたとしても、莫大な費用がかかるにちがいなく、それが黒い渦から出現したというのも、なにがどうなっているのやら。
未来からやってきた、というのが可能性としてありそうに思えたがそれとて荒唐無稽だった。ハリウッド映画じゃあるまいし。もっとも、荒唐無稽というなら、エミルの存在そのものが荒唐無稽だ。もはや常識は消し飛んでいる。
しかもエミルはそれらの謎のすべてに解答できなかった。きれいさっぱり忘れていた。
「故障というなら、修理しないといけないよな……」
灯雅は当たり前のことをおずおずと言った。
「それはそうかもしれんが、現実、どうするんだ? おれたちには無理だろ」
「ううむ……」
至極当然のことを秀電に言われ、灯雅はうなるしかない。故障が直らないとなれば、今後どうすればいいのか……。
「だいじょうぶよ」
するとエミルが、悩む二人に平然と言う。なんの問題もないといった無表情で、少しも困った様子ではない。
「自動修復機能あるから平気よ」
「いつ直るんだ?」
灯雅が身を乗り出した。
が、エミルは明確な日時を言わなかった。
「それはわたしにもわからない。でもいつか直る」
「早めに直ることを祈るよ……」
ため息まじりに秀電は言った。
「それまでは……」
それまでは──。
どうするんだ?
兄弟は互いに顔を見合わせた。