01 暗い渦
その怪現象のウワサは、二人の兄弟の耳にも届いていた。
曰く、「蚊柱のような靄が出現して、人を追いかけてくる──」
なんともホラーなウワサ話だ。
法隆寺周辺ということもあって、聖徳太子の霊だとかいう子供じみた尾ひれもついていたが、もちろんそんなことを真に受けるほど二人とも幼くはなかった。だいたい千年以上も昔の霊など、どれだけ怨念が深いんだか。
とはいえ、その怪現象を見てみたい、という気持ちは心の底にくすぶっていて、なにかの機会があればたしかめに行きたいという、少年らしい無邪気さを捨てられずにいた。
そんなとき、
「ちょっと行ってみようぜ」
という、友人の言葉がかかり、なんとなくうなずいてしまったのは魔が差したとしかいいようがなかった。
「ほんとに行くのかよ」
呆れ顔でそう言ったのは、兄の麦沢秀電だった。県立高校二年で、弟とは三歳ちがいである。弟から最初その誘い話を聞いたときは、話半分でばかばかしいと一蹴していた。
「まぁ……」
兄に真顔でそう言われると、なんとなく照れくさい気持ちになって、弟・灯雅は生返事するしかなかった。
「期末試験も終わったことだし、べつにいいかなと思って──」
だから少し言い訳じみたことを言ってしまう。
「肝試しか……小学生以来だな。ま、親に外出がバレそうになったら、適当に言っといてやるよ」
感慨深い口調で兄は懐の深いところを見せたが、やや恩着せがましかったかもしれない。
「さんきゅ」
それでも弟は、夜中に外出することを黙認してくれた兄に感謝した。
午前0時──。
都会から離れた郊外の、繁華街もない町。大人はもちろん中学生がうろつくような時間ではなかった。パトロール中の警察官に出会ったら職務質問間違いなしである。
自転車で国道25号線をわたって法隆寺の駐車場前にやってきた。
昼間は観光客でにぎわうこの界隈も、夕方五時に法隆寺の門が閉じると同時に嘘のように静まり返る。
国道は交通量が多いものの、そこから外れてしまうともう人の気配がない。
参道前の交差点の、深夜になって点滅している信号を渡ると、ロープが張られて入れなくなった駐車場前にはすでに二台の自転車が待っていた。街灯の光が場違いなほどやたらとまぶしい。
「すまん、待ったか?」
灯雅が自転車をおりる。
「抜け出すのに苦労した?」
二人のうちの一人が口を開いた。真夜中なので声がよく響くから、声を低く抑えていた。天岡幸信。唯物論者だとうそぶき、怪現象も自然現象のひとつに違いない、その正体を見極めてやると、鼻息があらかった。
もうひとりは梅山計輔。メガネが知的な印象を与えるが、馬鹿話ばかりしていて、将来は漫才師になる夢を本気で描いていた。
そんな二人とも灯雅のクラスメートだった。町立中学校の各学年には三クラスしかなく、小学校も同じということもあって幼い頃からの馴染みのメンバーだった。
「じゃ、行くか──」
自転車を押しながら法隆寺の正門、南大門へと続く石畳を、しまっている土産物屋を右手側に見ながら歩き始めた。
キリギリスの声がときどき耳に入った。のどか、というのがぴったりくる古くからの村が、寺の周囲には広がっている。
この時間、法隆寺西院の南大門は閉じられていて、その向こうにある中門は見ることができない。
そこを右──東に折れた。
細い道路が法隆寺の外壁に沿って通っていた。表面の粗い築地塀に面しているのは一般道だった。ちゃんと舗装されており、街灯も点灯していた。
自転車に取り付けられたLEDライトが通りを照らし、単に通行人が絶えているだけで、それほど不気味さは感じられない。
ウワサによると、「靄は渦を巻いて人を追いかけてくる」そうである。その形態から幽霊ではないと思われた。
おそらくなんらかの自然現象ではないか、と思い、もしそうならカメラに収めて動画サイトに投稿するのも面白いだろうというノリだった。
壁に沿って右へ。なだらかにカーブする道路はやや登り勾配があり、自転車を押していくとそれがはっきりとわかる。
法隆寺の周辺は古くからの家並みが取り壊されて比較的新しい家屋も多くなっていた。
「だれかが煙で渦をこしらえてたりしてな」
梅山が茶化すように言って、へんに緊張する場をなごませようとするが、灯雅も天岡も反応が鈍い。じめっとした空気が体にまとわりつくような夜は、そんな冗談に乗る口を重くさせていた。
ぐるぐると周辺を何周も回って、法隆寺東院の西門──四脚門の前まで来たときだった。時刻はそろそろ一時になろうとしていた。
もちろん四脚門は閉じられており、伽藍内に建つ夢殿は見られない。
梅山が立ち止まった。
「どうした? なにか見えるのか」
灯雅が問うと、
「あれ……」
そう言って指さす先──。
十メートルほど離れた細い道路の真ん中。軽自動車がやっと通れるほどの幅の道路の上、一メートルほど空中に、なにか黒い渦のようなものが浮かんでいた。
街灯はあるが、この場所は暗がりで見えにくい。目を細める三人。
「でたか──」
正体を見ようと、それぞれスマホのレンズを向ける。撮り逃さないよう、動画モードに切り替えた。
近寄ってきたら直ちに逃げられるように、撮影しながら器用に自転車の向きを変えた。
「まさか本当に現れるなんて……」
灯雅はつぶやいた。
渦は暗く、その正体は近くで見てもよくわからない。撮影するにしても、光量が足らなくて、スマホの画面に映るそれは肉眼で見るよりももっとわかりづらかった。
「もっと近づくか……」
梅山が汗でずり下がった眼鏡の位置をただし、すり足で忍び寄る。
そのあとについて、灯雅と天岡もおそるおそる近づく。
ぐるりぐるりと、ゆっくりと回る渦。立ち上る煙が微風に吹かれているようにも見え、超自然的な現象のようには見えない。すぐにでも消えてしまいそうな様子だった。
そのとき、予想外のことが起こった。
渦の中心から、生白い人間の腕がにょっきり生えてきたのだ。腕は振り回され、なにかをつかもうとするかのように手が空気をかく。が、そんな細かいところまでじっくり見ている余裕などない。
「うわあああ!」
三人は悲鳴を上げた。乗って逃げればいいものを、動転して自転車を放り出して逃げだした。
後ろを振り返ることなく、できる限りその場から離れようと、全速力で駆けた。
息が上がり、足がもつれそうになっても走り続けた。
もうそれ以上は走れなくなって、灯雅は転んでしまう。手に持っていたスマホが手を離れてアスファルトを滑っていった。
恐怖に顔を青くして、背後を振り返った。
暗い深夜の村の中は、そこになにかが潜んでいるような気配を感じさせた。が、肝心の渦は見えなかった。見えなかったが、同時に、いっしょにいたはずの友人二人も消えていた。渦から出てきた腕に捕まったのかと思ったが、おそらく別の方向へ逃げてしまったのだろう。連絡を取ろうと、落としたスマホを拾い上げた。
友だちに電話をかけようとして人差し指をスマホにタッチしたとき、ふいになにかの影が入ってきて、顔をあげた。
「!」
灯雅は息をのんだ。
目の前にだれかがいた。しかし、それは友人ではない。顔形がちがうと以前に、空中に浮かんでいたからだった。その背後には黒い渦があった。
喉の奥で声が固まり、口がパクパクと動くものの言葉ならず悲鳴さえあげられなかった。
人影が音もなく地面に降り立った。
灯雅の髪の毛が逆立った。肌が泡立った。ここで彫像のようにじっとせずに、さっさと逃げだすべきだったが、さっきのようにはいかなかった。あまりの恐怖に足が動かないのだ。
幽霊!
街灯が人影の背後にあって逆光のためか、顔はよく見えない。いや、たとえ見えたとしても、見るのが恐ろしくてたまらなかった。にもかかわらず視線をそらすことができない。
「灯雅!」
突如、その声が闇を切り裂いた。
次の瞬間、幽霊が弾き飛ばされた。
築地塀に激突するところをみると、幽霊ではなさそうであるが、それを詮索している場合ではなかった。
「逃げるぞ!」
「にいちゃん!」
秀電だった。灯雅は瞠目する。兄の登場はまったくの予想外だったが、それよりも、習っている空手の一撃でこの場を突破できそうなのが信じがたかった。
だが、僥倖に驚いてばかりはいられない。
背を向けて走り出す兄を追って、弟も走り出した。全力疾走である。
国道25号線まで出てきた。深夜のため、通るクルマはそれほど多くないとはいえ皆無ではない。大型トラックが目の前をかなりのスピードで走り抜けていった。
「ここまで来ればだいじょうぶだろう」
息を切らして、秀電は弟に声をかける。
灯雅は兄のほうを向いて、
「なんで来たんだよ?」
「助けてもらっておいて、『なんで?』はないだろ」
「ああ、ごめん。ありがとう。助かった……にいちゃんが空手をやっててよかったよ」
空手道は、他の格闘技とちがって相手を倒すことに主眼はおかれていない。有段者といえど、試合で相手を倒すということはやらないのだ。それでも護身術から発展したものだから、イザというときは頼りになる。
「どういたしまして。──ええっと……そうだな、おれも幽霊を見てみたかったというのがあったんでな、こっそり家を抜け出してきた。そしたら悲鳴が聞こえたんで」
最初に灯雅ら三人が、謎の渦から出てきた腕を見たちょうどそのときのことだ。そして駆けつけてみたら、弟の危機に遭遇した──。
しかし……と秀電は首をかしげる。
「あれは、いったい何者なんだ?」
灯雅はかぶりを振った。
「わかんない。渦から人が出てくるなんて……やっぱり幽霊なのかな?」
思い返すと背筋が冷えた。
白い服の幽霊。いかにもありそうで、リアル感が半端ではない。
「実体はあったぞ。おれには幽霊とは思えないが」
蹴った足に衝撃は感じた。それはリアルな感覚だ。
「蹴りで壁に激突していたよな。幽霊じゃないなら、あれはだれなんだ?」
「人間に蹴り技を当てたことがないから人間かどうかはわからんが……」
高校の部活では、サンドバッグ相手に蹴り技の練習はする。てっきり作り物だと判断したからの手加減はしなかった。もしあれが人間なら骨折しているかもしれないから、人間ではないと信じたい。
「いや、普通の人間じゃないだろ! 蹴られても悲鳴もあげなかったし」
灯雅も目をむいて否定した。
では、なんだったのか。幽霊でも人間でもない、正体不明のモンスター。
秀電は肩をすくめた。ここで結論の出ない議論を続けていてもしかたがなかった。そこでこう聞いた。
「そういや、おまえ、自転車はどうしたんだ?」
実はさっきから気になっていたのだ。
「あ……」
すっかり忘れていた。最初に「渦」に遭遇したとき、飛び出してきた白い腕のあまりの恐ろしさにおののき、ほうほうの体で逃げ出して、自転車どころではなかったのだ。たぶん道端に投げ捨てたまま、今もそこにあるのだろう。
「忘れてきた……」
つぶやいたものの、だからといって取りに行く気にはならない灯雅だった。
「どうするんだ?」
秀電が意地悪く訊く。
「今さら戻れねぇわ」
あのときは秀電の空手で難を逃れられたが、あれは不意をつけたからであって、今度も同じように切り抜けられるとは、灯雅は思えなかった。
実害があったわけではない。だが人知を超えた何者かが相手では、なにかあってからでは手遅れということもある。今はまだ近寄らないほうが賢明だと判断するのが普通の反応だろう。
「明日……そうだな、夜明けと同時に取りに行くことにするよ」
灯雅はそう決めた。大事にしていた6段変速のミニベロだったが、恐怖感のほうが勝った。
「夜明けって……、もう三時間もしたら、夜が明けるぜ」
秀電はあきれた。
時計は、もう午前二時半になろうとしていた。