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ここを経つ日まで、あと二日になった。
クリストフと共に行くと告げた日から、クリストフは今まで以上にダフネの部屋へ入り浸るようになった。昼食も二日に一回はダフネの部屋で摂るようになったし、アンヌが「クリストフ様がマノン様の執事に見えてきますね」とこぼすほど甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
いまも、クリストフがおすすめしてくれた本を図書室へ返しに行ったところだ。いつものようにクリストフに横抱きにされて、ダフネはクリストフの話に耳を傾けていた。
「領地についたら、改めて採寸してマノンの服を仕立てましょう」
(もうたくさんあるのに?)
拾われた翌日に、ダフネはアンヌに簡単に採寸をしてもらい十数着ワンピースをもらっている。どれもまだ二回ずつ着たかどうかだ。同じ服をどれほどの頻度で着るものなのか分かってはいないが、そんなにいらないのではないか。
そう思い首を傾げるダフネにクリストフは目を細めてこう言う。
「今あなたが持っているのは既製品ですからね。きちんと仕立てたものを着てほしいんです。それに外出用の服も必要でしょう」
(今着てる服は外出用ではないの?)
後でアンヌに、普通は服をどれくらいの枚数を持つものなのか聞かねばとダフネが思っていると、通りかかった階段から声が響いてきた。下の階から男性が二人ほど上がってくるようだ。
一人はダフネをよく思っていない、あの執事の声だ。
彼らが二階に来る頃には階段を通り過ぎているが、あまり視界に入りたくないので体を縮こませてしまう。
「いや〜ほんと、テティス様の結婚相手がパトリック様でよかったですね」
「まだ婚約前だ。軽率な発言は控えろ」
「いやですがほぼきまったことでしょう……」
今彼らはなんと言っただろう。
テティスが結婚?
パトリックと?
そんなまさか。
ダフネは、パトリックに愛されなければ、消えてしまうのに。
そうだ、クリストフは。クリストフなら本当のことを知っているはずだ。
そう思い、ダフネが視線を上げてクリストフの顔を見る。
クリストフは、少し眉間にしわを寄せ、唇を一文字に結んでいる。階段の前を通るまでは微笑みを浮かべてダフネに色々話しかけていたのに。
声が出ればすぐにでも、いまの話は本当か聞ける
のだが、何も聞けず、ダフネは鉛を飲み込んだような気分で部屋へ着くのを待った。
ダフネの部屋へ入り、ソファに下ろされるかと思っていたが、クリストフはダフネをベッドの上に下ろした。そしてダフネの前に膝を付き、ダフネの両手を取る。逡巡するように瞼を伏せた後、クリストフは真っ直ぐにダフネを見据えた。
「先程の会話、マノンにも聞こえていましたよね」
聞こえていた。だからダフネは小さく頷いた。
あれは嘘なのだと言ってくれないだろうか。
そう祈っているけれど、クリストフの様子を見れば分かる。きっと、本当のことなのだ。
「あれは本当のことです。兄さんは、テティス嬢との婚約の為にここへ来ました。いずれ二人は結婚します」
(あぁやっぱり……)
パトリックは結婚するのだ。
ダフネはパトリックに愛されない。
このまま泡となって消える。
婚約の為にここへ来たのなら、初めからダフネにはどうしようもなかったのだ。人間になってしまった時点で、ダフネは泡になることが決まっていた。
あの日、魔女に会いに行くんじゃなかった。
パトリックのことなど会わなければきっといつか忘れられた。忘れられなくても、人魚のままでいられただけで十分だったのにと今では思う。
もうダフネにはどうしようもない。
堪えきれず視界がぼやけていく。拭いたくとも両手はクリストフに握られている。勝手に流れていく涙を止められない。
「マノン、貴女は兄さんを愛していますか?」
片手を離し、クリストフが懐からハンカチを取り出しダフネの涙を丁寧に拭いながら問いかけてくる。
なんでそんなことを聞くのだろうとも思うけれど、それもどうでもいいかと思い直す。
ダフネは、パトリックのことを愛しているのだろうか。
いま悲しいのは、泣いているのは、きっと。
パトリックを愛しているからではないのだと思う。あの青い海へもう二度と戻れず、歌うことができないから悲しいのだ。
パトリックのことが気になっていたのは、きっと自分と違うからだったのだと思う。人間は海の外でどんなふうに生きているのか、知りたかったのだと思う。勿論彼の顔が美しかったから気にはなっていたけれど。
人間になってからも親切にしてもらい、好意は抱いたけれど、執着することもなくそれは家族に対するような感情だった。
ダフネが一緒にいたいと思うのは、パトリックではない。
だから、ダフネは首を横に振った。
「……そうですか」
ああそうか。ダフネがパトリックのことを愛していて、パトリックに愛されなかったから泣いているとクリストフは思ったのか。
クリストフが拭う手を止めても、涙はまだ流れている。
ダフネはいつ泡になるのだろうか。パトリックに愛されないことが決まった今、ダフネはいつ泡になってもおかしくない。
せめてお世話になったクリストフにはお礼を伝えたい。できればアンヌにも。
握られたままだった手をぎゅっと握り返して、俯いてしまっているクリストフの気を引く。
顔を上げたクリストフに、ありがとうと伝えようとして、ダフネは口を開いたところで固まってしまう。
瑠璃色の双眸がダフネを射抜いた。
「マノン、きっと大丈夫です。だから僕を受け入れてください」
そう言って、クリストフの手が頬を包む。
受け入れるとはどういう意味だろう、そう思っているとクリストフの顔がどんどん近づいてきて、そして。
クリストフの唇がダフネの唇に重なった。
ふに、と触れ合った瞬間、ダフネは強烈な眠気に襲われて瞼を閉じる。意識が沈みきる瞬間、こぽこぽと泡が水面に上っていく音を聞いた気がした。
*****
パラ、と小さな音が聞こえて目が覚めた。
ぼんやりとした明かりに照らされた、見慣れたベッドの天蓋が見える。自分の部屋の、自分のベッドだ。
泡になったはずだったのに、どうしてここにいるのだろうか。
ダフネが首を横に動かすと、椅子に腰掛けて本を読むクリストフの姿が見えた。夜も更けているのか、明かりは枕元のテーブルランプだけだ。
「……りすとふ」
「っマノン!」
いつものように、つい癖で声をかけていた。
出るはずもなかった声は、掠れてはいるが確かにダフネの喉から出たものだ。
どうして?
何故喋れるように?
そうだ足は、と動かしてみる。尾ひれはなく人間の足のままだ。
なぜ声が出るようになったのかわからないままだが、弾かれたように顔を上げたクリストフを見て、そういえばお礼を言いそびれていたことを思い出した。
「クリストフ、今までありがとう」
二度目に出した声は、聞き馴染みのある自分の声だった。あぁよかった。声だけでもせめて元に戻って。
驚いた顔をしたクリストフは、ふふっと小さく笑いながら、ダフネの頬を撫でた。
「何を言っているんですか、マノン。もうすぐ死ぬわけでもないのに」
「私はもうすぐ、」
「大丈夫」
ダフネはもうすぐ泡になると言いたかったのに。
初めてクリストフが言葉を遮った。きちんと会話したのは初めてだったが、筆談のときも、ダフネが最後まで書ききってから返事をしていたのに。
それも、確信を持って言うものだから、クリストフは全部知っていて、その上で言っているのではないかと思ってしまう。そんなはずはないけれど。
「大丈夫です」
クリストフは眼差しを和らげて諭すように重ねてそう言う。どうしてそんなに自信があるのだろう。
ダフネは本当は人魚なのだと、話してみようか。荒唐無稽だと信じてもらえないかもしれないが。
そう考えていると、今度は頭を撫でられた。
「貴女は丸一日眠っていたので、もう明日にはここを経つことになります。馬車での移動は貴女にとって過酷なものになるかもしれません。話は馬車ですることにして、今は眠りませんか?」
そんなに眠ってしまっていたのかと驚くと同時に、そう言えば馬車の話もしていたなと思い出す。
馬車は馬という動物に車輪をつけた箱を引いてもらう乗り物だと言っていた。それは独特の揺れ方をするから、気持ちが悪くなってしまうかもしれないと。アンヌは馬車に乗ると酔ってしまうらしく、事前に薬を飲んでも気休め程度にしかならないとか。今日馬車が到着するから、見に行ってみようとクリストフとも話していた。
クリストフがいつからダフネのそばにいてくれたのかは分からないが、今が深夜なのはなんとなくわかる。このまま話を続けるとクリストフも眠れなくなってしまう。
クリストフの言う通り、本当に大丈夫なのかはわからないけれど。いつ泡になるのか分からない以上ずっと起きているわけにもいかない。
「分かったわ。クリストフ、心配をかけてごめんなさい」
「気にしないでください。こうしてマノンの声が聞けるようになって良かったです。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
最後にもう一度ダフネの頭を撫でて、クリストフは部屋を出ていく。
果たして眠れるだろうかと思ったが、思いのほか早く睡魔は訪れダフネは再び眠りに落ちた。
翌朝、いつものようにアンヌが部屋へ来た。おはようと声をかけると驚いて固まった後、アンヌは瞳を潤ませながらも満面の笑みを浮かべた。
いつものように身支度を手伝ってもらい、朝食を摂った後、ダフネはクリストフに抱えられ、半月と少しばかりを過ごしたテティスの屋敷を出た。
玄関を出ると馬車が並んでいた。海にはいない、靭やかな筋肉が分かる体つきをした茶色い生き物がいる。これが馬だろう。思ったよりも大きいのでダフネは少し怖くなるが、後ろに立たず、大きな音さえ立てなければ温厚だというクリストフの言葉を信じて、馬車の前に下ろしてもらい自分の足で立った。
クリストフに支えてもらいつつ振り返れば、玄関前にはテティスと、その後ろに使用人たちがずらりと並んでいる。
クリストフと挨拶をした後、テティスはダフネを見ると複雑な表情を浮かべた。
申し訳無さそうというか、怯えているというか、ダフネを窺うような表情を隠しているような。
「……また会えることを楽しみにしています。ごきげんよう」
そしてそれだけを言い、テティスは一礼した。
ダフネも、滞在させてもらった感謝と、いつかまた会えるようにどの気持ちを込めて頭を下げる。
クリストフが部屋を出る前に言っていたのだ。クリストフとアンヌ以外とは話さないようにと。理由を聞けば、どうして話せるようになったか分からない上、突然話せるようになっていると皆困惑してしまうからというものだった。クリストフがそう言うならとダフネはその通りにして、パトリックにもお礼は手紙で伝えた。
テティスが隣の馬車の前にいるパトリックの元へ行ったのをぼんやりと見ていると、クリストフに馬車に乗りますよと声をかけられ、抱きかかえられた。
馬車の中はソファが向かい合って置いてある小さな部屋のようだった。座席の上にはクッションが二個置かれていて、ドアと、向かいの壁には顔が出せる大きさの窓があるのだろう、レースのカーテン越しに日差しが入っている。
ダフネをふかふかの座席に下ろすと、クリストフは隣りに座った。
「せっかくなので景色が見えるほうがいいですよね」
馬車が動くまでは声を出さないようにと言われていたダフネはこくりと頷く。クリストフがドア側の窓のカーテンを端に寄せ、リボンで結びだしたのでダフネも見様見真似ですぐ横のカーテンを開けてまとめる。
そうこうしていると、窓の外の景色が動き出した。出発したのだ。
馬が駆ける音とともに独特の揺れがある。たしかにこの揺れは海の中の世界ではないものだ。
「マノン、具合が悪くなりそうだったらおしえて下さいね」
「えぇ。多分大丈夫」
野原の先に海が見える。太陽の光に水面がきらきらと反射している。クリストフの領地も海に面しているというけれど、ダフネの暮らしていた街からは離れてしまう。
ダフネはあの海にはもう帰れないのだ。
昨日の夜、夢を見た。人魚だった頃の夢だ。仲の良かったカミーユやドミニクと鱗の手入れをしながら噂話をしたり、一緒に歌ったりと、まだ一月も経っていないのにいやに懐かしい夢だった。
目覚めた後、ふと、魔女の言葉を思い出した。
『お前を愛した相手に口づけてもらえばお前の声も返してやる』
ダフネはクリストフに口付けられた。そうして、声が戻ってきた。
パトリックではないから、人魚には戻れなかったけれど。ダフネは、パトリックに愛された上で口付けられなければ声も尾ひれも戻らないと思っていたが、パトリックではなくても声は戻った。
もしかしたら、このまま泡にならずにすむかもしれない。
窓の外、きらきらと輝く水面は町並みに隠され見えなくなってしまった。
ダフネは反対側の車窓の景色を眺めているクリストフを見る。
聞きたいことがあった。
「クリストフは私を愛しているの?」
「……え?」
珍しく素っ頓狂な声を出したクリストフは、まじまじとダフネの顔を見た。
クリストフがダフネを愛しているから、ダフネの声が戻ったはず。それに、口づけの理由も他には考えられない。
だけど人間には独自の文化があるから、クリストフに聞かなければわからない。
だからじっと見つめて返事を待っていると、クリストフは見る見るうちに赤くなった。
「……そうですマノン。僕は貴女を愛しています。結婚を前提に付き合いたいと思っています」
「クリストフ……」
まだダフネには愛がどういうものかよく分かってはいないけれど。
クリストフのが感染ったように頬が熱くなっていく。愛していると言われて嬉しいのは、ダフネも同じ気持ちだからなのだと思う。
だからダフネは、真っ赤な顔をしたままこくりと頷いて、小さな声でこう言った。
私も、と。
本編はこれで終わります。
続きとクリストフ視点を書け次第アップする予定です。