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「では、手を離しますよ」
「倒れそうになったらすぐに支えますからね、マノン様」
こくんと頷くと両脇にいた二人がダフネの体から手を離す。窓枠を掴んだ両手に力を入れるが、ダフネはこのまま立てるような気がしていた。
二本の足に力が入る。窓枠を掴んでいるとはいえ、ダフネは初めて自分の足で立つことができた。
「立てましたねマノン様っ! 毎日頑張られてましたものね……っ」
クリストフと一緒に毎日ダフネのリハビリを手伝ってくれていたアンヌが涙ぐんでいる。
立てるようになっただけでも嬉しいが、こうして一緒に頑張ってきたアンヌが喜んでくれるので尚の事嬉しい。なので、もう少し頑張ってみようとそろりと足を動かし、窓の方を向いていた体を横に向ける。
立つときには足の指の付け根と踵に体の重さを乗せることと、下腹部に力を入れることを意識するといいというクリストフの言葉を思い浮かべながら、片手を窓枠から離してみる。
尾ひれとはまた感覚が違うが、自分の意志で足を動かせるのはやはりいい。
「安定感がありますね。試しに歩いてみますか?」
「クリストフ様はせっかちすぎます。マノン様、無理はなさらないでください」
せっかくだからクリストフの言う通り歩いてみたい。
まずは窓枠においていたもう片方の手も下ろしてみる。大丈夫だ、ふらつくこともない。そのまま左足を浮かし前に出して、床に足をつけた瞬間、ダフネの体が傾いだ。
(あっ……!)
「おっと、」
転んでしまうと思いダフネはぎゅっと体に力を入れ身構える。しかし、ぽすっと音を立ててダフネの体は転ぶ前に受け止められた。
柑橘系の香りに、ダフネの体を抱き止める逞しい腕。顔を上げれば、クリストフの顔がすぐそこにあった。
(あ、ありがとう……)
「どういたしまして。マノンは僕と同じぐらいせっかちさんみたいですよ、アンヌ」
「もう。マノン様、足をくじいたりしてませんか?」
(大丈夫だと思うけど、)
足に違和感は全く無い。念の為片足ずつ足首を回したり、見てみるけれど、問題なさそうだ。
調子に乗って心配をかけてしまった。ダフネが申し訳無いやら恥ずかしいやらで顔をあげられないでいると体が浮いた。
(わっ!)
「歩く練習は明日からにしましょう。足首見せてください」
クリストフにいつものように抱え上げられて、ソファまで運ばれる。ダフネの前に跪いたクリストフに、そのまま流れるように足を掴まれた。
そしていつかのように足首を優しく撫でる指にぞくり、ダフネの背筋が震える。擽ったいとも恥ずかしいとも違う。なんだか良くないことをしているような妙な気持ちになる。足を怪我していないか見てくれているだけなのに。
両足分たっぷり耐えて、クリストフが問題なさそうというのに、アンヌと二人で安堵の息を吐いた。
「マノン様、こんなに早く立てるようになるだけで十分ですから焦らないでくださいね」
アンヌはそう言ってくれるが、毎日移動の度に抱き上げてもらうのは、気にしないでと言われても気になってしまう。それにこうして付き合ってくれている二人を喜ばしたい気持ちもあるし、何より自分の為だ。早く自由に歩き回れるようになりたい。
「立てるようになりましたし靴を履きましょうか。踵の低い靴を用意しておいたので、それなら履いても違和感は少ないはずです」
隣に座り直したクリストフがアンヌが淹れ直してくれたお茶を飲みつつ言う。
靴を履くのは、服を着るのと同じく生まれたままの姿を見せるのは恥ずかしいかららしい。ダフネがいままで履かずにいたのは、まずは立てるようになることを優先するためと、足の大きさは人それぞれなので、用意するのは時間がかかるためということだった。
ドレスさえ着ていれば基本的には足先まで隠れてしまうし、ダフネは気にしていなかった。
それに、リハビリのため毎日のように異性であるクリストフに見られていた。見られるのが恥ずかしいことなら、見る方も恥ずかしいのかもしれない。そういえば、この部屋で初めて足を見せたときも照れていた様子だった。
「マノン、くれぐれも僕達以外に足を見せないようにしてくださいね」
「私たちメイドには見せても大丈夫ですからね。お風呂のお世話とかありますし」
(わかったわ)
二人が少し語気を強めるのでダフネは圧されるようにこくこく頷く。
そんなに大事なことなのだろうかとも思うけど、人魚と人間は価値観が異なるのだ、なるべく言うとおりにしよう。
「さて。今日の昼食、僕も一緒にいただいてもいいでしょうか」
「まぁクリストフ様、珍しいですね」
(本当に)
「兄さんたちは出先で食べるらしくてね」
そういえば、パトリックが昨日手紙に書いていた。今日はテティスと一日でかける予定だとか。
クリストフはなぜ行かなかったのだろう。ダフネのために、なんてことはないだろうし。天気が悪いからだろうか。
アンヌは昼食の支度に行ってしまった。
今日は昼食後どうしようか。外を見ればまだ雨がざぁざぁと降りしきっている。借りてきていた本を読んでしまったから、返しに行くか、せっかくだから引き続きリハビリに勤しむか。
「なにか考え事ですか?」
午後の予定を考え込んでいたら、クリストフが筆記具をダフネの前に置きながら問いかけてきた。
直接手渡さなかったのは答えなくてもいいという配慮だろう。
クリストフはダフネと会話したがるが、決して無理矢理ではない。そして、好きなものなど小さなことでも、ダフネのことを知ると嬉しそうにするのだ。
いまも、首を振れば深くは聞かずに他の話を始めるだろう。
『今日の午後はどうしようか悩んでいたの』
「なるほど。きっとまた歩く練習をしようとか考えていたんでしょう」
(なんでわかるの?)
「その通りって顔をしてますね」
言い当てたクリストフはふふっと楽しそうに笑っている。こんな笑顔を見たら、誰しもときめくだろうなとダフネは思う。
ダフネはクリストフと話していると胸が温かくなる。普通に話すことに比べて筆談だとスムーズに意思の疎通がとれないだろうに、そんなことを気にせずにまるで会話しているような反応をしてくれるからだ。それだけではなく、クリストフは書かなくてもダフネの表情だけで通じたりする。今みたいに。
「一緒にテーブルゲームをするのはどうですか?」
(テーブルゲーム?)
「盤と駒を使ったり、カードを使ったりして遊ぶんです。簡単なものもあるので、是非やりませんか?」
クリストフも暇を持て余しているのだろうか。それともダフネを気遣ってくれているのだろうか。
どちらにせよ、それは面白そうなお誘いだったのでダフネは喜んで頷いた。
「よかった。好きなんですが最近は相手がいなくて」
初心者のダフネに相手が務まるかは分からないが、一緒に遊ぶのはとても楽しそうだ。
それに、クリストフがダフネのことを知ると嬉しそうにするのと同様に、ダフネもクリストフのことを知ると嬉しくなるのだ。
クリストフが好きだというテーブルゲームがどんなものなのかも知りたい。
そういえば、クリストフに聞いてみたいことがあったのだ。
『クリストフ様はいつもいい匂いがするわ。アンヌは柑橘系の香水を使っているって言っていたけれど、なんの匂いなの?』
「あぁ、ベルガモットの香水です。……あまり香らないようにしているのですが、そんなにします?」
困ったように首元に手を当てるクリストフにくすりと笑ってしまう。
『だっていつもこんなに傍にいるわ』
「……っ、」
ダフネの手元を覗き込むクリストフは、ため息ですら襟足の髪を揺らせそうな程の距離にいる。息を吸えばふわりとまたクリストフの匂いがした。
襟足の髪が一房乱れている。先程クリストフが触っていたからだろう。
読み終えても反応のなかったクリストフが緩慢な動きで振り返る。何故だかじとっとした眼差しをしている上に頬が少し赤くて、どきりとしたダフネは首を傾げる。
何故どきりとしたのだろう。初めて見る少し幼い表情までも美しいからだろうか。
「香りについて言及されたのはマノンが初めてです。きっと、それだけあなたとの距離は近いんですね」
言外にダフネは特別だと言われたようで、ダフネまで頬に熱が集うのが分かった。
アンヌが食堂の準備ができたと報せに部屋へ戻ってきたので、ダフネはクリストフに抱えられて食堂へ移動することになった。普段はこの部屋の書き物机でアンヌと二人で食事していたが、今日はクリストフがいるので食堂で食べるようだ。
テティスがこの館へついた夜以来、ダフネは食堂で食事をしていない。あれ以来テティスに食事に誘われていないからだ。その上、食堂は一階にあるがダフネの部屋はニ階にある。アンヌに抱えてもらうにも階段があると危険だし、かといって、パトリックやクリストフに抱えてもらうのも、本当はあまり良いことではないからだ。
クリストフは今も、さも当然と言わんばかりにダフネのことを抱え上げるが、家族や医者以外の異性に気軽に触れたり触れられたりするのはマナー違反なのだとアンヌに教わっている。ダフネのせいで、同じ貴族であるテティスにパトリックたちの悪い印象を与えるのはなるべく避けたい。
だから、テティスが来てからはなるべく部屋に引きこもるか、同じ階にある図書室へしか行っていなかった。精々、パトリックと庭でお茶を飲んだぐらいだ。
「こうして一緒に食事をするのは久しぶりですね」
向かいに座るクリストフも同じようなことを考えていたようだ。ダフネもパンにバターをぬっていた手を止めて、クリストフを見つめながらこくんと頷く。
テティスがいないので、食堂には部屋の入口に給仕人が一人いるぐらいだ。アンヌも別室で昼食を摂っており、この食堂にいる給仕人にはダフネたちの声は届いても内容までは分からないだろう。
実質ふたりきりだ。そう気づいて、なんだかダフネはそわそわしてきた。
「マノンは歩けるようになったらしたいことがあるのですか?」
(?)
「歩けるよう努力しているので、目標があるのかと思いまして」
そんなダフネに気づかずに、クリストフは真面目な様子で問いかけてくる。
食卓には流石に筆記具はないので、ダフネはこくりと首肯した。
「そうでしたか。……僕も昔はうまく歩けなかったと話しましたよね。僕の領地の家からは海がよく見えるんです。歩けるようになったら、自分の足で海辺へ行ってみたいと思いながらリハビリをしていました」
そう言うクリストフはどこか遠くを見ている。幼い頃目指した海の情景を思い浮かべているのだろうか。
その海は、どんな色をしているのだろう。クリストフの瞳のように紫がかった濃い青色だろうか。それとも緑がかった色だろうか。
ダフネも、歩けるようになったら海へ行きたい。まだ帰れはしないけれど、自分の生まれ育った場所の近くへ行ってみたいのだ。柔らかな砂を踏みしめる感覚はどんなものかも、水を蹴る感覚が尾ひれとはどんなふうに違うのかも知りたい。
そのときは、クリストフと一緒がいい。クリストフとダフネは全く同じではないけれど、きっと、なにか共有できる感情があるはずだから。
「貴女さえよければ、いつかあの海へ連れて行ってあげたい」
(えぇ、クリストフ。……私、あなたと一緒に行きたい)
ダフネは、パトリック達がこの館を去るときに、クリストフへついて行こうと決めた。
最初は、クリストフといればパトリックに会う機会が増えるかもしれないだとか、パトリックも同じように誘ってくれるかもしれないと思っていた。だけど、クリストフが嫌でなければ彼のそばにいたいと思ってしまった。彼と一緒にいるのは居心地がいい。どきどきしてしまうこともあるが、それは嫌なものではない。頭を撫でられるのも好きだし、こうして話しているだけで落ち着く。
本当はパトリックに一緒に連れて行ってくれないかお願いして、彼に愛されるようにしなければならないと分かってはいる。ダフネは泡になんてなりたくないのだから。
だがどうしても、ダフネはクリストフと一緒にいたい。
元の姿に戻ることを諦めたわけではないが、クリストフについて行ったら二度とパトリックに会えないわけではないのだ。
だから、クリストフについて行って、時々パトリックにも会って、そのうちにパトリックに愛されるようにするのだ。文通もしているし、きっともうすぐ歩けるはずだから、ダフネはもっとパトリックとの接点を持てるはず。
人間になり泡になるかもしれないという不可思議な出来事のせいで考え込むことが増えたけれど、ダフネは考える前にまず行動する人魚だったのだ。だからパトリックを助けることになったし、軽率にも魔女に会いに行った。
そして、こうしてたくさんのことを知り、クリストフと出会うことができた。嫌なことばかりではないのだ。
変に考えるから訳がわからなくなるのだ。今までと同じように思ったままに行動しよう。
きっと、なんとかなるはずだ。
食後、部屋へ戻ってすぐにダフネが『領地へ戻るとき、一緒に連れて行ってほしい』と伝えると、クリストフは今までで一番嬉しそうに微笑んで、ありがとうと言った。
次で本編終わります。