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ダフネが人間になってから五日が経った。
午後のティータイムを庭で過ごそうとクリストフに誘われて、今はクリストフに運ばれている最中だ。パトリックは今日も仕事をしているらしい。
ダフネを抱え階段を下りるクリストフの後ろをアンヌが歩いている。アンヌの手には、筆記具と数冊の本。お茶を飲みながら外で勉強をしようというわけだ。
「昼食後に着替えたんですね」
「せっかくマノン様がお外に出るんですもの。張り切らせていただきました」
「ありがとう。マノン、とても似合っています」
(あぁまただわ……)
クリストフはずっとこの調子で、ダフネを甘い声で惑わそうとするのだ。ニンフのように。
毎日、アンヌと朝食を食べた後にクリストフが部屋へ来て、ダフネが歩けるようにリハビリをする。それは初日と同じように足を揉んでみたり、足を曲げて伸ばしてと筋肉がつくように動かしたりと、昼食までみっちりと。おかげでゆっくりとなら、足を曲げたり伸ばしたりできるようになった。立つのは流石にまだできないが、順調なようでクリストフも嬉しそうにしている。
昼食は初日のように三人で摂り、その後はクリストフと話したり、文字を学んだり、日によってはパトリックも来て三人で過ごしたりし、夕食も三人で摂り、入浴して寝る日々。
その中で、クリストフとふたりきり、いやアンヌがいても構わず、クリストフは先程のようにダフネをドキドキさせるようなことを言うのだ。それも甘い声で。
そのときは何故かクリストフがキラキラして見える。人間には魔法が使えないはずなのに。
きっと他意はなく、ダフネを褒めてやる気にさせようという魂胆なのだろう。それにしてもやりすぎではないかと思うのだ。アンヌも「こんなクリストフ様は見たことがないです」と言っていた。慣れないことをしているから大袈裟になるだけ、のはずだ。
「今日は天気がいいので眩しいかもしれませんね」
クリストフが片手を離し、ドアを開ける。
屋敷へ来てから初めて出た外は、雲ひとつない空が広がっていてとても眩しかった。窓越しに眺めてはいたが、やはり全然違う。
その上まだ春になったばかりで時折吹く風が冷たいのだ。
びゅおお、と吹いた風がダフネの髪をなびかせると、少しだけ海にいたときを思い出した。ダフネの髪はいつも水に揺蕩っていたから。
クリストフはそのまま庭園の中心へ進む。
緑の生け垣と花壇が左右対称に配置され、中央には噴水があり、噴水を囲むように黄色い花が咲いている。生け垣の周りには白い花が咲いており、所々に植えられた木にも、不思議な形の花が咲いている。初めて見るその景色があまりにも綺麗で、うわぁとダフネは口を開けて見入る。
ダフネの部屋の窓からはこの庭園が見えず、海しか見えなかった。そのため、花を見るのは生まれてはじめてなのだ。
「この噴水の周りに咲いている黄色い花がミモザ。足元に咲いている白と黄色の花がナルシス、あそこの木はマグノリア。少しずつ咲く時期が異なるので、揃って見られるのは数日しかないんですよ。花壇の花はまだ咲いていないですしね」
(花はずっと咲いているわけじゃないのね)
「綺麗でしょう。とは言っても僕の屋敷ではないのですが。今度僕の家にも来てください。ここにない花が咲きますよ」
(素敵! 見に行きたい!)
海の中にも色とりどりの海藻や珊瑚があったけれど、どちらかというと葉っぱに近しい気がする。
花のほうが丸っこくて、なんだか可愛くて素敵だときょろきょろ見ていると、アンヌにふふっと笑われてしまった。
「さぁお二方とも、座ってでも花は愛でられますよ。お茶が冷めてしまいます」
「確かにそうだ。座りましょうマノン」
噴水の前に置かれたパラソルの下、テーブルと椅子が用意されている。クリストフはダフネを椅子に座らせてくれた後、向かいに座った。
テーブルの上にはティーセットとアンヌが持ってきてくれた本やノート、筆記具がある。ダフネが思っていたよりも文字を覚えられているので、少しずつ筆談を始めているのだ。
まずは先程聞いた花の名前を書いてみたいと、ダフネは羽ペンを手にする。
言葉自体は知っているダフネは文字を習えば読むことはすぐにできて、いまは子供向けの絵本や、物語を読んだりしている。だがやはり書く方は不慣れなので、綴りはクリストフに教えてもらいながらなんとか書いていく。
「もう少ししっかりかけるようになったら、掌に指で書いてもらえば意思疎通できますね」
なるほど。そうすれば筆記具がなくてもはいといいえ以外の細かなやり取りができるのか。
だが、文字を書けるようになり、自分の言葉を発することができるようになるということは、ここに来る前のことを聞かれるということでは?
今はまだ、クリストフもアンヌも、筆談しても昔のことは聞いてこないが、もし聞かれたらダフネはなんと答えたらいいのだろうか。正直に人魚だったと答えたら、きっともう、今までのように接してもらえない。人間から見た人魚がどんな存在かは知らないが、人間同士でも、ダフネを拾うときに嫌そうにしていた者もいるぐらいだ、種族が異なれば尚更嫌悪感はあるものだろう。
クリストフもアンヌも、ダフネに色々な話をしてくれ、言葉だけではなく人間の生活や文化など様々なことを教えてくれる。ダフネに本当の名前も聞かないで。だからダフネは、アンヌと過ごすのも、クリストフと過ごすのもとても居心地が良くて好きだ。できることならずっとこのまま同じような日々が過ぎていけばいい。
でも、ダフネには思ったよりも時間がないようだった。アンヌの話によるとパトリックはそろそろ結婚をしろと親に言われているらしいのだ。結婚するということは伴侶を得るということ。パトリックが他の人を愛してしまえば、ダフネは人魚に戻れない。
今の生活は楽しい。新しいことを日々知ることができるのは、とても心が躍る。だが、そうしているうちに人魚に戻れない可能性がどんどん上がっていっているような気がして。ダフネはどうすればいいのか分からない。
「どうしました?」
(っ!)
知らず識らずのうちに瞼を閉じていたダフネは、急に右手を包まれて肩が跳ねた。
見れば、クリストフがテーブルについたダフネの右手を握りしめていた。ペンはいつの間にか脇に退けられている。
(私が人魚だと言ったら、どんな反応をするだろう)
パトリックに愛されるよう協力してほしいと言ったら。
ふと魔が差したのを振り払うように頭を振る。
心配した顔をするクリストフに、何か書いて伝えたいが右手はまだ握られたままで動かせない。仕方無しに口を動かして大丈夫と伝えるとまだ疑うような瞳をしながらも手は離してもらえた。
クリストフは距離が近すぎる。足の運動の際や移動のときに触れているからか、それ以外でもこうして触れてくることがあるのだが、ダフネはその度にどきどきしてしまう。
「なんでも相談してください。僕はマノンの味方ですよ」
(……なんでこんなに親切にしてくれるのかしら)
屈託なく微笑むクリストフに下心だとかそういったものは感じられない。ダフネにわからないだけかもしれないが。
気になるので一つだけ聞いてみようと、ダフネは羽ペンを手に取り、インクをつける。
どうして何も聞かないの、とノートに書いてみる。
「聞いてほしくなさそうだからですよ。貴女がマノンと呼ばれるのが嫌ならば、早々に名前を教えてくれているでしょう。伝えたくなったら伝えてくれればいいんです。ね、アンヌ」
「そうです! お仕えしてからまだ少しですが、マノン様は素敵な方だし、綺麗だし、私とっても楽しいですもの! 私にも何でもおっしゃってくださいね」
アンヌもクリストフに感化されたのか、ダフネの左手をぎゅっと両手で握りしめる。
素敵なのはアンヌの方だ、とダフネはふふっと笑ってしまう。
「僕らは聞きませんから、安心してくださいね」
クリストフがちらりと、館の方に立っている人間を見たのにダフネは気づいた。クリストフたちと初めて会った浜辺にも来ていた使用人だ。
この館はクリストフ達のものではなく、招かれて滞在しているのだと言っていた。ダフネが普段関わっているのはパトリックやクリストフの家が雇っている使用人たちだが、館の持ち主に仕えている使用人はダフネのことをよく思っていないようだった。海辺でのやり取りでもそうだったし、今こうしてクリストフと居ても、居心地の悪い視線をダフネに向けている。
もしかしたら、彼らはダフネに昔のことを聞いてくるかもしれない。
使用人は、使えている主人が心地良く過ごせるためにすべての雑務を行うのだという。自分の家に、招いた者以外の、それも得体の知れない者がいるのは嫌だろう。そう考えると彼らは主人のために、ダフネのことを知ろうとしたり、追い出したりしかねない。
寝ているとき以外はアンヌや、誰かしらがダフネの側にいてくれるから今のところ問題はないが、いずれなにかあるかもしれない。聞かれたらなんと答えるか、それとなく考えておいて損はないだろう。パトリックたちがダフネを監禁されていたと思い込んでいるのを利用してもいい。
「紅茶のお代わり淹れましょうか」
ぱっと立ち上がったアンヌが気分を変えるように言う。
そうして、お茶をおかわりをし、花や四季についての話をクリストフに聞いて庭でのお茶会はお開きになった。日が陰って肌寒くなったのだ。
来たときと同じようにクリストフが抱えてくれ部屋に戻ったダフネは、図書室で借りていた本をアンヌと読むことにする。
「白雪姫は読み終えてしまったので、次は人魚姫ですね」
(人魚姫……?)
人間になってから初めて人魚の名を聞いて、俄然興味が湧く。午前中に読み終えた白雪姫も面白かったが、この話もどんな話なのだろう。
「私、物語の中で一番人魚姫が好きなんです!」
そうはしゃぐアンヌに目の前にいるのは元人魚よ、と教えてあげたくなりながら、二人で夢中になって読んだ。
その内容はダフネにとってはあまりにも衝撃的なものだった。
「マノン様、夕飯の時間ですが……」
(いらないわ)
「わかりました。スープとか飲めるようになったら言ってくださいね」
ぶんぶん首を振って、枕に顔を突っ伏す。昨日の夜アンヌがラベンダーの香水をかけてくれたのでいい匂いがするが、落ち着かない。
人魚姫の話は、まるでダフネのことのようだった。
人間の王子に恋した人魚の娘が、魔女の力を借りて人間になる。王子に愛されなければ泡になって消えてしまう彼女は、結局愛されることなく、泡になって消えてしまう。
人間に恋をしたという点と、王子様と両思いのような期間があったという点を除けば、ダフネのことを書いたのかと思う程だった。
声も尾ひれも失い人間になった人魚姫。彼女は愛されていたようだったけど、隣国の姫が命の恩人だと勘違いした王子は姫と愛し合ってしまう。王子を殺せば人魚に戻れるとナイフを渡されても人魚は王子を愛していたからできなかった。
愛とは何なのだろう。ダフネにはわからない。わからないものを得ることはできるのだろうか。
パトリックは、ダフネを大事に扱ってくれているが、そこに親しさしか感じない。
愛する人とはずっと一緒にいたいもので、他の誰にも渡したくなくて、殺してしまいたい程にもなるし、守りたくもなる。
色々な物語に愛が絡んでくるけれど、矛盾したものもあるので益々ダフネにはわからなくなった。
(私はパトリックに愛されることができるの?)
ダフネは泡になんてなりたくない。
だけれどどうすればいいのか、本当にわからないのだ。
なんでも相談してください、と昼間にクリストフが言っていたのをふと思い出す。
(でも相談なんて、できないわ……)
昼間も同じことを考えたなとダフネは無意識に笑みをこぼす。
彼もこの話を知っているのだろうか、そんなことを考えながらダフネはねむりにおちた。
続きは明日更新予定です。