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次にダフネが瞼を開けたとき、彼女はぽかんとしてしまった。
見たことのない、海上の景色。海の波打ち際、砂浜に横たわっていた。
どうしてこんなところに? と思うと同時に体中に違和感があり、上体を起こしながら視線を尾ひれに向けてヒッと悲鳴を上げた、はずだった。
(声が出ない!)
それだけではない。毎日のように手入れをしていた自慢の鱗に包まれているはずの下半身には鱗も尾ひれも見当たらない。代わりに、腕と同じようなものが二本見える。泳ぐときのように動かそうと意識しても全く動かない。
そして、体中を何かが包んでいてとても違和感がある。今すぐ取り払って、海の中に戻ってしまいたい。でも戻っても今は泳げなさそうだ。
恐慌状態に陥っていると、後ろの方から音が聞こえてきた。
「君は……」
振り向いたダフネは更に混乱する。
人間だ。複数の人間が近づいてくる。早く海に戻らねば、関わり合ってはならないのだ、そこまで考えてはっとした。
『決めたぞ、ダフネ。お前を人間にしてやろう』
(そうだ、私は魔女に会って……)
気づいたらここにいたということは、魔女の力なのだ。ダフネは改めて自分の姿を見返す。
人間が身に纏っているようなものと同じものが濡れて体にまとわりついている。下半身には二本の腕のようなもの。顔の横にあったはずのエラの感覚もない。自慢の黒髪も牡蠣色になってしまっている。
人間になってしまったのだ、魔女の力で。
(一目見られれば、それで良かったのに)
やはり魔女は、恐ろしい。
「君。大丈夫ですか?」
すぐ近くから声がし、ダフネの肩が跳ねる。その肩を、乾いた柔らかなもので包みながら人間が顔を覗き込んできた。
助けた人間と同じような顔立ちをしている。ただ少し幼いのと、色合いが違っていて、瞳は住んでいた街を思い起こす深い青色で、髪の色は助けた人間よりもやや濃い色だった。髪の毛も、こちらの人間のほうがふわふわしている。
大丈夫だと、口を動かすがやはり声は出ない。
その様子を見ていた人間は驚いた顔をして、振り返った。
「どうやら彼女は話せないらしい」
「……話せない?」
今度はダフネが驚く番だった。つられて振り返った先にいたのはダフネが助けた人間だったのだ。助けたときは血色が悪かったが、今は生き生きとしている。全く動けず沈んでいっていたのに、今は砂浜をすいすい歩いてダフネに近づいてくる。
(よかった、生きてる……)
こちらを赤い瞳で見つめている人間に、ダフネは少し居心地の悪さを感じていたが、それどころではなかったのを思い出した。
ダフネの願いは叶った。しかし、人魚には戻れそうにない。
魔女は歌うようにダフネを人間にすると言っていた。そうして、ダフネは現に人間になってしまっている。歌う調子で言っていたあの言葉全てに魔力が宿っているのではないか?
ならば、人魚に戻るにはーー。
『お前を愛した相手に口づけてもらえばお前の声も返してやる。簡単なことだ。その助けたやつに愛され口付けられれば元の姿に戻れるってだけだ。ただ、もしもその人間が他の娘と結ばれるのであればお前は泡となって消える』
助けた人間に愛されなければならない。そしてその上で口付けられなければ、ダフネは人魚に戻れないだけではなく、泡になってしまう。
こんなに見た目が変わってしまっては助けたのがダフネだとは気づかないだろう。初めて会うに等しいのに、どうして愛されることができるだろうか。人間は会ってすぐの人間を愛することができる生き物なのか、ダフネにはわからない。
ダフネは誰にもさよならを言えないまま人間になって、このままだと泡になってしまう。
なんてことだ。
魔女の元へはやはり行くべきではなかったのだ。
「我々が話している言葉はわかるか? ……そうだな、分かるならこう頷いてくれ」
考え込んでいたダフネは、クイッと顎を掬われて
思考の海から現実へ戻る。
至近距離に助けた人間の顔がある。そういえば言葉は通じるわと思いながらダフネは目の前の人間がしたように、こくりと頷いた。それを見て安心したのか、人間は優しく微笑んだ。
胸がどきりとして、ダフネは内心首を傾げる。なんでこんなに近くにいるのだろうか。触れられているところが熱くなっている気がする。さっきからなんだか胸がドキドキとうるさい。
これが魔女の言っていた愛とかいうものなのだろうか。
「もし君が構わないなら、これから私達の家に連れていき手当をするが、いいか?」
「パトリック様! 身元も知れぬ者を屋敷へ招くなど」
「何かあれば私が責任を取る。世話も我が家の使用人にさせる。スカルホーン家には迷惑をかけない」
「ですが……」
「あなた方はこのようにずぶ濡れで困っている者を身元が知れぬからと放って置くのですか?」
頷くと人間同士で言い争い始めたのでダフネは少しびっくりしてしまう。人魚は言い争うことがほぼないからだ。
しかし、そのおかげでなんとなくの関係性がわかったのでありがたかった。
助けた人間の名前はパトリックというようだ。敬称を付けられる立場らしい。
そしてパトリックと彼に顔の似ている人間と、それ以外の人間(パトリックの背後にダフネを睨みつけるように立っているのが一人と顔がしわくちゃなのが三人ほど離れたところにいるのだ)は家族や友人ではないようだ。人間は関係性が複雑らしい。
パトリックに似た人間はダフネを振り返ると、優しく微笑みかけた。その顔はパトリックに似ているけれど、パトリックより親しみやすさを覚えたダフネは不思議に思う。
「僕はクリストフ。兄はパトリック。このままでは風邪を引いてしまうから話は屋敷へ行ってからでいいですか? 立てます?」
パトリックに似た人間、クリストフが手を差し伸べてくれるが、もう一度動かそうとしても、ダフネの下半身はやはりぴくりとも動かない。
(足以外はいつもどおり動くのに)
そっと手で動かない部位を撫でると、触れられている感触はあるのだ。
「もしかして、立てませんか? では僕が運んでいきましょう。首に腕を回してください」
(わっ!?)
ダフネが頷き、言われたとおりにすると、クリストフの腕が下半身の真ん中と背の辺りに回され、そのまま抱きかかえられる。
水の中にいるのとはまた違う浮遊感にダフネがしがみつくと、クリストフは歩き始めますね、と声をかけてからゆっくりと動き出す。
クリストフの体温を感じてじんわりと温かい。それと同時にダフネのしがみついた腕や体がふれたところから、彼が身にまとうものがじんわりと濡れていく。
クリストフがパトリックと話しているのを聞き流し、ダフネは少しずつ遠ざかる海だけをひたすら見つめていた。
もう二度とあの中へ戻ることはできない、そんな予感を胸に。
*****
その後、屋敷へ運ばれメイドたちに入浴をさせられ、ダフネは医者に診られた。
ダフネにとってはよくわからないことを色々とされた後、声と肩の切り傷、足の状態について説明をされた。パトリックとクリストフと一緒に。
「喉には問題がありません。なのでなぜ声が出ないのかこの場ではなんとも申し上げられませんね。肩にはつい最近できたであろう切り傷がありますが、深くはないので消毒をしておけばよろしいかと。問題は足ですね。今まで一度も歩いたことがないような足です。筋肉もついておらず、足の裏も赤子のようですよ」
(せめて歩ける足をくれればいいのに)
魔女も意地の悪いことをする。
ダフネはめったに人を恨めしく思わないが、今回ばかりは思わずにいられなかった。声も奪い尾ひれも奪い、何が対価だろうか。ダフネは一目人間の様子を見たいだけだったのに。愛だの口づけだの、ダフネには全く関わりのないものだというのに。
パトリックとクリストフは顔を突き合わせ、なんだか話し込んでいたようだったが最後にパトリックが頷くと、二人でダフネの座るベッドの傍へ寄ってくる。
「君は歩いたことがないのか? そうだ、名前は?」
「まぁまぁ。兄さん、そんな詰問するように言うもんじゃないよ」
苦笑しながらクリストフはダフネの隣まで来ると、床に跪き優しい眼差しでダフネのことを見つめる。何故だかとろけそうに甘い視線にダフネはどぎまぎしながら自分の髪を手に取るクリストフのことをぼんやりと見つめ返す。
「もしよければこのまま少し話させてくれませんか? 体調が悪いならこのまま休んでもらっても構いませんが」
(大丈夫です)
「ならまず名前を教えてほしいんだが……字は書けるか?」
字とは何かがわからないダフネは横に首を振る。
先程から、人魚だったダフネには覚えることばかりで、休ませてもらうんだったと既に後悔している。
人魚の世界には医者なんてものは居なかったし、メイドとかいう他人の世話をする者もいなかったし、入浴なんてものもなかった。屋敷とは何かと思っていたら家のことだったし、人間の世界にだけあるものや言葉がたくさんあるのだと知って内心冷や冷やしている。
人間ではないと露見したらどうなるかわからないからだ。もし人間ではないと分かってしまったら、きっとこんなふうに穏やかに話せはしないはずだ。すぐに追い出されてしまうだろう。追い出されてしまえば歩くことのできないダフネには追いかけることも何もできない。泡になるまでもなく、ダフネは消えてしまうだろう。
だから、できる限りダフネは人間のふりをしなければならない。とはいえど人間がどんなものか知らないので、人間のフリがどこまで通用するものかはわからないのだが。
白く薄いものにパトリックが棒状のものを押し当てると、手の動きに沿って黒い線が生まれる。不思議に見ていると、読めるか? と聞かれた。当然のことながらなんのことかさっぱりなのでダフネは横に首を振る。
これが先程言っていた、字というものなのだろうか?
「字も読めないのか……」
「そうしたら名前も分かりませんね」
確かに名前がわからないのは困るだろう。三人で困り果ててしまっていると、ふとパトリックが口を開いた。
「呼び名、というとあれだが、君が名前を伝えられるまで、仮の名前をつけてもいいか」
(ぜひ!)
円滑な関係構築の為には絶対に必要だと、ダフネは勢いよく頷く。名前をつけると情が湧く。それは人魚の世界でも人間の世界でもきっと一緒のはずだ。
それに。人魚でないダフネは、本当にダフネなのだろうかという気持ちもあるのだ。
ダフネは歌姫と呼ばれるほど、透き通った声と黒髪が自慢の人魚だった。けれど今は人魚でなければ声は出ず、髪も褪せてしまっている。ダフネを知っているものが見てもダフネだとは思わないだろう。だから仮の名前という提案はありがたかった。この姿は仮の姿で、いつか人魚のダフネとしてあの海へ戻るのだと、信じるために。
「……マノンはどうだろうか?」
「確かに美しい青の瞳をしているからね」
素敵な名前だと思いつつもクリストフの言葉の意味がわからずにいると、マノンとは海のしずくの意ですよと教えてくれた。
(海にまつわる名前だ)
響きも良い。ダフネはすっかり気に入って、声には出せないがありがとうとパトリックに念じる。
通じたのかはダフネにはわからないが、パトリックの纏う空気がふと優しくなった気がする。
「まずは俺たちから自己紹介しよう」
そうして、パトリックとクリストフは自己紹介を始めた。
パトリックは侯爵家の跡取りで、一週間ほど前にここへ来たそうだ。きっとそのとき船から落ちたのだろう。ここは別荘のようなもので、一月ほど滞在する予定なのだそうだ。クリストフはパトリックとは別のルートで来たため、パトリックより先に来てここに滞在しているのだという。
熱心に聞きながらもダフネはわからない言葉ばかりで、なんとなく意味を想像しながら聞いている。
その後はダフネが質問をされる番だった。頷くか首を振るかで答えられることを聞かれる。なるべく素直に答えていると、二人はダフネを海に近い家で監禁されて育った娘なのだろうと結論づけたようだった。それが誰かの助けを得て逃してはもらえたが何らかの事情で浜辺に置き去りにされたのだろうと。
今はまだいいが、文字とやらを覚えたらもっと根掘り葉掘り聞かれそうでダフネはこれからどうしたらいいのか途方に暮れる。
パトリックに愛されなければならない。そのためには、パトリックの傍にいて、お互いのことを知る必要があるとダフネは思う。ダフネなら、知らないものにも傍にないものにも興味を抱かないからだ。お互いのことを知るためには、ダフネが言葉を伝える手段が必要だ。先程も、パトリックは自己紹介のときに地図とやらを書いて説明してくれた。その殆どをダフネは理解することができなかったが、どうにか覚えて、意思の疎通をできるようにしなければ。
「マノンのことはわかった。何も気にせず、ゆっくり過ごしてほしい」
「今日はゆっくりしてください。メイドをつけるので、用事があればこの鈴を鳴らしてくださいね」
そう言って、まだ日も沈んでいないがダフネを気遣って二人は部屋を出ていく。
疲れのせいかなんだか眠くなったダフネは、ありがたく眠らせてもらうことにして、ふかふかの布団の中へ潜り込んだ。