クリストフ1
本編クリストフ視点です。
母はいつも、寝台の上から窓の外を眺めていた。
僕を見ると決まって言うのだ。
お前の目を見ると故郷を思い出すと。
父の話によると、母は出会った頃から体が弱く、ほとんど歩けなかったらしい。確かに、食事のときは父が横抱きにして移動していたし、庭の散歩のときも父の腕の中にいた。
父は仕事のないときは、僕や兄よりも母を優先していた。僕も兄も乳母に育てられたようなものだった。
兄の母は兄を産んだときに亡くなり、僕の母はほぼ寝たきりに等しい。親戚たちは、父は女を見る目がないだとか、だからうちの娘をと言ったのにだとか、蝿のようにうるさかった。
だけど、母はとても美しかったから、なんとなく父の気持ちがわかるような気がした。
白銅色のふわふわの髪。サファイアのように真っ青の瞳は猫のようだ。目鼻立ちはしっかりしていて、意志の強そうな眉に赤い唇。肌も雪のように白く、髪の色さえ黒ければ、乳母に読んでもらった白雪姫のようだった。それに、とても若く見えるのだ。母というよりは姉のように。
不思議に思っていたら、ある日母がこっそりと教えてくれた。
「私は昔、海にいたの」
そのとき、父と兄は珍しく庭で遊んでいた。僕はまだゆっくりとしか歩けなかったし、母も歩けなかったためそれを窓辺から見ながら母はぽつりぽつりと話しだしたのだ。
「髪ももっと黒かった。でも人間になりたいと願ったら、こんなことに」
「人間じゃなかったの?」
「人魚だったのよ」
それは僕に信じてほしいとかそういう声色ではなくて、淡々と事実を述べる口調だった。つい最近に人魚姫の絵本を読んでいた僕は容易くそれを信じた。
だから母はとても若く見えるし、浮世離れした容貌をしているし、歩けないのだ。そしてその子どもである僕も、生まれたときからうまく歩けないのだ。僕が前世で悪い行いをしたからだとか言っていた人もいた。でも違ったのだ。
「ねぇ、もっと教えて」
「……いいわよ」
淡々と、母は自分のことを教えてくれた。
人魚だった母は海に落ちた人間の男を気まぐれで助けて、人魚にはないその男の精悍さに恋をしたのだという。再開を願った母は願いを何でも叶えてくれる魔女に、「その人間の男と添い遂げたい」と願った。
「魔女は対価を欲したの」
「対価って?」
「そうね、願いを叶える代わりに魔女にあげるものよ」
その対価は声と人魚の足だった。
魔女は、声も人魚の足もあるのに何で母から奪ったのだろう。一瞬疑問に思ったけれど、続く母の話に夢中になって忘れてしまう。
「そうして人間になった私は、喋れもせず歩けもしなかった」
「でもいま、母様はお話してるよ」
「それは貴方のお父様のおかげよ。貴方のお父様が私を拾って、愛してくれたから私は生きてるの」
「母様が助けた人は父様なの?」
「違うわ」
母は結局、助けた人間には会えていないのだという。その人と結婚しようと思って人間になったのになんで父と結婚したのか、聞こうと思ったけどなんだか聞きづらい。聞こうか聞くまいか、悩んでいたら、窓の外の父を見ながらぽつりと母が呟いた。
「泡になるのと今と、どっちが幸せなのかしら」
その冬に、母は風邪をこじらせて死んでしまった。
***
兄の意識が回復したと報せを受けて、兄の部屋へ向かった。ノックをすると頭に包帯を巻いた、兄の従僕がドアを開けた。
このスカロホーン家の領地にある館へ来る際に、兄の乗っていた船が座礁した。幸いにもこの従僕とともに近くの岩場に流されて、すぐに発見されたため、大きな怪我はないという。
兄さんは、上半身を起こし窓の外を眺めていた。
「兄さん」
「クリストフか。心配かけたな」
「本当だよ。幸運に感謝したほうがいいね」
ベッドサイドの椅子に腰掛けながら、ほっと安堵の息を吐く。
医師の診察も問題がなかったようだ。
というか、一緒に船に乗っていた者のなかで、ほぼ無傷なのは兄しかいない。死んだ者もいる。生きている者も発熱していたりどこかしら怪我や骨折をしていたりで、岩場でできたと考えられる擦り傷が数か所あるぐらいで済んでいるのは逆におかしい。
だが、兄は運がいいからこういうこともあるかもしれない。
そう思っていると。
「人魚に助けられたんだ」
頭は無事ではなかったのかもしれない。水面に頭を打ったのだろうか。甲板から落ちれば、水面も地面のように硬くなるという。
そんな失礼なことを考えているのが分かってしまったのだろう、兄は拗ねたようにおかしくなったわけじゃないと言った。
「いつから王子になったんですか」
「茶化さないでくれ。ちゃんと見たんだ。多分あの岩場へ運んでくれたんだと思う。黒い髪で、マリンブルーの瞳をした可愛らしい女性だった。耳のところに魚のようなひれがあったし、水面から足の代わりに大きな尾ひれが出ていた。運んだ後、何故か歌を歌っていた。あれは人魚だ」
父にそっくりな赤い目を僕に向けて兄は熱弁した。
母は昔、僕とふたりきりになると人魚の話をした。兄や父には内緒だと言って、人魚は皆青い瞳をしていることや、歌うことで魔法が使えることなど。兄の言う人魚は、僕が聞いた人魚の特徴と当てはまる。
助けてくれた女性を見間違えただけの可能性もあるが、もしかしたら本当に人魚に助けられたのかもしれない。
どちらにせよ、兄は誰かに助けられたようだ。
「分かったよ兄さん。明日、海辺を散歩してみよう。もしかしたら兄さんを助けた人に会えるかもしれないからね」
「あぁ、そうしよう」
助けてもらったのならきちんと礼をしなければならない。兄もそう思ったのか快く頷いた。
無事なのは確認できたしと兄の部屋を出て自分の部屋へ戻る。
窓を開けるとまだ少し冷たい風が入ってくる。日差しは暖かいが、まだ外で紅茶を飲むのは早そうだ。自分の領地はきっともう暖かくなっているだろう。庭の花もきっと咲いている。
気候が異なるせいか、こちらの海のほうが青々としているように見えるなと、窓の向こうに広がる海を眺めつつ思う。
兄は人魚に助けられたのだろうか。
僕の領地にも人魚の噂が流れている。祖父の代以前から流れているので噂ではなく言い伝えにも近いのかもしれない。何にせよ、母は人魚だったので本当に人魚はいたのだ。それならここで兄が人魚に会ったとしても不思議はない。海は繋がっているのだから。
それでも、こう胸がもやもやしてしまうのは。
なんで人魚に会ったのが僕じゃなかったのだろうと思ってしまったからだ。
ずっと人魚に会いたかった。いや、正しくは同じ瞳の色をした人に会いたかったのかもしれない。母が死んでから、学校にも社交界にも、青い瞳の人間には誰一人会えたことがなかったからだ。
兄は父と同じ、赤い瞳をしている。父方の従兄弟にも同じように赤い瞳の者もいる。けれど僕は、同じ色の瞳の人間に出会ったことがない。珍しくて素敵な色だとか言う人もいるけれど、珍しさなんてどうでも良くて、僕はただ他にもいると知りたいのだ。人魚の血を引く人間が。
そして、浜辺を兄と歩くのが日課になった頃、遂に出会った。
先に見つけのは僕だった。
浜辺に、女性が一人座っていた。それもずぶ濡れで。
「君は……」
思わず声をかけ、彼女が振り返ったので言葉を飲んだ。
彼女の瞳が自分と同じ青だったからだ。正しくは少し違う。彼女の瞳は緑を帯びたマリンブルーで、僕のは少し紫がかった瑠璃色だからだ。いやそんなことはどうでもいい。
人魚だ、彼女はきっと。
誰よりも早く小走りに駆け寄り、風が冷たいからと羽織っていた薄手のコートを脱いで、シンプルな白のワンピースを肌に貼りつかせた彼女の肩にそっとかける。全身濡れて春先の冷たい風に吹かれていた彼女はひんやりとしていた。
彼女の足先をちらりと見る。ワンピースと同じぐらい白い人間の素足が裾から覗いている。
「君。大丈夫ですか?」
顔を覗き込む。元からなのか冷えたからか、色のない肌に映える、赤い唇と青い瞳がやけに印象的だ。特段美しい顔立ちというわけではないが、可愛らしく何故だか惹きつけられる。
見惚れているとハクハク、彼女の赤い唇が動いた。それから、少し悲しそうに瞳を伏せる。
この仕草はきっと。
「どうやら彼女は話せないらしい」
「……話せない?」
彼女の視線が兄へ移り、そして、目を丸く見開いた。人魚の彼女が何故兄を見て驚いた顔をしたのか。兄を知っているのだろうか。それなら、彼女こそが兄を助けた人魚なのかもしれない。
そう思って兄を見るが、兄は特段変わった様子はみせず、話しかけながら近づき顔がよく見えるように彼女の顎に手を添えた。
だが、コクリと頷いた彼女を見て、今まで見たことのない微笑みを浮かべた。優しく、愛おしそうな眼差しで、兄は彼女のことを見ている。
このままでは。人魚姫の物語の通りなら、彼女と兄に惹かれ合ってしまう。その後結ばれるかは定かではないが。
それは嫌だ。
どうにか、彼女を手に入れられないだろうか。
「もし君が構わないなら、これから私達の家に連れていき手当をするが、いいか?」
「パトリック様! 身元も知れぬ者を屋敷へ招くなど」
「何かあれば私が責任を取る。世話も我が家の使用人にさせる。スカルホーン家には迷惑をかけない」
「ですが……」
「あなた方はこのようにずぶ濡れで困っている者を身元が知れぬからと放って置くのですか?」
そう算段をつけていると兄とスカルホーン家の従者と揉めだした。確かに屋敷に滞在させてもらっている身だが、気晴らしの散歩にも勝手についてきて少し腹に据えかねていた。
更に言い募るのを切り捨てると、くっと言葉を飲み込んで従者は引き下がった。
彼女を振り返る。幸いなことに言葉は通じるようだったから、こんな会話を聞かせてしまったのを申し訳なく思いつつ、兄よりも先に手を差し伸べる。
「僕はクリストフ。兄はパトリック。このままでは風邪を引いてしまうから話は屋敷へ行ってからでいいですか? 立てます?」
彼女は自分の足元を見遣る。そして、そっと自分の足を撫でた。きっと動かすことができないのだろう、母もそうだった。
「もしかして、立てませんか? では僕が運んでいきましょう。首に腕を回してください」
それならと、彼女の背と膝裏を支えて抱き上げると、わっと口を丸くしたあと彼女は僕に強くしがみついてきた。
その反応が可愛らしくて、胸がぎゅっと鷲掴みにされたようだ。でもこれは、彼女が人魚だから執着しているだけだ。他意はない。
「クリストフ、大丈夫か? 代わろうか?」
「そこまで貧弱じゃないし羽のように軽いよ」
「そうか。じゃあ医者の手配をしてくる」
兄は笑ってそう言って、早足で屋敷へ戻っていく。僕は、海を見つめる彼女が寂しげなので少しゆっくり歩いた。
人を抱えるのは初めてだが思ったよりも軽い。見た目は同世代のようだが、人魚と人間の年齢の感覚の差は同じなのだろうか。
それよりも。僕は彼女が人魚だと気づいていることを伝えるべきなのだろうか。話せず歩けず、同族からも離された彼女に、力になれるかもしれないと。だけど知らない人間に自分の秘密を知られているのは恐ろしいかもしれない。昔読んだミステリー小説ではそれが殺人の動機になっていたのを思い出した。
一先ず、彼女が歩けるように手助けをして親睦を深めてみよう。どんな人なのかを知りたい。
海が見えなくなったので歩調を早めれば、彼女は僕に身を委ねながら瞼を閉じた。