32 カスミの学習
ラフィスがわたしの鼻先に人差し指を突き付けた。指先に吸い込まれる感覚があって、そのまま意識が遠のいていく。しばらく真っ白な光の中にいたような気がしたが、誰かに呼ばれる声で我に返った。
「戦士様、聞こえていますか?」
目の前でリーネがわたしの顔を覗き込んでいた。わたしはうなずいて返事をする。
『おかえりなさい、戦士様』
続いて、アラネスの声が頭の中に響いた。見覚えのある、華奢で白い手をヒラヒラさせて確認する。無事にアラネスの身体に戻ったようだ。
『良かった。このままひとりにされたら、どうしようかと心配しました』
さっきまでわたしが入っていた傀儡が床に倒れている。知らない人が見たら、どう見ても死体だ。
『やっぱり、傀儡の身体でもよかったような気がしてくるね』
『どうしてそんな意地悪なことを言うんですか』
アラネスの悲痛な叫びが妙に懐かしい感じがする。
「なんとか、うまくいきましたね」
リーネがほっとした表情をしている。ラフィスによって傀儡から引っ張り出されたわたしの魂を、リーネがアラネスの身体に戻したのだ。もしリーネが失敗していたら、わたしはそのままアヤカさんのいる所に行っていたのだろうか。
その夜、派手なベッドの上でわたしは眠れぬ夜を過ごしていた。というのも、カスミが枕元に立って、じっとわたしを観察していたからだ。
「ねえ、カスミ。せめて足元の方にいてくれないかな」
「人間がどのように眠るのかを学習中なのですわ」
「そんなの、目を閉じてじっとしとけばいいんだよ」
「承知したのですわ」
カスミはわたしの言葉に忠実に従って、同じ姿勢のまま目を閉じた。
「……人間は普通、立ったままでは寝れないからね」
と言っても、カスミが寝れるベッドはないのだが。カスミはキョロキョロと周りを見回すと、床に寝転がった。どうしたものかと考えたが、この子も人間に近づこうとしているのなら、きちんと人として扱ってあげなければなるまい。
「カスミ、狭いけど、わたしの横においで」
カスミはいまだにワンピース姿だったので、わたしは着替え用のパジャマを出して着せてあげた。
「失礼しますのですわ」
カスミがわたしの横に潜り込む。シングルベッドは思った以上に狭かったが、カスミにもちゃんと体温があるので、寒がりのわたしはちょっと助かったりした。
翌朝わたしが目覚めたとき、隣のカスミは目を閉じていた。一見普通に寝ているように見えたが、わたしが上体を起こしたのとほぼ同時に、カスミも起き上がってきた。
「おはようございますですわ」
「……おはよう。一応聞くけど、あなたも寝てたの?」
「目を閉じて、幻魔石の残留知識から学習を試みていましたですわ」
「そんなことできるんなら、全部自己学習でいいじゃん」
「いいえ、破損した知識から学習出来たのは、二つだけですわ」
「ほう、具体的には」
「一つ目は、はにかんだ笑顔の作り方ですわ」
そう言って、カスミは伏し目がちに微笑んだ。随分と偏った知識が残っていたな。
「もう一つは、ジンギスカンの焼き加減ですわ」
こっちの世界でも前に聞いた覚えがあるワードだ。もしかして、この子に組み込まれた方が賢者さんの石だったのでは。
「それなら、もう一つの石からも何か得られるかも知れませんね」
既に起きて画集を眺めていたリーネが言った。
「抽出するときに、少しカスミさんにも配分してみましょうか」
シルファの家の庭で、わたしとカスミとリーネは輪になって向かい合った。リーネの手のひらの上に、封印を解いた幻魔石がある。
『悠久の時と共に紡がれし、尊き命脈の記憶よ。我が意に応え、今ここに顕現せよ』
幻魔石から閃光が放たれて、目が眩む。温かいものが胸の中に入ってくる感覚がある。
「今回は戦士様の五感の強化ができました」
リーネに言われて、森の向こうを見渡してみる。確かに、どこまででも見通せるような感覚があった。百メートル程先の木にセミに似た虫がとまっている。その背中の翅の模様までもくっきりと見える。よく、目の悪い人が眼鏡をかけたら世界が変わると聞くが、まさにその感覚だ。
耳の方は、屋外にいながら、家の中で寝ているシェリルの寝息が聞き分けられるレベルだ。
「リーネ、これ、情報量が多すぎてちょっとキツイかも」
あまりにも見えすぎるし、うるさすぎるのだ。この状態でいると、そのうち頭痛がしてきそうだ。
「そのあたりは、ご自身で制御出来るはずです。意識しなければ、生活に支障はないかと思いますよ」
一度深呼吸して冷静になると、今までとそれほど変わらないことに気づく。見ようとするから、見えるということらしい。
「カスミの方は何か学習出来そう?」
わたしは隣でうつむいているカスミに聞いた。
「……戦士様。わたしはひとつ、気づきましたわ」
カスミはゆっくりと顔を上げて言った。
「『ですわ』は、文脈を考えて、キチンと活用する必要があるということですわ」
「……気づけて何よりだよ」
カスミの変わらない表情が、逆にドヤ顔に見えてくる。色んな意味で、幻魔石の謎が深まった。




