第9話:はじまり
俊はシャーッという、何かを引く音で目を覚ました。ぼんやりと霞む視界に、病室の窓のカーテンを引いている沙穂がいた。静かに振り向いた彼女の姿に、昔が重なって見えた。まだ、付き合って間もない頃の沙穂の姿。俺が起きたのに気付くと、少し微笑んで言った。
「あ、ごめん。起こした?」
その一言で、俺はすぐに身体を起こして、沙穂の両肩を強く掴んで訊いた。
「紗穂!身体の方は大丈夫なのか?!」
「俊、痛いってば……大袈裟ね」
「寝てなきゃダメだろ」
俺は強くそう言って、沙穂の背中を押した。沙穂をベッドに寝かせようとすると、沙穂は細い腕で俺の手を掴み、それを制した。
「俊、大丈夫。もう大丈夫だから」
有無言わせない強い口調に、俺は戸惑った。
そして、次の言葉で俺は、沙穂の真意が分からなくなって、もっと戸惑ってしまった。
「ね、デートしよう?」
「はっ?」
その時の彼の表情は、今思い出すだけでも笑える。この五年で変わったと、そう思っていた。でもこういう間抜けなところは、全然変わってないことが嬉しくて、少しだけ泣きたくなった。私はこのデートをしたら、家族に何も言わず、どこか転々としよう―――そう思った。一人旅なんて、いいかもしれない。
何もかも捨てて―――。
だから、何の企みなんてなく、ただ純粋に最後のデートを楽しみたかった。
最後まで、必死に足掻いて見ようと思っていた。
大きくなった気持ちだけが、いつも空回り。
彼を全力で振り回したいと思った。でも、振り回されてるのは、やっぱり私。
キスを奪われただけ―――。
氷のように冷たいあの表情を見ただけ―――。
たったそれだけのことなのに、私の心は嵐のように荒れ狂って、動揺してしまう。
彼は、ずるいと思う。私ばっかり、好きで好きで、本当に好きだから、彼がとても恨めしい。自分の気持ちは、もう破裂寸前。
もし、この気持ちが破裂したら、私は彼を傷つけてしまう。
彼が傷つく言葉を、平気で言ってしまう。
彼には幸せになって欲しい。笑っていて欲しい―――。
自分の幸せなんて、二の次だ。だから、その前に「別れ」を選ぶ。
今度は、「逃げる」のではなくて本当の「別れ」なのだから―――。
エドガーは、目的地を変えた感じの悪い客に対して、苛立ちを募らせていた。服装はブランド物で統一されているのに、派手という感じが全くしない。センスがいいというのが、その要因であるのだろう。いかにも高そうなダイヤの結婚指輪が嵌っている。信号待ちの度に、バックミラー越しで彼女の様子を盗み見ていると、目元をくっと細めて、鋭い眼差しで言った。
『何か?』
『いや、別に……』
『用がないなら、ジロジロ見ないで』
『す、すみません』
エドガーは、それきり彼女と一言も話さずに、目的地へと車を動かした。
病院に到着すると、彼女は予想の金額より少ないお札を出して、エドガーにこう言った。
『貴方、客のプライバシーとか少しは考えたら?不快感の分を差し引いておいたから。
それと―――いらないから、あげるわ』
勝手にそう言って、彼女はすぐに病院の中に入っていってしまった。エドガーの手元に、放り投げられたのは、さっきまで彼女の指に嵌っていたダイヤの結婚指輪だった。エドガーは、その指輪と彼女が入っていった病院を見比べ、溜め息を付いた。エドガー自身、おせっかいな性格だというのは、重々承知している。そのせいで、自分が嫌な思いをすることだって、今まで何度あったことか―――。ただ彼が、さまざまな出来事に巻き込まれるのには、いつも意味があった。だからこそ、今の職に落ち着いて、充実した日々を過ごしているのだ。彼女に押し付けられた、結婚指輪。これも何かの縁なのかもしれない。そう思ったエドガーは、慌てて車から降り、彼女を追った。彼の手の中には結婚指輪―――。
銀色に輝くその指輪の内側には、ダイヤの価格に似つかわしくない、『I Love you. Nao 』と下手な文字が彫られていた。




