第8話:封じ込めた想い
暗い闇の中で、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。振り向いてみても、誰もいない。そこには、ただ永遠と闇が広がっているだけ。だから、その声の主は分からなかった―――。ただ、あまりにも必死に呼んでいたから、放って置くことができなかった。その声を無視することなんて……どうしても出来なかった。
刹那、闇の中で微かな水の音が聞こえた。一滴の雫が小さくて大きな音を奏でる。波紋のように闇に響く清らかな音。その雫は、私の頭上から一滴、また一滴と垂れてくる。その一雫がまるで誰かの涙みたいだと、何故かそう思った。そっと額に手を伸ばしてみたけれど、額に雫は落ちていなかった。変なの……。私は夢と現の間にいる意識を、半分だけ引っ張ってみる。すると、誰かが優しく撫でてくれていた―――。まるで壊れ物を扱うみたいで、その手はとても温かかった。そして、とても優しかった。私は、安心して意識を手放し、再び夢の中へと落ちていった。
―――俊―――
渇望する想い。溢れ出る想い。辛くて切ない想い。名前を呼ぶだけで、封じ込めた想いが急速にふくらんでいく。心の中、夢の中で、そして現実で何度も呼んだ。―――何度も、繰り返し繰り返し。想いは所詮、幻なのかもしれない。何だか、彼を想うのが疲れちゃったなぁ。あれから五年も経った、もう引き際なのかもしれない。それでも、最後の望みに縋って、そこから一歩も動けない私は、何も成長してない臆病者なんだわ。
「……ほ、……沙穂!」
闇を貫く一筋の光の中で、はっきりと声が聞こえた。私を呼んでいる―――。俊、どうしたの?何故、そんなに辛そうな声をしているの?待ってて、私が今行くから……。重く感じる瞼をそろそろと持ち上げると、そこに見たことのない天井があった。顔だけ横を向くと、傍に感じる気配。そこには、俊が寝ていた。そういえば、俊の寝顔を見たことなかったな。寝顔からは、半端じゃない疲労が見てとれた。ずっと……付いててくれたの?私の疑問を代弁するかのように、上から声が振ってきた。
「俊、ずっと……二日間寝ないで、付いてたんだぜ?さすがに、俊の身体が心配だったから、俺が無理矢理寝かした」
「お兄ちゃん。ここ病院?」
窓から差し込む夕陽の光で、赤く染まったYシャツにくたびれたネクタイをしていた。
そんなスーツ姿の兄が、サイドテーブルに買ってきたばかりのジュースを置いて頷いた。
「過労だって。ぶっ倒れるまで、いろいろ抱え込んでたのか?」
「迷惑かけちゃったんだ、ごめん」
「あれ?妙に素直じゃん」
意外な反応に驚いて、兄は目を丸くしていた。私は少し微笑んで、俊の寝顔を見ながら、こう言った。
「うん、もう……何か疲れちゃった」
「ふぅん、ま……どうなろうと俺は沙穂の味方だから、どうでもいいけどよ。ただ、五年前のこと、俊からちゃんと聞いてやってくれないか?」
五年前のこと―――。あの日のことを言ってるのか……。私は困った表情を浮かべ、肩を竦めて、兄に向かって言った。
「分かってるよ、お兄ちゃん。私、彼を浮気と疑って別れたわけじゃないの」
「……じゃあ何で?」
不思議そうに問う兄に、私は両目を瞑って静かに答えた。怖いくらい静かな室内に、私の真剣な声が大きく響いた。
「以前から、私達の間には埋められないものがあったの。気持ちの重さっていうのかな?彼にとっての私って、一体何だろうって……。幾度幾度も考えたわ。でも、彼は付き合い始めてからも、何一つ変わらなかった。私に対する態度とか、気持ちとか……全部平行線のまま―――。交わることのないものは、きっと交わらせてはいけないのよ。それを捻じ曲げてでも、交わりたいと思った。でも、もう限界。もう、全部終わりにする」
「沙穂……」
この時、お兄ちゃんは多分気付いていた。頬を伝う一筋の涙のことを―――。
そして、きつく握り締めすぎて、鬱血している両手のことも―――。だけど、締め付ける想いと過去の傷痕、そのすべてを直すことができるのは、お兄ちゃんでもカーティスでもない。傍であどけない寝顔を浮かべて、私が起きたことにも気付かないくらい、深い眠りついている俊だけだった。
某時刻、N.Y.の空港から一人の女性が出てきた。彼女は、重そうなスーツケースを転がして、ハイヒールをカツカツと小気味好く鳴らして、颯爽と歩いて行く。その足取りに、「躊躇」の文字はない。それからすぐにタクシーを拾い、荷物をボンネットに積み込んで車に乗った。気さくな運転手は、彼女をバックミラー越しに見て「観光かい?」と聞いた。
すると、彼女は少し笑って言った。
「すべてを終わらせるために来たの」
それは、澱みない覚悟を決めた声色だった。運転手は肩を竦めて、名乗った。
「僕はエドガー。少しの間だが、よろしく。君は?」
「奈央。加藤 奈央です、よろしく」
淡々と答える彼女は、決して「よろしく」という表情ではない。エドガーは「感じ悪い客」と思いつつも、仕事のためと割り切って、行き先を尋ねた。
「立花グループコーポレーション、N.Y.支社まで」
彼女の唇に乗った紅が、鮮やか煌いたのが強く印象に残った。
こうして、すべてを終わらせる覚悟のできた彼女達と、途方にくれた男性達がN.Y.の地で決着をつけることとなったのだった。




