第5話:五年間
俊は手元に嵌めてあるロレックスの腕時計を見た。短針と長針は十一で重なり合っている。自ら高収入だと誇示しているわけではないが、ビジネス上で身形の良し悪しは重要だ。秘書になるまでは、毎日くたびれたワイシャツに日替わりのネクタイを数本、スーツ一式は毎朝クリーニングに出してから出社―――それが日課だった。それが、今はどうだろう。この五年で俺は彼女を惚れさせるほどの男になれたのだろうか……。洗面所の蛇口をひねり、勢いよく大量の水を出して、ふと眼の前にある鏡を見た。
五年前と比べて、確かに変わった。それは自負している―――。
成人式の時に買った安物のスーツは、アルマーニのスーツに様変わり。
それに合わせて、ネクタイもワイシャツも皮靴も、身につける全てがブランド物になった。
外見なんて、いくらでも変えられる―――。ただ気持ちだけは、どうやっても変えられなかった。
彼女への気持ちは、再会しても変わっていなかった。心の奥で燻っていた、色褪せない想いがこの身を焦がす。彼女と再会した瞬間から、何度それを必死抑え込んでいただろうか―――。容赦なく打ち付ける水飛沫が、手の甲で弾ける。噴き出し続ける水音にようやく気付き、慌てて顔を洗った。水の滴る前髪をくしゃりと掻き上げて、俺は洗面所を後にした。
最上階のバーに顔を出すと、ほろ酔いした亮太さんがウィスキーを、くいっとあおっていた。俺の気配に気付くと、妖艶な笑みを口元に浮かべて、遠回しに皮肉った。
「おや、俊君は朝帰りかと思ったけど?」
「亮太さんと一緒にしないでもらいたいのですが?」
俺は上下関係など気にも留めず、しれっとそう言った。すると彼は、痛い所を突かれたのか、口元を引くつかせ、鼻で笑って「……言うようになったじゃないか」と言った。俺は彼の隣の席に着いて、カウンター越しにバーテンダーに同じものを頼んだ。高級ホテルのバーだけあって、バーテンダーの背後には夜のN.Y.が広がっていて、グラスを傾けながら、夜景を一望できるという贅沢な造りになっている。ピアノから紡ぎだされるクラッシックの音色は、周囲にいるカップル達の愛を飾り立てている。
「おかげ様で。……あまり、飲みすぎると明日に差し支えますよ?」
「それって心配してるんじゃなくて、暗に自分に迷惑掛かるのが嫌だって言ってるだろ」
咥えていた煙草を灰皿の上に押し潰して、半眼で俺を見て言った。
「珍しく物分かりがいいじゃないですか。一秘書としてようやく尊敬すること出来ますよ」
「お前を秘書と沙穂の彼氏として認めるんじゃなかった」
俺が爽やかな笑顔で毒を吐くと、彼は頭を両手で抱え、唸るようにそう言った。
内ポケットから煙草とジッポを出して、煙草に火をつけた。俺は溜め息とともに煙を吐き出すと「……今更、後悔しても遅いですよ」と彼に向かって言った。
それは、自分自身にも言い聞かせる言葉でもあった。
俺はこの五年間、彼女のために生きてきたようなものだ。もう後には戻れない。ならば、先に進むしかないんだ。奥歯をきつく噛み締めて、カウンターテーブルに出されたアルコール度数のきついウィスキーを、一気に飲み干した。喉が焼けるように熱くて、むせ返りそうになった。亮太さん、こんなものを飲んでいるのか……。いくら飲めるからといって、飲み過ぎは身体によくないな。俺は亮太さんの手から、ウィスキーボトルをそっと外して、残り全部を自分のグラスに注いだ。
「―――お前、実は俺がお前をクビにするはずないと思ってるだろう?」
「……クビにしてもいいですけど、後のこと知りませんよ、社長?」
「あー、こんな奴の毒牙に沙穂がー」
大声でそう言うと、テーブルに突っ伏してしまった。何だか、いつもの亮太さんらしくないな―――。彼は酔って醜態をさらすことがあっても、店など人目に触れる場所では、意識をちゃんと持っている。それだけは、絶対譲れないプライドだと酒の席で言っていた。だが、今日の亮太さんはヤケ酒よろしく、醜態や人目など気にも留めずに飲んでいる。彼の大声を気にして、何組かのカップルがこちらを迷惑そうに見ている。
「―――本当に飲みすぎですよ。……加藤先輩と何かありました?」
「お前の、その勘の良過ぎるところ、俺―――大嫌ぇ」
「はいはい、―――で、何があったんですか?」
二人の間に一体何があったんだ……?今までで一番酷いじゃないか。勘が鋭いも何も、彼がここまでになる原因なんて、加藤先輩しかいないだろう―――。他にいたら、秘書である俺の身が持たねぇ。俺は日本にいる会社の元先輩を、恨めしく思った。しかし、次の言葉が亮太さんの口から零れ落ちた瞬間、固まった。
「奈央が別れようって」
「え!?―――亮太さんは……何て?」
「―――何も?」
俺が遠慮しながら、探るように尋ねると亮太さんは、突っ伏したままで抑揚のない声色でそう答えた。そこには、何の感情も含まれていない。……無機質な声。
「何で、どうして、引き止めなかったんですか!?」
引き際の潔さに腹が立って、突っ伏している亮太さんの肩を引き寄せて、両肩を揺らして問い詰めた。それでも、彼は何も答えない。一秒がこれほど長く感じるとは、思わなかった。少し経ってから彼は俯いて、小さく呟いた。
「……から」
「え?」
「アイツが泣いたから。「別れよう」って言いながら」
亮太さんは俯いていたが、とても辛そうなのが一目で感じ取れた。だが、俺は同情なんかしてやらない……。今の彼は五年前の、何かに縋って生きていた『僕』という存在によく似ている。まるで、過去の自分を見ているようで吐き気がした。そのせいか、無償に腹が立って、酔っ払った亮太さんの胸倉を掴み上げて聞いた。
「―――亮太さん、それでいいんですか?」
「いいわけねぇだろ。でも、アイツの泣き顔初めて見たんだ。結構キツイよ」
「……そうですか。亮太さんの気持ちは、その程度だったってことですね」
俺が静かに挑戦的な口調で言うと、かっと頭に血が上った亮太さんが、反対に俺の胸倉を掴み上げた。
「何だと?!てめぇっ」
暴力こそ振るわないものの、彼は相当頭に来ているのが見てとれる。だが、これも彼のためだ……。それと―――自分のため。
「だって、そうじゃないですか!僕を五年前たきつけて、ここまで来させたのは誰ですか!?五年間、俺がこんなに変わったのは誰を手本にしてきたからですか!?最後まで諦めるなって、そう言ったのは亮太さんじゃないんですか?」
五年間という長い年月を耐えられたのは、亮太さんがいたからだった。何事にも厳しく、仕事は目の回るような忙しさだった。そのおかげで、余計なことを考えなくて済んだ。沙穂を追いかけて、渡米するという気も起きなかった。五年後、絶対に手に入れようとあの時、亮太さんに誓った。それは、俺自身の戒めでもあったんだ。だから、今の俺がある。
そう、すべて亮太さんのおかげなんだ―――。
「ああ……そうだったな」
俺は周囲に軽く謝罪して、カウンターテーブルに少し多めに代金を置いておいた。
「亮太さん、部屋に戻りましょう」
そう言って彼を連れて出ようとすると、糸が切れた人形のようにもたれかかってきた。
「うわ、おっと」
嫌な予感がして、そっと背後を振り向くと、そこには暢気で平和そうな彼の寝顔があった。「寝てるし……」
本当に、この兄妹は俺をことごとく振り回してくれるよな―――!心の中でそう毒づいて、深い溜め息をついた。俺は亮太さんを、何とか背負ってバーから出た。エレベーターに乗って、自室まで運び、同室にあるスプリングベッドに彼を乱暴に落とした。何が悲しくて、彼女の酔いつぶれた兄を運ばなきゃならないのだろう……。俺は有料の冷蔵庫を開けて、そこから缶ビールを出して一口で飲み干した。これだけ飲めば、すぐに眠くなるだろう。
「はー、疲れた」
俺はもう片方のベッドに大の字になって、目を瞑った。瞼に焼きついている彼女をじっくり堪能しながら、別れ際、沙穂に渡されたメモの真意が気になって、結局眠れない一夜を過ごしてしまった。




