第18話:幸せになる試練
このホテルは、A棟とB棟に別れている。エレベーターフロアから敷かれた、お洒落な絨毯の上を歩いていくと、突き当たりに案内図があった。私はその案内図に従い、A棟へと向かう。廊下はとても静かで、自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。4005号室の前まで来ると、急に尻込みしてしまい、チャイムを押そうとした手は宙に浮いたままだ。その手を一回引っ込め、深呼吸一つする。心の中で「えいっ」と掛け声をかけ、何とかチャイムを押した。すると、ドアの向こうで物音が聞こえ、俊の声が聞こえた。
「はい」
ドアに向かって歩いてくる足音。それと同時に、増していく緊張感。ドアを開く音とともに、そこには未だかつて見たことのない俊の驚いた表情があった。それが何だか、とても愛しくて、緊張とか怖さとか、そういうものが一気に吹き飛んでしまった。私は、俊のことをよく知っていると思っていたけど、何も知らなかったんだ。五年前の私は、俊に踏み込むことを怖がっていたもんね。知りたいけど、知ろうとしなかった。新たな俊の一面を垣間見た私は、そんな事を思っていた。長いことフリーズしていた俊は、何とか我に返り、険しい表情で言った。
「なんの、用だ?」
「ごめんなさい。まだ、寝てた?」
「……いや、別に」
「そう、良かった。―――これを渡しておこうと思って」
彼に差し出したのは、一通の封筒。俊は眉を顰めながら、その封筒を受け取って、その場で開いた。私は、そんな彼の様子を瞬きもせず、見つめていた。一瞬でも良い。彼の反応が見たい。どんな形でもいい。とにかく、私に交際を申し込んでくれた時みたいな無表情ではなく、当たり前の、ごく自然の反応が欲しかった。中身に目を通すと、俊は目を見張って驚いていた。そして、少しの動揺が伝わってくる。しかし、それは仮面で覆い隠すように、瞬時に掻き消えてしまった。俊に渡した封筒の中身は、偽の結婚式招待状。
勿論、カーティスと私の結婚式という想定で。
「……分かった」
掠れた声で、承諾する俊の瞳はどこか憂いを帯びているのが、見て取れる。俯いていた顔をあげ、俊は言った。
「おめでとう」
それは、全く感情のこもっていない祝福の台詞だった。ひんやりと冷たい声色。
―――ごめんね、俊。
もう、私を映していない彼の瞳を見ながら、心の中で謝った。残酷な賭け。
でも、私達の関係に白黒つけるには、最後の賭けに出るしかなかった。
私は、カーティスを傷付けた。俊は私を傷付けた。
ねぇ、俊?だから、これは私達が乗り越えなければいけない、試練なんだよ?
ちゃんと収穫はあった。これで、次の罠を張る準備ができる。
私はホテルを出てから、振り返って、二十階を見上げた。そして、鞄から携帯電話を取り出し、ある番号に電話をかけた。
その夜、ホテルのバーで一人、ウィスキーを飲んでいた。沙穂と再会した時、亮太さんが酔い潰れてあのバー。今度は俺が酔い潰れて、周囲に醜態をさらしてるなんて、何だか笑えるよな。カウンターに突っ伏して、傍らにあるウィスキーグラスに浮かぶ氷を、空ろな瞳で見つめていた。
「俊。お前、飲みすぎだ」
背後から注意する声の主を知っていたが、敢えて無視をした。
「シカトかよ……。お前、明日は辛いぞ?」
「別に、いいですよ。俺は困らないですから」
心配そうにそう言って、亮太さんはカウンターに座った。もともと俺は、秘書の仕事を完璧にこなすため、日夜努力している。だから、二三日仕事を放っておいても、痛くも痒くもない。だが、さすがに亮太さんはそういうわけにもいかない。もともと「努力」とか「徹底」とかいう言葉が大っ嫌いで、面倒事を嫌う。だから、仕事は大雑把なのだ。そのせいで、秘書課全体でのフォローは大変だが、的確な指示と判断力や経営手腕には舌を巻く者も多い。実際、亮太さんの仕事ぶりを五年間見てきたが、脱帽ものだったもんな。
さすが、立花グループの次期後継者って言われているだけあるよな。
「お前、酔い潰れてても、本当にムカツク奴だな」
「お褒めに預かり、光栄ですよ」
「沙穂をどこぞの馬の骨にやるために、五年間もお前を部下として育てていたわけじゃないからな?それだけは、覚えとけ」
「……カーティス、ですか」
バーテンダーに「バーボン一つ」と注文する亮太さんの声が、遠くで聞こえる。
「ああ。アイツだったら、お前の方がマシだ」
「―――珍しいですね。明日、雪でも降りますか」
「ふざけていられる場合じゃねぇぞ?お前が一番、よく分かってるだろ?」
そっか。沙穂から聞いたのか。カーティスと結婚するってこと。
「……」
「このまま、横から掻っ攫われていいのか?お前の覚悟ってその程度か?」
きつく叱る亮太さんの言葉が、俺の胸に容赦なく刺さった。うるさい、分かってるんだ!
自分がどうすべきか、そんなの分かってるんだよ!
やるせない想いとぶつけどころのない感情が暴発し、俺は逆切れした。
「亮太さんに言われなくても、分かってますよ!」
おぼつかない足元を、何とか自分の部屋まで持たせ、部屋の玄関で俺は意識を無くした。
亮太は俊が去ったのを見届けてから、スーツのポケットから携帯電話を出し、見慣れた電話番号に掛けた。
「おう、沙穂か?一応はっぱかけておいた。あとは、アイツの根性次第だろ。俺はここまでしかできねぇぞ?」
『ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃんこそ、奈央さんと仲直りしなきゃ駄目だよ?』
亮太は携帯電話を肩と首の間に挟んで、箱から煙草を一本出した。そして、その煙草を咥えて、ジッポをポケットから探り当てて、火を付けた。煙草を吸いながら、挟んであった携帯電話を片手へと持ち直し、通話を続ける。
「ああ、分かってるって。―――にしても、お前もとんだ策士だよな」
『そう?私は勝負するからには、勝ちに行くって決めてるもの。だって、一応お兄ちゃんの妹なのよ?』
自慢気にそう言った沙穂の声は、病院に居た時の弱さは微塵も感じられなかったので、少し安心した。昔から、沙穂には本当に敵わないよな。俺は苦笑交じりに、吸っていた煙草を灰皿にぐにっと押し付けた。
「あー、そうだよな。お前には昔っから頭、上がらねーよ」
『ふふふ』
「沙穂」
『ん?』
眼前に広がるN.Y.の夜景。このどこかにいる妹のことを考えながら、沙穂に一言だけ伝えた。それは、幼い頃に誓った願い。それも、もう俊に託す時が来たのだろう。
物悲しい気持ちになったが、それ以上に沙穂の幸せを優先させるべきなのだろう。
「幸せになれよ」
『お兄ちゃんもね』
亮太は、沙穂の間髪入れない即答に驚きつつ、ふっと笑って「ああ」と答えた。




