第10話:奈央
兄が買ってきてくれたジュースを飲んでいると、パシンッと何かを叩く音とともに、どこからか言い争うような声が聞こえてきて、私達は顔を見合わせた。何だろうと思い、私達は病室のドアから廊下を覗いてみた。でも私からは、俊の背中が死角になってしまって、よく見えない。そんな私の様子など気付かず、言い争っている方を凝視していた。
「触らないで!」
「奈央!どうして、あんな事を……」
見ることを諦めて、耳を澄ましてみると、それは聞き覚えのある声と兄の声だった。
「嘘だろ。加藤先輩、来てんのかよ」
俊は掠れた声でそう呟き、慌てて病室から出て行ってしまった。あの女の人の声を、私はどこか聞いたことがある。
―――そうだ、あの電話。忌々しい誕生日に掛かってきた電話から、聴こえてきた声だ。
そう思い出すのと同時に、すぐに私も彼の後を追った。何で、ここに居るんだろう……。誰に会いに来たの?私は、様々な思いを交錯させて、声の聞こえてくる方へと向かった。
「―――沙穂」
兄が、遅れてやってきた私に気付くと、バツが悪そうな表情で目を逸らした。すると、女の人は目を丸くして、私を見て聞いた。
「……さ、沙穂ちゃん?」
「え、あ……はい」
「そっか、貴女が―――。ごめんなさいね、倒れたって聞いたわ?大丈夫?」
彼女は、さっきまで殺気立っていたとは思えないほど、ふんわりと優しい笑った。その笑顔は、私の心に巣食う嫉妬を溶かしていく。
同性の私から見ても、羨ましいくらい、綺麗な人……。私もこんな女性になりたい、そう思った。私が軽く頷くと、心の底から安堵した表情を浮かべ、私の手を掴んで歩き出した。
「え、あ、ちょっと?」
「亮太、俊君、沙穂ちゃんを借りてくわね」
彼女は二人が止める間もなく、有無言わさず、私を病院から連れ出した。
病院の中庭は、ちょっとした散歩ができるように、きちんと整備されていた。舗道の両脇には季節折々の花々や木々が、バランスよく植わっていて、一年中患者の心を癒してくれる。そういう意味では、患者のための病院と言えるかもしれない。ベンチまで来ると、彼女は私に座るように促して、話し始めた。
「まずは、自己紹介。加藤 奈央っていうの―――。もう、気付いていると思うけど、五年前に……」
「いいんです、知ってますから」
奈央さんの話は、大方察しがついていた。だから、今更言い分けを聞く間でもないと思い、私は彼女の話を遮って言った。すると、私が怒っていると取ってしまったのか、申し訳なさそうな表情で俯き、そして謝った。
「そうよね、ごめんなさい。変な勘違いをさせてしまって―――。私がニューヨークに来たのは、貴女のこともあったの」
「あの、奈央さんのせいじゃないんです。いつかは、こうなると思っていましたから」
そう、これが本当の気持ち―――。私達には、それだけの考える時間が必要だったはずだわ。そうでなければ、この五年間が全て無駄になってしまう。例え、俊と別れることが来ても、私は後悔なんてしない……。それもまた、一つの人生なんだから。
「でも一つ、まだ勘違いしていると思うの。沙穂ちゃんは、彼の想いをまだ知らないはずよ。きっと自分ばかり、何で?……そう思ってない?」
心の中まで見透かされて、私は肩をびくりと震わせた。彼女は私の気持ちを、知ってか知らずか、軽く目を伏せて、話し始めた。
「私ね、今の沙穂ちゃんと同じなの。宙ぶらりんで、彼の心が分からなくて、愛されてる自信がないの。勿論、すごく怖い。でも、本当の彼を知りたいから、ここに来たの。彼から、逃げたくないの―――。でも、沙穂ちゃん。あなたは……もう何一つ後悔しない?」
水の波紋のように揺れる私の心に、奈央さんの言葉のひとつひとつが、染み渡っていく。せっかく築き上げた決意という名の城も、波紋の波によって崩される。後に残るは、どろどろとした感情だけ―――。どうして、この人には分かってしまうんだろう。心のどこかに、一縷の望みにすがりついている自分がいることを……。
「……」
私は言葉に詰まって、ただ黙っていた。すると、彼女はベンチからすぐに立ち上がり、私に苦笑して言った。
「……なんて、私も人のこと言えないんだけどね。さ、戻りましょう。二人が心配しちゃうわ」
奈央さんから聞かれた一言が、しばらく耳から離れなかった。




