第1話:最悪な誕生日
ガラス越しに流れる人々を、水面のような瞳にずっと映し続けていた。
エンドレスで流れてくる、聞き飽きたBGM。手元にある冷めたミルクティーは、待ち人来たらずとでも言っているかのようだ。テーブルに肘を突いて、片頬をのせてみる。時間は、あっという間に過ぎる―――なんて、絶対に嘘だわ。「光陰矢のごとし」じゃなくて、「光陰亀のごとし」の間違いなんじゃないのだろうか。そう思ってから、はたと我に返った。わざわざ、ことわざを頭のどこかから引っ張り出して、難癖をつけ始めてしまうほどの時間を過ごしているんだわ。こんなところで……。
私は、一体何やっているんだろう。
それは、たった一本の電話が原因だった。シンプルな白の携帯電話が、ファミレスのテーブルの上で震えたのは、三時間も前のことである。
「もしもし、俊?」
『沙穂、ゴメン!』
一言目がそれだった。それはあまりにも、唐突な謝罪。でも、沙穂はそんなことを物ともせず、冷静に受け流した。だってそれは、いつものことだから。
「また遅刻しそうなの?いーよ、別に。俊の遅刻には慣れてるし」
勿論、語尾をそこはかとなく強調させて―――。
『……えーと。いや、そうじゃなくて』
「じゃあ、何?」
はっきりしない優柔不断さは、俊の性格だった。でもそれとは別に、何か言いたそうな声音がスピーカー越しでも分かった。それと同時に、癇に障るように甲高い女性の声が飛んできた。
『こらー、しゅんちゃん!先輩の言うことが聞けないの?!』
『うわっ、そうやって絡んでくるのやめて下さいってば!……って、俺の携帯!』
『もしもーし?もしかして、彼女さんですかー』
「……もしかしなくても、そうですが?」
あくまで、冷静を装った声で彼女にそう言った。ちなみに余談だが、この時の私は通路の向かいにいた子供を泣かしてしまうほどの表情をしていたようだ。子供の両親は、訳が分からずに子供をあやしている。まあ、今の私には全くもって関係ないことなのだけれど。
子供が泣こうが喚こうが、知ったことじゃない。私には、そんな余裕すらなかった。
『俊ちゃんは預かったー、なんちゃって!きゃはははははっ』
『先輩!怒りますよ!ったく。沙穂?ゴメンな。そういうわけだから、そっちに行かれないかも。悪いな!』
―――ベキッ―――
どういうわけだよっ。手に握られた携帯電話の軋む音が聞こえて、慌てて手を離した。
何があっても、必ずちゃんと来てくれる。だから、どんなに遅刻しても怒らなかった。でもその日は必ず、俊の財布を空っぽにさせる。財布に入っていたお金の分だけ、機嫌を良くした頃、結局笑って許してしまうのだった。だけど今日だけは、どうしても許せなかったのよ。
私は、腕時計をちらりと見てみる。もう、間に合わない……。私と俊の関係も―――。
出会いは、本当に単純で付き合うきっかけも、淡白なものだった。
彼――藤谷 俊と私、立花 沙穂は高校の同級生。高校の頃は、お互い部活に忙しくて、話したことなんて、手で数えるほどだった。大学に入って、受講する教科が同じになることが多く、自然に話すようになるのも好きになるのも、そう時間は掛からなかった。
ある日、借りてきたビデオを俊の家で一緒に見ていた。ビデオが見終わって一息ついた頃だった。途中、立ち寄ったコンビニで買った弁当は残り少なく、ご飯は冷たく硬かった。それを口に頬張って、烏龍茶で無理矢理流し込む。さして面白くもない、バラエティー番組を見ながら、俊は口を開いた。
「なぁ」
「んー?」
「付き合おうか」
ごくりっと全てを飲み込み終えた音がする。それが、やけに大きく感じたのは気のせいではなかったと思う。一瞬、何を言われたのか分からなかった。頭の中も真っ白。ゆっくりと俊の方を見てみる。俊はテレビを見ていて、私を見ていなかった。その横顔から、恥じらいとか照れといった類の感情は読み取れない。能面のような無表情に近いかもしれない。テレビからどっと沸いた笑い声が部屋中に響き渡る。それすらも、私には雑音みたいに聞こえた。返事のない私に、俊は再び言った。
「付き合おうか」
今度は幻聴でもなく、聞き間違えでもなかった。そして、私は考えもせずに即答した。
「うん、いいよ」
その後、お互い何事もなかったかのように会話をした。俊は何かを話していたけれど、私は全く聞いてなかった。こうして付き合うことになっても、二人の関係はずっと平行線だった。男女の関係ですることもなかった。二人の間には、恋愛というものだけが欠落していたようにも思える。どうして付き合おうと言ったのだろうか。それを聞いて、返ってくる言葉が怖かった。今までどおりのままではいられないから……。彼がどう思っていても、私は俊が好きだった。
―――好きで好きで、たまらないかった。
だから、ずっと彼を信じてきた。私達の間にあるものが、恋愛とかいう甘ったるいものでなかったとしても、この関係を壊したくなかった。傍に居たかった。それは、もう叶わぬことだけれど―――。
人の波が時間を経つにつれて、途切れていく。時計を見ると、もう九時を廻っていた。夕食時の混雑は収まって、穏やかな時間だけがそこに流れている。テーブルに備え付けてあったナプキンを、一枚だけ取った。バッグから出したボールペンで、メッセージを書き、それを四つ折りにした。それと伝票を持ってレジに向かうと、三時間でミルクティーだけだったにも関わらず、マニュアル通りの笑顔を浮かべた店員が立っていた。
「お会計、230円になります。―――はい、ちょうどですね。有難うございました」
お会計だけを済ませて、その店員に声を掛けた。
「あの、すみません」
「はい?」
「もし、誰かを探している男の人が来たら、これを渡しておいてください」
そう言って、店員に四つ折りのナプキンを渡した。店員は少し不思議そうに、ナプキンに目を落として聞いた。
「これを、ですか?」
「今日のうちに来なかったら、捨ててくれて結構です」
「……分かりました。これ、お客様の荷物です」
「ありがとう」
預けておいた大きなアタッシュケースを、店員から受け取った。全て詰め込んだアタッシュケースが、やけに重く感じる。とても重くて、今の私の心みたいだ。自動ドアで外に出ると、涙のような優しい雨が降っていた。雨が「泣いてもいいよ」と言っているみたい。私は哀しい笑顔を浮かべて、雨が降っている空を見上げた。すっと目を閉じて、込み上げてきそうな涙を押しとどめる。まだ大丈夫、私は泣かない―――。
通り過ぎようとする「空車」のタクシーを拾い、ポケットからチケットを出して、運転手に行き先を告げた。
「空港までお願いします」
あのナプキンにはこう書いた。たった一言だけ―――さようなら、と。
その日は、人生において、一番最悪な誕生日だった。




