① タクミと犬神様
「そっちには山しかありゃせんよ」
山籠りの支度を終えて、ナットの街を出ようとしたところを老人に止められた。
「その大層な装備、まさか山で暮らそうなどと思ってはおらんじゃろな?」
「いえ、少し山菜を採りに行くだけです。すぐに戻ってきますよ」
ことを荒だてたくないので、にっこり笑って嘘をつく。
本当は山に引きこもって一人で暮らすつもりだった。
この山に誰も住んでいないことを調べてここまでやってきたのだ。
「本当じゃろうな? いいか、決して中腹より上には行ってはならんぞ。そこから先は犬神様の縄張りじゃ」
ボルト山の犬神様。
その話は山に行く準備中に街の者から何度も聞いていた。
百年ほど昔、ナットの街が魔物の大群に襲われた時、ボルト山から現れた犬神様が助けてくれたという。
それ以来、ボルト山の中腹から上は、犬神様の縄張りとして、街の人々は決して近づかなくなったという。
「ああ、わかったよ。いかない、いかない」
怪しんでいる老人を尻目に山に向かって出発する。
人が誰も来ない山。
だからこそ俺はここを選んだんだ。
自他共に認める最弱の身でありながら、冒険者になり、大賢者と共にパーティーを組んだ。
そして、人類最強とも思える規格外の強さを持つアリスを拾って、人間としての道を教えた。
俺が為すべき、そのすべての役割を終えたような、そんな気分だった。
後は誰とも関わらず、一人でのんびり暮らしていこう、そう思っていた。
「うわぁあああああぁぁあぁ」
全速力で逃げていた。
住みやすそうな洞窟を見つけたので、入っていくと先客がいた。
ビックベア。
俺の倍ぐらいある茶色い巨体が、怒り狂いながら追って来る。
圧倒的に俺よりも素早い。街で用意した装備を投げ捨てながら必死に逃げる。
カバンを投げつけた時、ビックベアがそれに興味を示してくれたのが幸いだった。
中に入っていた食料のおかげだろう。
ビックベアが夢中でカバンを引き裂いている間に転がるように逃げていく。
山での一人のんびり計画初日に、俺はすべての装備を失った。
三日後、そこに辿り着いた時には、すでに満身創痍だった。
食べたものといえば、小さな木ノ実くらいで、水もろくに飲んでいない。
完全に道に迷って、街にも戻れず、途方にくれている時だった。
目の前に大きな岩の祭壇を発見した。
その上には様々な種類の果物や新鮮な肉などが、山のように供えられている。
街の者が捧げた貢物だろうか。
いけないと思いつつも手が伸びる。
『不届きもの。朕の献上物に手を出そうとするとは何事か』
その姿は見えなかった。
だが、声はまるで目の前にいるように聞こえてくる。
「……犬神。本当にいたのか」
『いかにも、朕の名は伽羅。犬神伽羅である…… って、ちょっと、ちょっと、何食べてるのっ。話聞いてよっ』
例え、街の人々が崇める神様でも関係なかった。
今、食べなければ死んでしまう。
どんな罰でも受けるつもりで目の前のご馳走にかぶりつく。
『それは大切にとっておいたイチゴだぞっ。ああっ! 大好物のレバーまでっ! やめてっ、とりあえず一回、落ち着いてっ』
落ち着いたのは、ほとんど全部食べ終わってからだった。
「いやぁ、食べた食べた。ようやく落ち着いたよ」
どんな天罰も受け入れよう。殺されても文句は言わない。だって食べなければ死んでいたんだもの。
『ヴゥヴヴヴゥ』
犬神様が唸っている。
しかし、それほど迫力はなく、想像よりも可愛い感じだ。
姿は相変わらず見えないが…… ん? あれ、なんかうっすらとボヤけて見えるような。
目を凝らすと食材が無くなった石の祭壇の上に、それははっきりと現れた。
小さな犬だった。めっちゃ小型犬だ。
見たことのない犬種で、なんだか胴体が長くて足が短い。
着物ようなものを着ていて、麻呂のような眉毛がある。
祭壇の上で俺に向かって吠えているが、小さな尻尾はパタパタと動いていた。
思わず目の前に手を出してしまう。
「お手」
ぷにっ、と肉球の感触が手に広がった。
『な、何をする、無礼者っ! い、いやまて、お主、朕が見えるのかっ!?』
「うん、めっちゃ見えてる。超かわいい」
『ま、まじかっ!』
それが犬神伽羅様との出会いだった。
『この世界に来て百年あまり、朕の姿が見えたのはお主がはじめてだ』
「なんで俺にだけ見えるんだろう?」
『わからん、お主があまりに貧弱すぎて、朕の警戒する心が緩んだからだろうか……』
うん。ちょっと涙で霞んで伽羅様が見えにくくなった。
『まあ、とにかく、お主は山から降りた方がいい。ここで生きていくだけの力はお主にはない』
「いやあ、それがもうここしかないんだよ。足手まといの冒険者として皆に迷惑をかけたくないんだ」
『山を舐めない方がいい。長くは生きられんぞ』
知っている。
初日で何もかも失い途方に暮れていた。
だけど、それでもここにすがりつくしかなかった。
「大丈夫だ。山の生活に慣れるまで、ここの貢物で食いつなぐから」
『それっ、朕のだからっ!!』
伽羅様がギャンギャン吠える。
「人は神様にすがるもんだろ? 心配するな、山で生きていけるようになったら、ちゃんとお返しの貢物をしてやるから」
『え、ええっ。ほ、本当に? 新鮮なレバーとか持ってきてくれる?』
「ああ、任せとけ」
伽羅様はけっこうチョロかった。
俺が山の生活に慣れるまで伽羅様は、色々面倒を見てくれた。
最初に見つけた洞窟からビックベアを追い出してくれたり、小さな獣を狩る罠を教えてくれたり、様々なことを教えてくれた。
三年が過ぎ、山に慣れた頃、いつも側にいてくれた伽羅様が姿を消した。
最初に出会った石の祭壇までいくと、気配は感じたが、姿は見えなかった。
「俺が一人でやっていけるようになったから見えなくなったのか?」
問いかけたが伽羅様の答えは返ってこなかった。
必要なことを俺に教えてくれた伽羅様は、自らの意志で姿を消したのだ。
「今までありがとう、伽羅様」
その可愛い姿をもう見れないことが少しだけ悲しかった。
「タクミさんはいつもレバーは調理しないのですね。苦手なのですか?」
ラビ肉を捌いている時にレイアが話しかけてきた。
あれからもずっとレバーだけは伽羅様にお供えしている。
「違うんだ。これはお礼なんだ」
洞窟の前にある大きな岩の前にレバーをお供えすると次の日には必ずなくなっている。
伽羅様は今も近くで俺を見ていてくれているんだろう。
「お礼? 誰にですか? そういえば、少し小さな気配が……」
木漏れ日の中、風が懐かしい匂いを運んでくる。
ワンッ、と鳴く声が聞こえた気がした。




