閑話 アリスと古代龍
生まれて此の方、数千年。
わしは、ドラゴンの王として生を受け、生態系の頂点に君臨していた。
故に、この心の底から湧き出て来るようなおぞましい感情がなんであるか、すぐには理解できなかった。
畏怖。
このわしが、目の前の人間に恐怖を感じているのかっ。
古代龍といわれ、あらゆる生命に恐怖を与えてきたわしが怯え、震えている。
もはや、わしには最後の手段しか残されていなかった。
最初にそれを見た時、わしはそれが人間とは思わなかった。
わしが居を構えるエメラルド鉱石で囲まれた大鍾乳洞にそれは突然やって来た。
いまにも爆発しそうな物騒な気を放っていた。その凶暴な気を小さな身体に収めようとしているが、収まり切らずに、細く鋭い気が身体中からチリチリと、ひりつくように漏れ出ている。
地面につくほどに伸びた長い金色の髪は風に揺れ、なびいている。宝石のように輝く澄んだ青い瞳は、わしをじっ、と見据えていた。
その整った造形はこれまで会ったどの人間よりも美しかった。銀の鎧を装備し、大剣を背負ったその姿は、まるで神話の戦女神のようであった。
「参る」
一言そう呟くと、人間の娘は、まるで散歩をしているかのごとく、平然とわしに近づいてくる。
軽くなでてやるつもりだった。
地面に押さえつけ、黙らせる。そのはずだった。
だが、地面を這いつくばっていたのは、わしのほうだった。
純粋な力の差。
人間の小娘は、わしよりも圧倒的に強かったのだ。
愕然とし、恐怖に身を震わせる。
たかが、人間の小娘一人に、わしがまったく歯が立たないということがあるというのか。ダメだ。そんなことは決して許されない。
「お主の名はなんというのだ」
人に名を問うのは実に千年ぶりだった。
「アリス」
透き通るような心地よい響きを持つ声だった。
大賢者ヌルハチ以来、二人目となる人間の名をわしの魂に刻みつける。
「見事だ、アリス。まさに個の極地。人間が修練の末、到達できる限界を遥かに超えている。だが、それでも、だ。ドラゴンの頂点に立つわしを倒すことはできんぞ」
わしのすべてを賭けよう。
リミッターを外す。
封印していた力がわしの身体の中で爆発するように覚醒する。
その力は、わしが生まれた時から、数千年もの間、毎日欠かさず溜め続けた力の結晶であり、最後の切り札だった。
「さらばだ、アリス。お主の名は未来永劫、忘れはしない」
最も古き龍。
古代龍と呼ばれるわしが生涯で一度しか使えない最大最強の奥義。
「ガアァアあああァアァアっアアァアっっ」
咆哮と共に全ての力を口から一気に放出する。それはまさにわしが生きてきた魂の証、そのものだった。
名前はない。
生涯で一度しか使えない技に名前など必要ない。ただ圧倒的な力が全てを覆い尽くす。
アリスは動かずにわしを見上げていた。逃げ場など、どこにもないと悟ったのだろう。
生命の起源にも似た光の塊が鍾乳洞全域に広がり、アリスとその他、全てをのみ込んでいく。
全てが終わる。
そう思った時だった。
「かぁっ!」
アリスが叫んだ。
軽く気合いを入れるような、そんな感じの声だった。
それだけで、わしが産まれた時から溜め続けた力の塊が、ぱしゅっ、という情けない音と共に消し飛ばされた。
「うそやん」
思わずそう言ってしまった。
いくらなんでも、それは無いだろう。
わしの人生、ぱしゅっ、で終わり?
全ての力を出し切り、倒れているわしをアリスは見下ろしていた。
「そんなものなのか、古代龍」
めっちゃ睨まれた。
超怖い。
「はい、全力全開でやらせていただきました。もう何も残っておりません。勘弁してください」
恥も外聞も捨てて命ごいをする。
しかし、アリスはわしを許してはくれなかった。
「まだだっ。立ち上がれっ。こんなものではまだ足りないっ。ワタシはっ、まだまだ強くならなければならないっ」
獣じみた咆哮をあげ、ギリリっ、と奥歯を噛み締めるアリス。内に抑えていた気が爆発するように膨れ上がる。
冗談ではない。アリスはまだ力のほんの一部しかわしに見せていないのだ。
これ以上強くなる?
すでに人の域どころかあらゆるものを超えて、全ての頂点に君臨しているハズだ。
「な、何故だ? どうして、お主はそこまで強さを求めている?」
恐々と尋ねるとアリスは拳を握り語り出した。
「いつか、師に会うために。師の隣を歩くために、だ」
言ってることが理解できない。
「まさか、その師とやらはお主より強いのか?」
「あたりまえだ。ワタシはまだ師の教えの初歩、その入口に立ったばかりだ」
なんだ、そのとんでもない化物は。それ、妄想とかじゃなくて、本当に存在する者なのか。
「そ、その師とは一体何者なのだ。よもや、人間ではあるまいな」
「人間だ。ただし父は世界を創造した全知全能たる神、母は自然界を守る大精霊と聞いている」
それ、人間ちゃいますやんっ。
思わずツッコミたくなるのをぐっ、と堪える。
このアリスより遥かに強い人間。そんなものが存在するなら、その力を感じることが出来るはずだ。だが、地上にはそのような力の流れをまるで感じない。もし、それほど強大な力を全く表に出さず隠している者がいるならば……
全身にゾワッと鳥肌が浮かぶ。それはもはや創造神や大精霊ですら凌駕する存在だ。
「その師の名前、教えてはくれぬか?」
目を閉じ、アリスはその名を口にした。
「タクミ」
その口元に笑みが浮かぶ。
「我が最愛の師の名前だ」
獣のような殺気を纏っていたアリスが、その名を口にした時だけ、一輪の花が咲いたような、ふわっ、とした優しいオーラに包まれる。
このアリスをそこまでにさせる人間。
タクミ。
その名を、絶対に逆らってはいけない者の存在をドラゴン族の禁忌として、皆に伝えねばならない。
「何処へ行く、古代龍」
「いや、ちょっと、散歩に……」
しれっ、と逃げようとしたがダメだった。ムギュッとしっぽを掴まれる。
「逃げないよね」
「う、うん。逃げないよ」
古代龍現役最後の一ヶ月。
それは伝説の戦いとして、後に語り継がれることになる。
……とても間違った形で。