三百十四話 読者様
ピンクデなんとかドアを開けると、目の前に無限の螺旋階段が続いていた。
ゼェゼェと息を切らしながらやっと頂上に辿り着く。
空中庭園の中心で、全長百メートル程もある、巨大な王院が蜃気楼の中で揺らいでいた。
『天蓮華鳳凰堂』
建物の前にそう書かれた看板が立てかけられている。
王院の扉を押し開けると、ぎぎぎっ、と軋んだ音が鳴り響く。そこから開放された空気には、淀んだ黒と熱気の赤が含まれていた。
「お邪魔しまーす」
百八の仏像に囲まれて、その中心で中年の男が座っている。俺が入って来ても振り向かずに、ただひたすらにノート型パソコンを叩いていた。
「初めまして、あなたが作家さんですね」
男は答えない。鬼気迫る勢いでキーボードに指を打ちつける。それがもはやまったく意味のない無駄な行為とわかっているはずなのに……
「もう、この物語はあなたの思い通りには作られていない。そうですよね?」
【屋根裏宇宙】で見た人物は、明らかにこの物語を根底から覆している。
アリスから聞いていた作家の思考から推測して、そこに至ることは絶対に有り得ない。
「いつから、いや、どこから外れたんですか? あなたの筋書きから」
「……僕の物語は勘違いコメディなんだ」
作家は俺の方を振り向かない。キーボードを叩く手もそのままに、小さな声で、ぼそり、とつぶやく。
「主人公は最弱でなければならない。ずっと弱いまま、最強と勘違いされ続けなきゃいけないんだ」
やっぱりそうか。
作家の手から物語が離れていったのは、俺が文字人間から力を奪ったあの時からか。いや、アレは奪ったんじゃなくて、『超優しくて誰も傷つけない。誰よりも平和を望むナイスガイ』と落書きしたら文字人間が俺に力をくれたんだった。
「君はもう僕の主人公じゃないんだよ、タクミ。だから新しい主人公を作らないといけなかったんだ」
逸脱した物語を軌道修正するために、作りあげた新しい主人公。作家は文字の力で強くなった俺を切り捨てて、世代交代を望んでいた。
「どうして次の主人公を◾️◾️にしたんだ?」
作家がネタバレ防止で言葉に雑音を被せてくる。
「それしか思い浮かばなかった。君をもう1人作るわけにはいかないからね」
まだ、そちらのほうがマシだった。
それなら、躊躇なく排除できたのに。
かつて、魔法王国で六老導が作り出した、俺のクローンみたいに。
「僕の物語は誰も死なない。常にハッピーエンドなんだ。もう随分と乖離してしまった。君が力を得てしまったから」
それもアンタのせいだろう、という言葉を飲み込んだ。意図してこうなったわけではないだろう。作家の中には稀にあるらしい。自らが作った物語の登場人物たちが勝手に動き出し、作家が意図しない方向に物語が変わっていくことが……
「悪いけど、俺は負けないよ。トーナメントを勝ち上がって『あのお方』にも勝利する」
「それがどれだけ不可能なことか。かつての主人公の君ならわかってるんじゃないのか?」
そうだ。あれだけ最弱だった俺が、ギルド会長や魔王、創造神や大精霊との戦いにまで勝利してきた。実質、まったく何もしてないにも関わらずだ。
「それでも、だ。今の俺は誰にも負けない」
「うん、それでこそ、主人公に倒されるラスボスだ」
いまだに外せずオデコに巻いたままのバンダナを触ってしまう。
そこにはハッキリと『うちの弟子ラスボス』と書かれていた。
「主人公が負けて終わる物語も沢山見てきたぞ」
「僕の物語は全部ハッピーエンドだ。たとえ手を離れたとしても、そこだけは絶対変えさせない」
一度は手放した物語を再びその手に取り戻すため、新しい主人公と共に最初からやり直していく気なのか。
「絶対、打ち切りだよ、そんな展開」
「それを決めるのはタクミ、君じゃない。そして僕でもないんだ」
ああ、そうだ。俺もあなたも、この世界の登場人物の1人に過ぎない。
「最初の主人公を俺にしてくれてありがとう」
礼をするようにお辞儀して、背を向けて帰っていく。
しばらくして轟音と共に『天蓮華鳳凰堂』がぶっ飛んだ。
ひらひらと舞い落ちる大量の「爆」の文字の中、ただゆっくりと歩いていった。