閑話 アリスとゴブリン王
切り札は最後まで使うな、使うならさらに奥の手を持て。
誰の言葉だったかは、もう思い出せない。
だが、その言葉があったからこそ、今回、僕は逃げ延びることが出来た。
奥義 泣き落とし。
「さあ、トドメを刺すといい。僕の完全敗北だ」
からの大号泣。
助けてください。
僕はもうひ弱なゴブリンです。
魔力はもう空っぽです。
二度とこの山には入りません。
アイムソーリー、ヘルプミー。
ありったけの謝罪の言葉を投げかけて謝る。
僕は逃げ延びることに成功した。
ゴブリンの森。そう呼ばれるこの森は精霊達が多く存在する魔力に満ちた森だった。
その森の中心にある樹齢数千年の大樹。
その幹の下で眠りながら、ゆっくりと魔力を回復させる。
冒険者ランキング1位。宇宙最強の男、タクミ。
まったく底が見えなかった。
かつて勇者や英雄と呼ばれる人間を数多く見てきたが、そのどれともタイプが違った。
恐らくあの男は、僕のことを敵としても見ていない。
虫かなにかが近づいてきた、その程度にしか感じていないのだろう。
ぎりっ、と奥歯を噛みしめる。
今はそれでいい。
少しずつだ。
また、戦いを挑み、また、逃げる。
彼との戦いは僕を大きく成長させてくれる。
何千年、いや、何万年でも逃げ続け、いつか彼に追いついてみせる。
大樹の下、心に誓う。
その時だ。
ゴブリンの森にふわり、と風が吹く。
その風に微かに人間の匂いが混ざっていた。
ばっ、と慌てて起き上がる。
「見つけた」
すぐ、目の前に女が立っていた。
地面につくほどに伸びた長い金色の髪。
宝石のように輝く澄んだ青い瞳。
銀の鎧に身を包み、大剣を無造作に構えている。
これほどまで、気配に気が付かず誰かの接近を許したことなど一度もなかった。
まるで幽鬼のようにゆらりと立つ女に、ごくりと唾を飲み込んでから質問を投げかける。
「……素敵なお嬢さん、名前を教えてくれるかな?」
「……アリス」
アリスが名前を名乗った瞬間に、これまで内に抑えていた気が爆発したように膨れ上がった。
神話にでてくる猛獣のような獣気が森中に広がり、鳥や獣達が一斉に逃げ出す。
僕は蛇に睨まれたカエルのように動けなかった。
この視線を僕は知っていた。
タクミと戦っている時、ずっと感じていた視線。
そうか、君もダミーに引っかからなかったのか。
「はじめまして、アリス」
タイミングだ。
多分、コンマ1秒タイミングを間違えれば、僕はこの世から消滅する。
「僕はゴブリン王ジャス……」
「参る」
名前を最後まで告げる前にアリスが接近する。
その拳が僕の顔面に一直線に向かっていた。
「脱皮式連弾人形っ!」
少ししか回復していない魔力を全開で使う。
アリスのパンチがダミーの顔面を粉砕する。
同時にダミーから抜け出して、そのまま一目散に逃走する。
あれはダメだ。タクミとはまた違うっ。絶対に泣き落としなど通用しない。
捕まったら、すべてが終わってしまう。
一日に二人もその強さを計り知れない者に出会うとは。
一人は小虫など気にしない悠然と落ち着いた大物だった。
だが、もう一人は小虫といえど全力で叩き潰す、そんな暴君臭漂う狂気の女だ。
「ヒィイイイィィッ」
悲鳴をあげながら全力で走るっ。
これまでの最高速という自負があった。
あっ、という間にゴブリンの森を抜け、砂漠に出る。
もう大丈夫か、と後ろを振り向いた。
「見つけた」
まったく顔色も変えず、ぴったりと後ろを走っていた。
追いつこうと思えば追いつけるのではないか。
それくらい余裕の表情で僕と同じ速度で走っている。
「す、すいませんっ。助けて下さいっ。なんでもしますからっ」
「……ダメだ、おまえはタクミに迷惑をかけた」
予想通り、あっさり却下される。
やはり、逃げきるしか生きる道は残っていない。
逃げてやる。
ゴブリン王ジャスラックを舐めるなよ。
逃げることだけなら僕は……
誰にも負けないっ
三日三晩寝ずに逃げ続けた。
フラフラになりながらそこに辿り着く。
禁断の地。
魔王の大迷宮に。
石造りの螺旋階段を降りていく。
階下はただただ深い闇で地の底は、まるで見えない。
豆粒ほどまで小さくなった身体で必死に階段を降りていく。
もうダミーは作れない。
ここで見つかったらもう、踏み潰されて終わるだろう。
切り札は最後まで使うな、使うならさらに奥の手を持て。
本当の最後の切り札。
これを使うしかもう手は残っていなかった。
最深部の扉の前に立つ。
豪華な装飾がされた両開きの鉄扉。
消えそうな最後の魔力を使ってその扉を開ける。
ギギギィ、と錆びた鉄の音と共にゆっくりと扉が開いていく。
始祖の魔王。
かつてたった一人ですべての神々と戦い傷ついた魔王は、その力を蓄えるため、自らこの大迷宮に引きこもったという。
それから数千年、ここを訪れた者は、人であれ、魔族であれ、神であれ、誰一人帰ることはなかった。
だが、僕はその魔王をも利用する。
僕を追ってくるアリスに魔王をぶつけてやるっ。
「見つけた」
扉が開くと同時にアリスが僕の背後に現れた。
部屋の中に駆け込み、アリスが僕を追う。
小虫のような僕か、凄まじいオーラを持つアリスか。
魔王がどちらを警戒し、攻撃するかは目に見えている。
「さあ、戦えっ、そしてどちらもくたばるがいいっ」
そう叫んでから気がつく。
石造りのその部屋には引き千切られた鎖が、床に飛び散っているだけで他になにもない。
始祖の魔王。その姿はどこにも見当たらなかった。
「馬鹿な、ここには確かにっ、何故だっ、何故いないっ!」
僕の探知に間違いはないはずだった。
この部屋にはあり得ない程の力の残穢が満ち溢れている。
魔王は、魔王はここにいるはずなのだっ!
「久し振りだな、ここに来るのは……」
扉の前にアリスが立つ。
その扉がバタンと自動で閉まる。
どういう事だっ……
まさかっ!
「もう、逃げないのか?」
アリスが僕を見下ろしてそう言った。
「トドメを刺すといい。僕の完全敗北だ」
からの大号泣。
泣き叫びながら土下座する僕をアリスはぷちっ、と踏み潰した。