百二十六話 紅い闇
目に見えるものすべて紅く染まる。
偽マキナの腕がワタシの腹を貫いていた。
大量の血を撒き散らしながら、それでも全力で殴りかかる。
「まだあきらめないの?」
腹に刺さった腕が引き抜かれた。
まるで噴水のように、腹から血が止めどなく噴き出してくる。
「次々と仲間は倒れ、攻撃は当たらない。久遠 匠弥は、もう消える」
耳障りな声は、ずっと聞こえていた。
ワタシを止めようとするヌルハチの声。
タクミが消えてしまうというサシャの声。
起きてと叫ぶチハルの声。
どれも、ただの雑音に過ぎない。
「ゲームオーバーよ、アリス。もう望みはないわ」
聞こえない。
ワタシには何も聞こえない。
タクミは誰にも負けない。
あんな攻撃で消えるはずがない。
それがどうしてわからないのか。
何も騒ぐ必要などないのだ。
「ゔゔゔぅっ」
黙れ、と言ったつもりが言葉にならなかった。
まるで、タクミと出会う前のような、獣のような唸り声が、ワタシの口から発せられる。
目に見えるものだけではない。
頭の中まで全部、真っ赤に染まる。
「ヴィィィ……」
オマエも……
「ヴゥヴぅうぁアァアっ!!」
真っ赤に染めてやるっ!!
初めて。
どんな攻撃にも全く動じず、すべてをかわしてきた偽マキナが、初めて動揺する。
咆哮を掻き消そうとしたのか。
ワタシの、顔面に向けて放たれた拳は、明らかに迷いのある一撃だった。
こちらからの攻撃は当たらない。
だったらそれでいい。
オマエの攻撃ごと砕いてやる。
がんっっっっ、と鈍い音が鳴り響く。
偽マキナの左拳とワタシの頭が激突した。
額が割れて、そこからさらに赤い世界が広がっていく。
「なによ、コレ」
偽マキナの左手の先端から、ピシッ、という音がして、そこから稲妻状に、ビキビキビキビキッ、と亀裂が走っていく。
「なんなのよっ!? コレはっ!!」
肩の付け根まで、亀裂が到達すると同時に、偽マキナの左腕は、パァァアンッ、と弾けて、砕け散った。
「はぁァァァアァ」
相手を砕いた感触に身が震える。
偽マキナの左肩から、真っ黒い何かがドバドバと流れていた。
赤いのは逆のほうか。
もっとだ。
もっとバラバラになるまで破壊する。
タクミに危害を加えたものを許しはしない。
「ガァアアアアアアッ!!!」
両手を広げ、天に向かって吠え叫ぶ。
誰にも負ける気はしない。
いや、タクミ以外の誰にも、ワタシが負けるはずはないのだ。
「そこまでだ」
突然、紅く染まっていた世界が漆黒の闇に覆われる。
目の前にいた偽マキナすら見えなくなるほどの深い闇。
「ヴゥヴヴヴゥっ」
それがなんだっ。
爪を立て、上から下へと闇を引き裂く。
紅い五本の線が暗闇を走り、風船が破裂するように、パンっと闇が弾け飛ぶ。
「……特異点をまるで紙屑のように破るのか。凄まじいな」
目の前にいた偽マキナはいなかった。
そこに入れ替わるように、闇を纏ったタクミが立っている。
いつもと同じ優しい顔でワタシを見つめていた。
「イィ? ヴゥッ」
誰だ? オマエ。
「わかるのか。そうだ。私は匠弥ではない」
当然のようにワタシの言葉を理解する。
タクミと同じ顔をした別のナニか。
ああ、コイツか。
コイツを紅く染めれば、すべて終わるのか。
自然に口角が釣り上がっていく。
流れ続ける自らの血が暖かく心地いい。
全部流れてしまえば、どれほどの快感が得られるのか、もはや想像もつかない。
「ナギサ、ダガン、シスターズ、そしてマキエまでも退けたか。リミッターが外れているとはいえ、これはさすがに想定外だ」
周りにはいつのまにか、誰もいなくなっている。
息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
その吐息すら、紅く染まっていた。
「匠弥がいなくなれば、いや、聖杯が砕ければ力を失うと思っていた。オマエはなぜ、まだ匠弥を信じられる?」
答えるまでもない。
タクミはワタシのすべてだからだ。
誰も信じなくていい。
ワタシだけがタクミの最強を信じていれば、それでいい。
「……狂信者。いや、狂った獣というところか」
偽タクミから、闇が溢れ出し、再び、すべてが黒く染まっていく。
静かに。
身体を前に傾けた。
紅くなった瞳の光が、黒いキャンバスに二つの赤い線を描く。
「アリス、オマエも、もう盤上には置いてはおけない」
「ヴゥイィァァァアァァアアァ」
偽タクミの身体を覆っていた闇がすべてなくなっていた。
周りに広がっていた闇も消えている。
そのすべてが、闇の濁流となり、ワタシに向かって放たれた。
かわしはしない。
そのままだ。
両足に力を込め、そのまま濁流の中に突っ込んでいく。
何も見えない。聞こえない。感触や匂いすら、そこにはない。口の中に溜まった血の味までも消えている。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。
闇の中で五感のすべてが奪われた。
それでも、ハッキリとそこにいるのがわかる。
何かに導かれるように、ワタシは闇の中心に向かって、血にまみれた拳を全力で叩き込んだ。
闇の深淵に一本の鮮血が走る。
世界のすべては紅く染まった。
ぶひゅっ、という音とともに、大量の血が降り注ぐ。
ワタシの拳は、偽タクミの心臓を貫いていた。
拳を引き抜くと、そのまま倒れ込み、ワタシの身体にもたれかかる。
「……ア、リス」
声がした。
雑音じゃない。
それはハッキリと聞こえてきた。
「つよ、く、なったなぁ、アリ、ス」
嘘だ。
こんなのは、嘘だ。
そんなはずはない。
タクミの顔をしていたが、タクミではなかったはずだ。
だけど、いま、ワタシが身体を貫いているのはっ。
「タクミっっっ!!!」
馬鹿なっ!
いつだっ!?
いつ入れ替わったっ!?
いやだ。なんだコレは?
ワタシがタクミを壊したのか?
いやだ。タクミは最強だ。
いやだ。全部嘘だ。
いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
「いやだぁあああああああああっ!!!!!」
ざしゅ、という音が聞こえて振り向いた。
偽タクミの手刀がワタシの喉を深々と貫いている。
どうでもいい。
今はそれどころじゃない。
偽タクミを無視して、腕の中のタクミに視線を落とす。
ワタシの首から血がドクドクと流れ、タクミを一瞬にして真紅に変えていた。
タク、ミ?
抱いていたタクミの手が微かに動いた。
ワタシの頭を撫でようとしたのか、弱々しく動いた手は、そこに届く前に、すとん、と落ちて力尽きる。
「終焉だ、アリス」
偽タクミがワタシの首から手を引き抜いた。
真っ赤な世界が歪んで見える。
腕の中でタクミの鼓動が止まっていた。
声のない無音の慟哭が、ワタシの中で響き渡った。




