百十五話 永遠の距離
ただいま、と言ったアリスは、そのまま一直線にナギサに向かっていく。
その手には、冒険者時代に俺がヌルハチから買ってもらった聖剣タクミカリバーが握られている。
無言。
何も言わずナギサに向かって、その拳を振りあげる。
いつものように、その剣はただの飾りだった。
剣聖と呼ばれているが、アリスは剣をまともに使ったことがない。
剣を握った拳で、ただ、思い切りぶん殴るだけだ。
アリスの唯一にして、最大の攻撃がナギサの顔面に向けて放たれた。
「えっ!?」
『う、うそやんっ!?』
驚きの声を上げたのは、サシャとカルナだった。
俺は、声すら出すことができない。
今まで、幾度となくアリスの攻撃をこの目で見てきた。
結果はいつも同じだ。
巨大な台風に巻き込まれたように、為す術もなく、吹っ飛んでいくしかない。
だが、ナギサは、アリスの拳を喰らっても、まったく微動だにしない。
そのまま1ミリも動かずに、何事もなかったかのように立っている。
唯一、アリスの攻撃を受け止めたシロですら、人差し指を使っていた。
「無駄ですよ」
目の前にある拳をまったく気にせずに、ナギサは普通に話し出す。
「この世界のあらゆる攻撃は私に届きません。そういう設定なのです」
アリスが拳を引くと、傷一つない、ナギサの顔が見える。
「アリス、これは……」
アリスに話しかけようとした時だった。
再び、引かれたアリスの拳がナギサの顔面を殴りつける。
しかし、アリスの拳は、ナギサの顔面ギリギリ、わずか数ミリの所で止まっている。
まるで、ナギサのまわりを見えない膜が覆っているようだ。
「聞こえないのですか? 特異点を破ったのは驚きましたが、こちらは不可能です。設定を覆すことはできません」
それでも、何度も何度もアリスは、殴り続ける。
「どうやら理解できないようですね。いいですよ、気の済むまでやってください」
ナギサが呆れたように、両手を広げた。
しかし、アリスは、諦めない。
ただ無言で殴り続ける。
「それは、タクミ様の為にしているのですか? 私を倒せば、彼が元に戻ると思っているのでしょうか? それなら意味がないですよ」
ナギサの言葉にアリスは一切、返事をしない。
殴り続けるだけだ。
「……アリスさん、あなた、もうわかってるんじゃないですか? この設定がなくなった、ただのタクミ様が、本当のタクミ様だということを」
今の状態が、本当の俺?
唯一、得意だった料理の腕もなくした、何もできない俺が、真実だと言っているのか?
「料理の設定だけじゃない。すでに勘違いの設定も壊れかけている。あなたほどの者なら、わからないはずがない。そこにいる男は、世界最強でもなんでもない。ただのクソ雑魚……」
「黙れっっっっっ!!!」
初めて、ナギサの声にアリスが反応する。
その声は、ナギサだけではなく、その場にいる全員を凍りつかせた。
「お前にタクミの何がわかる」
こちらからはアリスの顔は見えない。
だが、それを見ているはずのナギサが、思わず顔を背けるような、そんな形相をアリスはしているのだろう。
「わ、わかるわよっ! あなた達より、私はよく知っている。すべて知っているのよっ! この男は、私達のっ……!」
ナギサの言葉が途中で止まる。
いつのまにか、ずっと握られていた聖剣タクミカリバーが逆の手に持たれていた。
はじめて、アリスは、その拳のみをナギサに叩きつけようとしている。
びくっ、と微動だにしなかったナギサがほんの少し、後ろに下がる。
攻撃は届かない、とナギサは言っていた。
なのに、剣を持たない拳の迫力に押され、彼女は明らかに動揺している。
「む、無駄よっ! どんなことをしても、距離は0にならないっ! 私の設定には通用しないっ!!」
アリスはやはり何も話さない。
ただ、ナギサの言葉を否定するように、全力でナギサの顔に拳を叩きつけた。
「届かないっ! 届くものかぁあぁあぁっ!!」
拳を前にナギサが絶叫する。
ミチミチミチミチッ、とまるで空間そのものが潰れていくような圧迫される音が響き渡った。
「ひゃっ!!」
ナギサの悲鳴にも似た声が聞こえる。
しかし、それでも、アリスの拳は、ナギサの顔面すれすれの所で止まっていた。
「は、はぁはぁ、ほ、ほら見ろっ、せ、設定は絶対なんだっ、何があっても…… え? なに? それ?」
止まっているアリスの拳。
その中指が親指で強く押さえつけられていた。
手の形が拳ではなく、中指と親指で○を作り、他の指はピンとそり立っている。
そして、中指にすべての力が集約されていく。
『タッくん、あれ、どう見ても……』
「ああ、どう見てもアレだな」
ぐ、ぐ、ぐ、ぐ、と中指がそこから解き放たれるのを、待ち望んでいた。
「……そ、そんな、ものが」
ナギサが再び、大声を上げる。
「そんなものがっ!! 通用するわけないでしょうっ!!!」
パンっっっ、という音が空気を切り裂くように鳴り響く。
『デコピンや』
アリスのすべてを乗せた、そのデコピンは、もはや通常のデコピンとはかけ離れていた。
音を置き去りにする程の高速で放たれた中指は、ナギサのおでこ一点を貫く閃光となる。
パンっっっ、という音が鳴る前に、すでにナギサは、洞窟前にある岩まで吹っ飛んで、激突していた。
「……あ、ありえない。な、なんなの、それ」
額から血を流しながら、それでも、ナギサは倒れていない。
岩にもたれながら、かろうじて身体を支えている。
「……こ、攻撃は当たっていない。……なのに、これはっ! ゆ、指を弾いた時の衝撃波かっ!?」
拳の時には、分散されていた力が、指一本に絞られたことにより、相手を吹っ飛ばせるほどの衝撃波を生み出したのか。
「ふ、ふふ、やはり、あなたはイレギュラー。絶対に排除しないといけない」
ナギサの目は、すでに焦点があっていない。
それでも、アリスのほうに顔を向け、不気味な笑みを浮かべている。
アリスは無言のまま、ナギサに近づいていく。
「アリス、油断するなっ!」
声に反応したアリスが、振り向いて俺を見る。
「大丈夫、すぐ終わるよ、タクミ」
いつものように、美しいアリスの顔。
だが、そこに一つの違和感があった。
アリスの額に、小さな赤い光が一直線にのびている。
「……きたか、ダンガン」
ナギサの声とドンッ、という音が重なった。
同時に、アリスの額から血が吹き出して、ゆっくりとスローモーションのように倒れていく。
はじめてだ。
どんな攻撃にも屈することのなかったアリスが、はじめて、地面に崩れ落ちる。
「そ、狙撃っ!? ど、どこからっ!?」
サシャが叫んで辺りを見渡す。
俺は、倒れたアリスに向かって、駆け寄ろうとする。
だが、その足元に、ドンッ、と二発目が発射され、足止めされた。
『タッくん、あそこっ! 隣の山からやっ!!』
カルナが敵を発見するが、あまりにも遠く、視認できない。
しかし、カルナが見た映像が、そのまま頭に流れ込む。
「あ、あれはっ!?」
それは知っている男だった。
伝説の狩人ダガン。
野生のモンスターの討伐数では、彼の右に出るものはいないとされ、初老に差し掛かろうという年にも関わらず、その身体からは重厚なオーラが溢れ出ていた。
大武会でミアキスに銃弾を歯で受け止められ、死闘を繰り広げながら敗退したダガン。
そのダガンが隣の山から巨大な銃を構えている。
だが、その姿は以前とは違ったものだった。
獣の毛皮を纏っていた服装ではなく、見たことのない素材でできた、黒いゴムのような服で全身が覆われていた。
そして、その手に持つ銃は、以前見た猟銃ではなく、この世界では見たことがない、黒く禍々しく、様々な機器が取りつけられた異様な形をした銃だった。
赤い光は、その銃の先端から真っ直ぐに伸び、再びアリスに向かっていた。
銃に取り付けられた双眼鏡のようなものを覗いているダガンの口角が、にっ、と吊り上がる。
「や、やめろぉぉっっ!!」
俺の叫びを掻き消すように、無情な銃声が鳴り響いた。