百十四話 夜を割って
王と誤の駒を眺めながら、そこから動けない。
アザトースは、将棋盤を残したまま、いつのまにか居なくなっていた。
『タ、タッくん』
あまりのことに、しばらく聞こえなかった声が聞こえてくる。
『あれ、どういうことなん!? アザトースの顔、どう見ても……』
「……わからない。わけがわからない」
頭の中は真っ白で、考えが整理できない。
「カルナはどう思う? 俺、夢じゃないかな、と疑ってるんだけど。……そういえば、少し前からおかしかったよな? 料理とか下手になったあたりから、寝てるのかな?」
『いやいやいや、めっちゃ起きてるて。完璧に現実やて』
「え? 何パーくらい?」
『まごうことなきタクミ100%やで』
タクミ100%の意味がわからないが、突っ込む気にもなれない。
カルナもまだ少し混乱しているのだろう。
二人で意味のない会話を繰り返す。
「そういえば、サシャとナギサは? なにか揉めてなかった?」
『めっちゃ喧嘩して、二人で出て行ったで。アリスやクーちゃん達も帰ってけえへんし、絶対なんかあるで』
アリスは焦ってカルナを投げ飛ばすほど、怪しい気配を感じていたはずだ。
それが夕飯時間になっても帰ってこないということは、確かになにかあったに違いない。
「迎えに行こうか。サシャとナギサも気になるし」
『せやな、タッくん、うち持てる? 人間形態になったほうがええ?』
そう言われて、足元がおぼつかず、まともに立てないことに気がつく。
精神的なダメージが俺の腰を砕いてしまったようだ。
『タッくん、その生まれたての小鹿歩きやめて』
「す、すまん」
しかし、それでもカルナに人間形態になってもらい支えてもらうのは恥ずかしく、魔剣状態のカルナを杖代わりにしてなんとか歩き出した。
「では、どうあっても帰らないというのですねっ! ナギサ!」
「はい、サシャ様。騎士団長の位を剥奪されようが、帰るつもりはありません」
サシャとナギサはすぐに見つかった。
洞窟前の円卓があるところで二人はまだ揉めている。
「そもそも、タクミ様のお世話係は、サシャ様が直々に私に任命されたはず。それを今更覆すなど、どういうおつもりなのですか?」
「……確かに私はあなたにここへ来るように命じたようです。幼い頃から、何度も私の命を救ってくれた最も信頼のおけるあなたに。でも、それは間違いだったようです」
サシャの言葉にナギサは、まるで動じない。
いつものように、明るい笑みを浮かべたままだ。
「あなたを見て確信しました。ナギサ・キリタニ。私はこれまで一度もあなたと会ったことはありません」
それは多くの矛盾を含んだ言葉だった。
なのに、それはあまりにもしっくりと当てはまる。
「もっと早くに気がつくべきでした。あなたの記憶が何故、私の頭の中にあるのかわかりません。でも、最初からおかしかったのです」
「最初から? 違和感が浸透してきた現在ならわかりますが、初動には何も問題はなかったはず」
「いえ、私がタクミの元に若い女性を送るはずがないのですよ。これ以上、ライバルが増えたら、たまったものじゃありませんから」
ああ、という感じでナギサが手をポンと叩く。
「そっちのほうは考えていませんでした。恋愛もののDVD、ちゃんと見てたんですけどね」
「……あなたは何者なのですか? いえ、それは後から知ればいいでしょう。とにかく、今すぐにここから……」
「ちょっと待ってくれ、サシャ」
ナギサを追い出そうとするサシャとの間に割って入る。
「タクミ、ナギサは……」
「ああ、俺もだいぶ前から気付いていた。いや、ナギサは違和感を隠そうともしていない」
今、思えば、あのメロディーを口ずさみ、故郷の映像を見せるナギサは、逆に違和感に気づいて欲しかったように思える。
「どうして、俺に近づいたのか、何が目的なのか、それはわからない。でもそれよりもハッキリさせたいことがある」
「わかりました。答えられる範囲ならお答えしますよ、タクミ様」
屈託の無い笑顔でそう言うナギサに、背後からサシャのイラつきが伝わってくる。
「闇が晴れたアザトースの顔をナギサは見たことがあるのか?」
「ええ。私といた時は闇になど覆われていなかったので、もちろん存じ上げております」
数千年前、初めて魔王がアザトースと出会った時には、すでに闇に覆われていたという。
それより前に、ナギサは出会っているということか?
どうみても20歳くらいの普通の人間にしか見えないナギサには、有り得ないことだ。
なのに、その言葉が嘘でないと直感でわかる。
「あの顔は本物なのか? ゴブリン王のように変身したものじゃないのか? あれは、あまりにも……」
「本物ですよ。間違いなく」
俺の話が、終わる前にナギサは断言した。
「だったら、アザトースと俺は……」
それ以上言葉は出てこない。
なのに、ナギサは俺の耳元に顔を近づけ……
「ええ、その通りです。久遠 匠弥様」
名前の前に、セカンドネームが付くことはない。
「……なんだ? ……その名前は?」
しかし、その言葉は、サシャの声にかき消される。
「なに、今の何っ! タクミに近づいて何したのっ!? キスしたでしょっ!?」
「いえいえ、してないですよ。ちょっとアレですよ、サシャ様、シリアスなシーンなんですから、空気読んでください」
「うるさいわっ、もう、帰ってっ、帰らないと許さないっ!」
「いや、だから、帰りません、って言ってるでしょう」
ナギサとサシャが揉め出して、取っ組み合いになる。
「いいわっ、もうアリス達が帰って来たら力ずくで帰ってもらうわっ!」
サシャがついに、強行手段を叫んだ時だった。
アザトースが来る前に、魔剣カルナを投げ飛ばしたアリスが未だに帰ってこないことに気がつく。
すでに辺りは、すっかりと日が暮れ、月明かりもなく、辺りは真の闇に包まれていた。
「……どうして、アリス達は帰ってこないんだ?」
「ああ、それはですね」
サシャに攻められたままナギサがこちらを見た。
その無邪気な顔は変わらない。
「邪魔なので、排除させて頂きました。もう二度と会うことはできな……」
言いかけた言葉が寸断される。
無表情だったナギサの顔が突然、険しくなり、何もない中空に慌てて顔を上げる。
「馬鹿なっ! 特異点を破壊したのかっ!?」
ぴしっ、と、何かが軋む音が耳に響く。
ナギサが見上げる黒い空からそれは聞こえてきた。
月も星も見えない、どこまでも続くような深い深い漆黒の空。
そこにひび割れたように、一本の白い線が稲妻のように走り出す。
とん、と最後に内側から何かを叩くような音がした。
その瞬間、夜空が、ガラス細工のようにパリンっ、と音を立て粉々に砕け散り、まるで氷の結晶のようにパラパラと降り注ぐ。
大武会の時に似たような光景を見たことがあった。
幻想的な光景の中、そこに舞い降りた人物は、やはり、あの時と同じだ。
「ただいま、タクミ」
すべての不安を叩き壊すように、最愛の弟子が帰ってきた。




