百十三話 王と誤
パチン、と駒が盤面に置かれる音が響き渡った。
俺の正面には、将棋盤を挟んで、アザトースが座っている。
どうしてこんなことになっているのか。
頭の中は混乱中でまだ整理ができていない。
『タッくん、まずいで。このままやと負けてしまうで』
「あ、ああ、そうだな」
とりあえず、今はゲームに集中する。
彼には聞きたいことがたくさんあった。
なぜ、ここにやってきたのか?
どうして、ナギサと一緒にやってきたのか?
彼女と最初から知り合いだったのか?
なぜ、俺が夢で聞いたあのメロディーを口ずさんでいたのか?
だけど、それを聞く前にアザトースは、俺にこう言った。
「……ゲームをして頂けないでしょうか?」
いつのまにかアザトースは、将棋盤と駒の入った二つの木箱を、その手に抱えていた。
まさか、それをするためにわざわざこんな山奥にやってきたのか。
「え、えっと、今、料理を作っているので、それが終わってからなら」
「はい、ではお待ちしております」
彼が何を考えているのか、まるでわからない。
表情どころか、その感情すら深い闇に覆われているのではないだろうか。
料理が完成するまで、ただ影だけがそこにあるかのように、アザトースはじっ、と待っている。
一方、アザトースを連れてきたナギサは……
「ナギサ、少し、お話があるのですが」
「これはサシャ様。五大陸会議の最中だというのに、抜け出して来られたのですか。ここは私に任せて一刻も早くお帰りになってください」
「いえ、すぐに帰るわけにはいかないのです。ここは私にとっても国と同じくらい大切な場所ですからね。だからこそ、ハッキリさせないといけないことがあります」
「……そうですか。では、手短にお願い致します。サリア・シャーナ・ルシア王女」
なにやら、こちらはこちらで異様な緊迫感に包まれている。
そしてしばらくして料理は完成し、火を止めてアザトースのほうを向く。
「よかったら少し召し上がりますか?」
「……いえ、それはまたの機会にしましょう」
料理が拒絶されたのは、今、自分が確かなものが作れないことを知ってるんじゃないか。
そんなことはないはずなのに、彼を前にすると、なんだかすべてが見透かされているような、そんな風に感じてしまう。
「じゃ、じゃあ、ゲームを始めましょうか」
俺がそう言うと、アザートスは、無言で木箱の一つを渡してくる。
フタを開けると中には、将棋の駒がビッシリと詰まっていた。
「あれ?」
その駒を並べようとして異変に気がつく。
「一枚多い? なんだ、これ? 誤?」
普通の将棋にはない、誤と書かれた駒に首をかしげる。
「ええ、そうです。誤です。王が取られたら負けというルールは変わりませんが、この将棋には通常無い駒が一枚ずつ存在します」
どうやらアザトースが持ってきた将棋には特殊なルールが追加されているらしい。
「普通の将棋は王という文字を表にして並べますが、この将棋は裏向けて並べます。そして、この誤も王と同じように裏にして並べます。一つは定位置に、もう一つは自陣の空いてる場所ならばどこに並べてもかまいません」
王も誤も裏返してしまえば、何も文字が書かれておらず、どちらがどちらかわからなくなる。
「これはもしかして」
「そうです。相手がその駒を取るまでは、どちらが王で、どちらが誤かわからなくなります。当然、誤を取られても勝敗は決まりません。王が取られるまで試合は続きます」
なるほど、普通の将棋に騙し合いの戦略性をプラスしたものか。
誤を必死に守って王に見せかけたり、王を敵陣に攻め込ませ、誤に見せかけたりもできるわけだ。
「ちょっと、おもしろそうだな」
これでも冒険者時代、将棋はリックに散々鍛えられてきた。
追加ルールがあるとはいえ、そう無様な結果にはならないはずだ。
『え? タッくん、ルールわかったん? うちよくわからんねんけど、誤は王のフリして頑張る健気な駒ってことやんな?』
「え? ああ、うん、そんな感じだ。だいたいあってる」
通常の王がある位置に裏返した誤を置き、その前方に裏返した王を置く。
これで相手からは、どちらが王でどちらが誤なのか、取ってみるまでわからない。
『タッくん、どっちがどっちか忘れたらあかんで。……あれ? どっちがどっちやった?』
「大丈夫。俺は覚えてる」
アザトースに聞きたいことは沢山あったが、このゲームが終わってからにしよう。
最初は、そんなお気楽な気持ちで、アザートスとのゲームが始まった。
「これで詰みですね」
将棋の用語で、王が逃げ場をなくし、ゲームが終わることを詰みという。
まだ、その駒が王か誤かわからないのに、アザトースはそう言った。
これで十回目だ。
確かに詰まれているのは王で誤ではない。
アザトースは、一度も俺の王を間違うことなく、一直線に攻めてくる。
『タッくん、これ、イカサマちゃうか。裏になんか印とかついてるんちゃう?』
カルナにそう言われて、何度も駒を確かめたが、王も誤も裏面は全く変わりない。
「なあ、どうして王と誤の違いがわかるんだ? 俺、なにか癖とかあるのかな?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、貴方は誤に感情移入しすぎています」
「えっ?」
その言葉に思わず、大きな声を出してしまう。
「大武会での戦いで貴方は世界中の者から最強と勘違いされた。世界の王。しかし、それはただの誤りだ」
どんっ、と心臓が跳ね上がる。
アザートスは、あの時から俺が最弱な雑魚だと見抜いていたのか?
「本当の王が誰なのか、強くわかっているはず。なのに、それが自分と誤解されたままでいいのか、と貴方はいつも考えている。誤を動かすたび、貴方はそこに自分の姿を投影しているのです」
唖然として何も言うことができず、ただアザトースの顔を見るが、あいかわらず彼の表情は闇に包まれたままで、まったくわからない。
「でも大丈夫です。もうすぐ、そんなことで悩まなくてもよくなります。すべてが明らかになるでしょう」
なんだ、いったいなんなんだ。
どんっ、どんっ、と心臓がうるさいくらいに鳴り響く。
「弟子がいつのまにか人類最強になっていて、なんの才能もない師匠の貴方が、それを超える宇宙最強に誤認定されている件、それはもうすぐ解決します」
「っ!!」
アザトースが裏返っていた自分の王と誤を表に戻す。
「この王と誤の駒のように、真実は明らかになるでしょう」
「っ!? この世界は将棋じゃないぞっ! アザトースっ!」
その言葉にアザトースは、小さく首を振る。
「似たようなものですよ。所詮、我々は盤上の駒にすぎない」
そう言ったアザトースの顔から、ゆっくりと闇が消えていく。その姿に、目を見開いたまま固まってしまう。
サシャとナギサが揉めているのか、怒号が飛び交っていた。
カルナも、俺に向かって何か大声で呼びかけている。
しかし、それらすべてが頭に入ってこない。
闇が消え、今はっきりとわかるアザトースの顔に、俺は愕然とするしかなかった。




