百十二話 世界は違和感に溢れている
テンポが上がっていく。
頭の中で流れるメロディが、いつもより早く聞こえてくる。
『たんたた♪ たんたた♪ たんたたたたた♫ たんたた♪ たんたた♪ たんたたたたたっ♫』
ヌルハチと料理の特訓をしてから一週間。
町でいくつかの軽量カップを買い揃え、毎日細かくレシピをとっていくことにより、少しずつ前の味に近づいていった。
手間は格段に増えたが、料理を作る楽しさは、以前よりも上がった気がする。
今日は久しぶりに洞窟前で焚き木を使って鍋の食材を煮込んでいた。
「すごい集中力ね」
「サシャ!」
声をかけられるまで気がつかなかった。
いつのまにか、サシャが後に立っている。
「いい匂いね。もうほとんど復活したんじゃない?」
「いや、まだまだだよ。俺はヌルハチほど、料理の味を正確に覚えていなかったからな。完璧じゃないんだ」
「そうなんだ。でも、完璧じゃなくていいんじゃない? また、新しく作っていけば」
そう言って、ニコッと微笑むサシャに頷いて、再び料理に取り掛かった。
ラビの肉と芋を甘辛く煮込んだ簡単なものだが、シンプルなものほど、取り戻すのに時間がかかる。
「他のみんなは?」
「今日は、みんなで修行に行ってるよ。ナギサは麓の町に買い出しだ」
「……そう」
気のせいだろうか。
ナギサの名前が出たとたん、サシャの顔が少し曇ったような気がした。
「ああ、そういえば、ルシア王国の問題は片付いたのか? なんだか各国からお偉いさん達が集まってるみたいだけど」
「ダメよ、全然終わらない。今日は息抜きに抜け出してきたの」
どんな問題かわからないが、だいぶ難航しているようだ。
「何か、俺に手伝えることはあるかな?」
「ううん、大丈夫よ。タクミは自分のことを頑張って。久しぶりの料理、楽しみにしてるわ」
そう言って笑うサシャの顔は、やはり疲れているように見える。
俺なんかが役に立てるとは思えないが、何かアドバイスできないだろうか。
「あ、そうだ。バッツはどうしてる? アイツなら色々とうまく対応してくれるんじゃないかな?」
「バ、バッツは……」
バッツのことを言った途端、サシャは、驚いたような顔を隠そうとしたが、上手くいかず、すぐわかるような動揺を見せた。
「う、ううん、何でもない。彼は今、ちょっと忙しいみたい」
「そ、そうか」
これ以上、聞いてはいけないような雰囲気だが、それでもほっておくわけにはいかなかった。
「なあ、サシャ。一体何が起きているのか、少しだけでも聞かせてくれないか?」
「……ごめんなさい。話せないの。いえ、正確には、何が起こっているのか、誰も把握できていないの」
「え?」
サシャは、少し沈黙した後、小さな声で話し出す。
「……何も起こっていないように見えて、何かがおかしいの。みんな、違和感を感じてる。でも、それが何なのかがわからない。そんな事が世界各地で起こっているの」
「違和感? 例えばどんな?」
「長年、ルシア王国に使えている部下がいたの。家柄も申し分なく、私は彼女を心から信頼して、新しい騎士団長に任命した」
それって、ナギサのことじゃないか、と思ったが口には出さずに、そのまま話を聞く。
「でもね。なんだか少しおかしいの。確かに私は彼女のことを昔から知っているはずなのに、その顔を見るたびに、まるで最近会ったばかりの人のように感じるの」
ぞわっ、と背中が冷たくなるのを感じていた。
サシャがナギサに感じる違和感以上に俺は彼女を不審に思っているのだろう。
「そして、その違和感は私だけじゃなかった。機械都市、南方サウスシティのデウス博士からも、似たような事例があると連絡を受けたの。記憶はあるけど記録にない人物がいるって」
「えっ? どういうことだっ!?」
「あちらの国では、映写機というもので、その人物の写真や動画を記録する習慣があるらしいの。ある人物が昔から働いている職場の映像にまったく映っていないと報告されたわ。そこに何十年もいて、みんなの記憶にはしっかり残っているのに」
なんだ? 本当に何が起こっているんだ?
「まさか、ルシア王国に世界各国からお偉いさん達が集まっているのは……」
「ええ、全ての国で、似たようなことが起こっているの」
違和感が世界中に広がっている。
どうしてそんなことになっているのか。
そんな時、ふと、一つの言葉が頭に浮かぶ。
「サシャ、もしかすると、この世界は……」
突然、キィィィーーン、と空気を引き裂くような音が鳴り響いた。
同時に俺とサシャの間に、魔剣カルナが凄まじい速度で飛んできて地面に突き刺さる。
ばんっ、周りの地面が円を描くようにえぐれ、衝撃波のような風がぶわっ、と広がった。
『タッくんっ!』
「カ、カルナっ! ど、どうやって剣のまま飛んできたんだ?」
『アリスが嫌な予感がする、とか言うて、いきなり山の麓から、うちを投げ飛ばしてん。びっくりしたわ』
「嫌な予感? 別に何も起こってないぞ」
しかし、アリスは、麓からここまで、数十キロの距離があるのに、正確にカルナを投げ飛ばしたのか。
アリスのすることにはもう驚かないつもりだったが、いくらなんでもこんなことまでできるとは思わなかった。
しかも、こちらでは、緊急的なことは何も起きていない。
料理をしながらサシャと話していただけだった。
それよりもだ。
俺はさっきサシャに何を言おうとしていたのか。
カルナがいきなり飛んできた驚きで、頭の中に浮かんだ言葉が完全に消えてなくなってしまった。
『ほんまに? 何も起きてへん? そやな、サシャがおるくらいで…… はっ! もしかしてタッくんっ! 二人きりでいい雰囲気になってたんかっ!?』
「いやいや、なってないよっ。普通に話をしてただけだよっ」」
『うそやっ! なんかちょっと、サシャ真剣な顔してるやんっ! 絶対、二人で変なことしとったやろっ!』
「してないよっ」
「してないわよっ」
俺とサシャの声がかぶる。
いつも通りの日常に、嫌な予感などアリスの勘違いだと思った時だった。
「たんたた♪ たんたた♪ たんたたたたた♫」
それは、頭の中で鳴り響いたメロディーではない。
洞窟前の岩場の影から、そのメロディーは聞こえてきた。
「……ナギサ」
彼女はゆっくりと岩場から、その姿を現す。
お使いに行ったはずなのに、その手には何も握られていない。
そして、さらにその背後に。
ゆらゆらと、影が揺れるように一人の男が立っている。
その姿を見るのは、大草原での戦い以来か。
「タクミ様、お客様を連れてまいりました」
無表情でそう言ったナギサの背後で、男が静かに頭を下げる。
メロディーは、ナギサが口ずさんでいるのではなく、その男が口にしている。
そのメロディーは、同じ曲とは思えないほど美しく奏でられ、心に響く。
俺はそれを夢の中で聞いたことがあった。
「お久しぶりです。タクミ様」
真っ黒い闇に覆われた魔王四天王の一人。
闇王アザトースがナギサに連れられやって来た。