百十一話 ヌルハチキッチン
「ほぅ、これが不味くなったというタクミの料理か」
久しぶりにヌルハチが洞窟に帰ってきた。
サシャがまだ帰ってこれないことから、ルシア王国の問題はまだ解決していないことが予想できる。
ヌルハチだけ帰ってきたのは、俺の異変を耳にしたからだろうか。
食べる前から、すでに料理の腕が落ちていることを知っている。
帰宅するなり、何か食べさせろというヌルハチに、簡単な料理を作ってみた。
「見た目は前と変わらんな。さて、味のほうは」
銀のスプーンが、卵を突き破り、米をすくう。
ケッコーの肉とトマトを使い炒めた米を卵で包み込んだその料理は、かつて俺が得意としていたものだった。
「……ふむ」
一口食べたヌルハチは、そのまま評価をせずに食べ続ける。
何を思って食べているのか。
明らかにレベルの落ちた料理をヌルハチは最後まで何も言わずに完食する。
「ど、どうだった?」
先に沈黙を破ったのは俺のほうだった。
それでも、ヌルハチは無言で椅子から立ち上がり、厨房まで歩き出す。
そういえば、この立派な厨房も、食器類も全部ヌルハチが用意してくれたものだ。
「ここには、分量を計るものが何もないな」
厨房を見渡したヌルハチがそう言う。
確かに、親父が経営していた宿屋の厨房には計量スプーンや計量カップが存在していた。
しかし、俺は今までそんなものを使ったことがない。
そうだ。量を計らなくても、どれくらい調味料を入れれば、どんな味になるか、瞬時に判断することができたからだ。
「今日の料理は、いつもよりシオの量が多く、トマトの量が少なかった。卵の焼き時間も長く、いつものふわふわ感がなくなっていた」
ようやくヌルハチが料理の感想を言ってくれる。
予想通り、いや予想以上にダメな評価にも驚かない。
これが今の俺が作れる精一杯の料理なんだ。
「タクミの料理にはレシピは存在しない。その時の気温や食べる者の体調に合わせて、ベストなものを毎回無意識のうちに作っていたからだ。それは、持って生まれた天才的な料理の才能だったのだろう」
確かに、意識はしていなかった。
今となっては、どうしてそんなことが出来たかもわからない。
「絶対舌感。そんなスキルがタクミにはあったのだろう」
絶対舌感?
そんなスキルが本当に俺にあったのだろうか。
なくなってしまった今は、もう確かめようがない。
「さて、それではもう一度同じものを作ってみようか」
「え?」
驚いた表情で聞き返す。
「まったく同じレベルになることは難しいが、近づけることはできる。ヌルハチは、タクミの作った料理の味をすべて完璧に覚えているからな」
本当なのか?
これまで作ってきた膨大な料理の味をすべて覚えているなど、にわかには信じがたい。
しかし、大賢者ヌルハチは真っ直ぐに俺を見て、さらに語る。
「次からはすべての分量や時間を計り、レシピを作っていけばいい。これまで作ってきたものは失われたわけではない。ただ、忘れてしまっただけだ」
「ヌ、ヌルハチ」
目から鱗が落ちるとはこのことか。
また一からやっていこうと思っていたが、どうやったらいいのかなんて全くおもいつかなかった。
しかも、完全にゼロからやり直していこうとしていたが、これなら短時間で今までの料理が蘇るかもしれない。
「やってみる。もう一度、同じ料理を作ってみせる」
「ああ、計量は任せるがいい。シオ粒一つ間違わずに計ってやる」
ヌルハチの手の平から、いくつもの小さな光が溢れ、厨房を明るく照らす。
「波動球・測」
光の粒に囲まれながら、もう一度、最初からやり直していく。
今まではどうやって適度な分量を見極めていたのか、今となってはまるで思い出せない。
「なあ、ヌルハチ」
料理を作りながら、ヌルハチに尋ねてみる。
「俺はどうして料理が上手く作れなくなったんだろう」
それは、異変を感じてから、誰にも聞かなかった質問だった。
「……わからん。ただ、逆にこれまでがおかしかったのかもしれん」
「それは、どういうことだ?」
「タクミはどこか普通ではなかったということだ。料理だけではない。いくら鍛えても強くならない身体。なのに、どんなに強い者と対峙しても怯えず、受け入れる器。多くの者に絶対強者と勘違いされる喜劇。普通の者にそんなことは起こりはしない」
確かにその通りだ。
アリスの影響があったとはいえ、レイアやクロエ、ギルドや、世界中の人々に、宇宙最強と勘違いされるなど、どう考えてもあり得ない。
「……おそらく、今が本来のタクミなのじゃ」
そう言ったヌルハチは、俺のほうを見なかった。
そして、俺もそんなヌルハチの顔を見ることができない。
「もしかして、失っているのは、料理だけじゃないのか」
明らかに変わったレイアの態度を思い出す。
ざわざわと、胸の奥から、黒い何かが広がっていく。
「失ったわけではない。元からそんなもの、なかったと思えば、それでいい」
「……」
ヌルハチは、俺に起こっていることを理解しているのだろうか。
冒険者に成り立ての頃、ヌルハチに大きな剣を買ってもらったことを思い出す。
ただ、それをガムシャラに振っていたように、今はただ鍋を振る。
あまり食べれないはずのヌルハチは、その日、ただ黙々と十人前のご飯を食べてくれた。
「あれっ、今日のご飯、前みたいに美味しいやんかっ!」
夕食時、最初に声をあげたのは、人間形態のカルナだった。
「うん、さすがタクミ殿、卵と米が見事に調和していますっ! 早くも不調から抜け出せましたかっ!」
「確かにっ、これは出会った頃のタクミさんの味っ! はっ! これまでのはタクミさんの料理が美味しすぎてついつい食べ過ぎて太ってしまわない為のさりげない優しさだったのですね!」
「よ、よ、よ、よくわかったな、その通りだ」
いや、全く同じ料理を作ろうとしただけだし、太ろうが痩せようが、元気でいてくれるならそれでいい。
クロエとレイアが料理を褒めながら食べるなか、アリスだけは相変わらず、ただ黙々と食べている。
だが、心なしか、少し嬉しそうな表情になっているように思えた。
実に久しぶりに、楽しい食事を迎えることができる。
まだ、完璧なレシピではないが、ヌルハチいわく、85点くらいまで近づいたらしい。
「いっぱいおかわりあるからな。ゆっくり食べてくれ」
ヌルハチにも、みんなの笑顔を見せたかったが、ルシア王国の騒動はまだ片付いてないらしく、食べすぎて大きくなったお腹を、転移魔法で開いた穴に引っ掛けながら帰ってしまった。
「……これはっ!?」
そして、みんなが笑顔になる中、一人、ナギサだけがスプーンを持ったまま固まっている。
その顔は、笑顔とは程遠い、険しいものだった。
「あれ? ナギサの口には合わなかったか?」
「い、いえ、すごく美味しいです。ど、どうやってここまで復活されたのですか?」
ヌルハチによって、お使いに行かされていたナギサは、今日、何があったかはわかっていない。
あえて、遠ざけたのだとしたら、ヌルハチはナギサの得体の知れない違和感に気がついているのだろうか。
「頑張っただけだよ。そして、これからもずっと頑張っていく」
「そ、そうですか。ご立派ですね、タクミ様」
そう言って、なんとか笑みを浮かべたナギサの顔が引きつっていた。
俺の料理が上手くいったことは、それほどまでにナギサにとっては異常事態ということか。
何と戦っているのかわからない。
不気味な何かが裏で、蠢いているのだろう。
それでも俺は、変わらない。
すべてを失ったとしても、また、それを取り戻すために立ち上がる。
『たんたた♪ たんたた♪ たんたたたたた♫』
そして頭の中で、またあのメロディーが鳴り響いた。




