百七話 真夏の夜の夢
「あれ、タクミさん、今日のスープ、少し味が濃いですね」
「あ、ああ、ちょっと、塩加減を間違えてな。まずかったか?」
「い、いえ、いつもと違うな、と思っただけで、すごく美味しいですよっ」
最初に気づいたのは、やはり一番長く一緒に暮らしているレイアだった。
いや、もしかしたら、他のみんなも気がついているかもしれない。
昼に、お菓子を作った時から、料理の感覚が鈍くなっているのだ。
「まあ、弘法も筆の誤りという言葉もありますからね。タクミ様でもミスをすることはあるでしょう」
そんな言葉は知らないが、ナギサがフォローしてくれている。
「う、うちは別に、濃い味なんておもてないで。美味しいやんな、クーちゃん」
「そ、そうですよ、タクミ殿。我はこのぐらい濃いほうが好みですっ、気にするようなことでは……」
みんながすごく気をつかってくれていた。
でも、自分が一番、よくわかっている。
これまで息をするように簡単に作れていた料理すら、分量を間違えてしまったことを。
「ちょっと調子が悪いみたいだ。夏風邪かもしれないから、今日は早く寝ることにするよ」
「それは大変です。片付けは私がやっておきますので、早くお休みになって下さい」
「ありがとう、ナギサ」
暑さにやられただけだと信じたい。
唯一得意な料理すら、出来なくなってしまったら、俺にはなにも残らない。
フラフラと千鳥足で、寝室に向かおうとする。
「タクミ」
それを呼び止めたのは、アリスだった。
彼女だけは、何も言わず、俺の料理を完食している。
「一緒に寝ようか?」
ピシッ、と食卓にいる全員が固まった。
アリスの発言に深い意味はない。
いつもと同じような表情で普通に俺を見つめている。
ただ単に落ち込む俺を慰めてくれようと思っただけだろう。
しかし、他の者達はそうは思わなかったようだ。
バキンッ、とスプーンが折れる音が聞こえ、レイアが立ち上がる。
「ア、アリス様。結婚前の男女が一緒に寝るなんてダメダメですよ」
「なぜだ? レイアはずっとタクミと寝ていただろう。それに昔はずっと一緒に寝ていた」
「んぐっ」
あっさりと切り返されレイアが黙り込む。
かわりに割り込んだのはカルナだった。
「あれは部屋が一つしかなかったら仕方なくやねん。それに子供の時とは違うねん。大人になったら色々あるねん」
「……色々。その色々とは、なんなのだ?」
「えっ、いや、い、色々は色々やで。う、うちも詳しくないからクーちゃん、頼むっ」
カルナが真っ赤になりながら、妹にパスする。
「ええっ! なんでうちに振るんよっ!?」
クロエが俺の方をチラリと見た後、真っ赤な顔でうつむき、小さな声でつぶやく。
「……こ、ここでは言われへん」
「え? 言われへんようなこと考えたん? ちょっと、お姉ちゃんにだけ言うてみて」
「カル姉っ!!」
「はいはい、みんな落ち着いてください」
ナギサがテキパキと片付けながら、その場を仕切る。
「タクミ様は本当に調子が悪そうなので、そっとしておいてあげて下さい」
それは不思議な光景だった。
いままで、こうやってみんなが騒いだとき、いつも俺がなんとか収めていたはずだ。
それが、今はナギサの一言で、みんなはしぶしぶながらも了承し、一緒に食器を片付けている。
すごく助かることなのに、得体の知れない違和感に、なんだか落ち着かない。
「ナギサ、君は……」
「はい、なんでしょうか」
元気よく答えるナギサに対して、話しかけてから、なんと質問していいか、わからないことに気がつく。
「いや、なんでもない。また明日」
きっと考えすぎだ。
暑さで体調がおかしくなって、変なことを考えてしまうのだろう。
ゆっくりと寝て、明日になれば、いつも通りの日常に戻っているはずだ。
部屋のドアを開け、中に入る寸前に振り返る。
「おやすみなさい、タクミ様」
そう言って一礼するナギサの顔は見えない。
なのに、オレは彼女が笑っているような、そんな気がしてならなかった。
見たことのない景色が広がっている。
天まで届きそうな巨大な鉄の塊が何本もそびえ立ち、大地を埋め尽くしていた。
そこからたくさんの人々が色鮮やかな服を着て出入りしている。
そして手には、皆、数字がかかれたボタンの付いた何かを持っていた。
なにもかもが、自分の知っている世界とは違うはずだ。
なのに、どうしてだろう。
俺はこの光景にどこか懐かしさを覚えている。
夢、なのか?
そうに違いない。
すべてが、俺の妄想が作り出した夢の世界だ。
そう納得して、目を閉じようとする。
そんな俺を覗き込むように、誰かの顔が近づいてきた。
「ねえ、あなた、匠弥が目を開けてるわ」
それは、初めて見る女性の顔だった。
ぼやけていて、はっきりとわからない。
それでも、その顔を見ると、何故か、とてつもない安心感に包まれていく。
「目が開いても、まだ見えていない。赤ん坊とはそういうものだ」
女性の顔の向こうから声が聞こえてくる。
親父の声じゃない。
俺の親父は、もっと野太い、野生のボアみたいな声のはずだ。
それに、この男の声はどこかで聞いたことがあった。
「ふぐっ」
夢だとわかっている。
なのに、胸の奥から得体の知れない熱い何かがこみ上げてくる。
「ふわぁあああああああっ!!」
俺は耐えられず、大声で泣き出してしまう。
「あらあら、どうしたのっ? 大丈夫?」
慌てる女性とは違い、男は冷静に俺を抱え上げる。
「たんたた♪ たんたた♪ たんたたたたた♫」
そして、聞いたことのない軽快なリズムの曲を歌い出す。
「パッヘルベルのカノン。お腹の中にいた時から聞かせてたからかしら。これを聞くと匠弥はいつもおちつくわね」
「ああ、そうだな」
初めて聞くはずのその曲は、まるで何度も聞いたことがあるように懐かしく、不安がすべて取り除かれていく。
そして、やがてすべてが闇に覆われた。