百三話 1分間
黒だった。
目も鼻も口もない。
ただ黒いだけの存在。
しかし、そのシルエットは完全にアリスそのものだった。
地面につきそうになるほどの、真っ黒な長い髪が揺れている。
「アリスっ!!」
俺の声に、一瞬だけアリスは止まる。
しかし、それは本当にまばたきをするような刹那。
アリスはその力を解放し、辺り一面、あっという間に漆黒が広がっていく。
「タクミさんっ!」
最初に反応したのはレイアだった。
俺を守るように、庇うように、前に立つ。
そのレイアの姿が突然消えた。
かわりに黒い塊になったアリスが立っている。
『……素晴らしい』
俺の中でシロが呟いたと同時だった。
どんっ、という音と共に、レイアが上空から落ちてくる。
「レ、レイアっ!!」
ピクリとも動かない。
あのレイアが何も出来ずに、吹っ飛ばされたのかっ。
『究極ダ。まさにこの世界における最強ダ』
シロはただ、その力に感心している。
カルナやクロエ、あの魔王ですら、その力に圧倒され、その場から一歩も動けない。
「アリス」
もう名前を呼んでもアリスは反応しなかった。
ただ、アリスを中心に黒く、どこまでも黒く世界が染まっていく。
「クーちゃんっ!!」
「カル姉っ!!」
カルナの身体がいつのまにか剣に変わっていた。
それを握ったクロエがアリスに向かって突進する。
「やめっ……」
間に合わなかった。
なにが起こったかわからない。
ただ結果だけがそこに残る。
真っ二つに切断されたクロエと粉々に砕かれたカルナ。
アリスは、指先一つも動かしていなかった。
もはや、俺が認知できるスピードを超えている。
「どうやら、本当に終わりのようだな」
「あきらめるなど魔王らしくもない。ボクは最後まであきらめない」
魔王が抑えていた力を解放する。
その場に立っていられない程の凄まじい力。
だが、今のアリスにとってその力が通用するなど思えない。
隣で聖剣エクスカリバーから巨大な光を放出するエンド。
しかし、その光すら巨大な黒が飲み込んでいく。
とん、とん、と二つの物体が転がってきた。
それが魔王とエンドの首だと気がつくまで、しばらく時間を要した。
「……やめろ」
震える声でアリスに言う。
だけど、その声は欠片も届かない。
『無駄ダヨ』
シロがすぐに否定する。
『アレはもう誰にも止められない』
アリスの攻撃はまるで見えない。
ただ、すべてが黒く染まる中、十豪女子会のメンバーが次々と散っていく。
「だからついて来るなって言ったにゃ」
「どうせ、どこにいても同じだ。だったら側にいたほうがいい」
ザッハとミアキスが折り重なるように倒れている。
「……四神柱が反応せん。神ですら、怯えて出てこんのか」
ずぶずぶとバルバロイ会長が、黒くなった地面に飲み込まれていく。
「やめろ、アリス。やめてくれ」
アリスは、なぜか俺にだけ何もしてこない。
『無理だ。タクミ、もうあきらめ……』
「黙れっ!!」
シロの言葉を遮り、アリスに近づいていく。
違う。アリスはこんなことしない。
そうだ。最初に会った日から今日まで、俺はアリスのことを忘れたことなんてなかった。
俺はずっと、ずっとアリスのことを……
「……少し、だけ、時間を」
身体の半分以上が黒く染まったリンが地面に倒れていた。
本当に小さな、消えそうな声を必死に絞り出す。
「……この日のために、用意、していた、誰かっ! お願い、時間をっ! かせいでっ!!」
その声に反応して、震えて小さくなっていた吸血王カミラがアリスに飛びかかる。
アリスが首の角度を少しだけカミラのほうに傾けた。
それだけだ。
それだけで、カミラの身体が塵となり、消え去った。
「ほんの少しだけだぞ」
後から声がして振り向くと、いつのまにか、そこにヌルハチが立っている。
チハルは? チハルは無事に逃げたのか?
無事なところなど、もうどこにもないのに、そんなことを考えてしまう。
「波動球・超光」
ヌルハチの手に直視できないような大量の光が集まり、辺りを照らし出す。
しかし、その光はアリスから出る黒いものに、ヌルハチごと飲み込まれていく。
「ヌルハチっ!!」
「……またな、タクミ」
その言葉を最後にヌルハチのすべてが黒くなり、そのまま崩れて地面のシミになる。
「う、ぁあぁあぁっ、ぁあぁあぁっ!!」
俺がっ! 俺がすぐに決めなかったからっ!
アリスが来る前に、誰かにシロを移動させていたら、こんなことにはならなかったっ!
「俺がっ! もっと早くっ!!」
「……大丈夫、泣かないで、タクミ」
最後に残ったリンが、崩れそうな身体で俺に笑いかける。
「……なんとか、間に合った」
なにが間に合ったのか?
すべては手遅れだ。
アリスがリンに視線を向ける。
それだけで、リンは……
「え?」
崩れない。
いや、それどころか、崩れかけていたリンの身体が再生されていく。
「これはっ!! いったいっ!?」
リンだけじゃない。
シミになったヌルハチや、塵になったカミラまで再生されていく。
「と、時計?」
いつのまにか、空中に信じられない数の時計が浮いていた。
大きいもの、小さいもの、丸型、四角型、様々な時計。
だが、一つ共通点がある。
すべての時計が右回りではなく、左回りの逆回転で動いていた。
「空間魔法【禁】世界逆行」
まさか、リンが時間を戻しているのかっ!?
「黒いモノとあったあの日から、タクが助けてくれたあの日から、ずっと、ずっと、死に物狂いでこの魔法を研究してきた」
この場にいる者すべてが、巻き戻っていく。
アリスも、アリスに砕かれた円卓ですら、寸分違わず、綺麗に再生されていく。
「私の最後の魔法。生涯で一度だけ、全ての魔力を使い切り、1分間だけ時間を戻すことができる。そして、もう二度と魔力は戻らない」
巻き戻る背景の中で、俺だけが馬鹿みたいに呆然と立っていた。
「……ごめんね、タクミ。あとは任せていい?」
「リンっ!」
キイィィィッッッン、という音が最後に響き、1分前まで巻き戻る。
ピシッ、となにかが軋むような音がした。
考えが中断され、辺りを見渡す。
目の前にある空間に、小さなヒビが入っていた。
「……うそ、でしょ!? いくらなんでも早すぎるっ」
ピシッ、ピシッ、と空間のヒビが広がっていく。
俺はもうこの先に起こることを知っている。
『マズいな、逃げたほうがいいカナ』
今から逃げても間に合わない。
俺は誰かに、シロを移動させる。
リンの、最後の魔法を無駄にするわけにいかない。
『完全に融合した』
パァァアァアンッ、と目の前の空間が破裂して、中からバラバラになった小型の螺旋階段が溢れ出す。
「シロ、いくぞ」
『ほう、決めたのか』
どんっ、と割れた空間から黒い足が飛び出し、アリスが円卓を踏みつける。
俺はそこにアリスが現れることを知っていた。
俺は円卓の上でアリスを待ち構え……
その唇にキスをした。




