九十四話 初めての感情
白い世界から戻ってきた瞬間に、力の波が俺に降り注いだ。
白と黒、真っ二つに分かれたその波は、黒アリスとシロのすべての力の塊だった。
終わる!!
冒険者時代から様々なトラブルに巻き込まれ、異様な力に翻弄されてきたが、今、目の前に迫る力は、それまでのものとは桁が違っていた。
これを防げるものなど、絶対に存在しない。
シロは俺を助けると言っていたが、どう考えても不可能だっ!!
完全に諦めそうになった俺の前にシロが立つ。
『掴めっ、後からワタシを抱きしめろっ!!』
言われたとおりに後からシロを抱きしめる。
両腕を前に突き出したシロが、必死に力の波を押し返す。
『……予想、以上かっ。アリスめ、ずっと力をためていたノカっ!』
前に出したシロの両腕が溶け出していた。
「シロっ!!」
『気にするな。しばらく動けなくなるといったダロウ』
両腕だけではない、シロの身体、そのすべてが溶け出している。
最初に会った時のように、目や鼻が口がなくなり、ただの白い者へとなっていく。
『不思議ダナ。何故かこの姿をもう見られたくないカナ。できれば目を閉じていてくれないカナ、タクミ』
「わかった、シロっ」
言われたとおりに目を閉じて、必死に祈る。
そして、抱きしめていたシロの感触がなくなってから、ようやく目を開けた。
力の波はまるで俺を避けるように白と黒が左右に分かれ、地面を白黒に染めている。
抱きしめていたシロは、ドロドロになり、原型を留めていなかった。
白いスライムのような塊が、両手からこぼれて地面に落ちる。
「シロ?」
『…………』
呼びかけても、そこからは何の反応もない。
「さすが、タクミだ」
黒アリスが俺の前に立っていた。
「あれだけの力を浴びながら、シロまで守ろうとしたのか。それでも無傷とは。その強さ、もはや想像もつかない」
何か話しているみたいだが、頭に入ってこない。
溶けて動かない、シロをじっ、と見つめる。
「だけど、ワタシはもっと強くなれる。力を手に入れたんだ。いつかタクミにも並べるかもしれない力をっ」
いつものアリスの声なのに、耳障りに感じてしまう。
まるで、自分が自分でなくなってしまうような、そんな感情に支配される。
「もう誰にも邪魔はさせないっ。そうだっ、まずはここにいる五人を……」
ぱんっ、という渇いた音が鳴り響いた。
黒アリスが左の頬を押さえて、きょとん、としている。
俺は自分の右掌を、呆然と眺めていた。
手のひらに、黒アリスの頬を叩いた痛みが広がっていく。
初めてだった。
生まれて初めての感情。
これが、怒りというものなのか。
「タ、タクミ」
黒アリスの声が震えていた。
「命を奪うという事は、その命を背負って生きていくという事なんだ」
あの時、子供のアリスに告げた言葉をもう一度繰り返す。
「その意味を本当にわかっているのか?」
黒アリスがいきなり顔を歪め、頭をおさえた。
『タクミ以外など、どうなろうと関係ないっ』
「ちがうっ、そんなことはないっ、タクミはそんなワタシを許さないっ」
『許されなくていいっ、全部壊してしまえば、タクミはワタシしか見なくなるっ』
「ダメだっ、タクミはっ、それでもきっとっ、ワタシを見ないっ」
黒アリスの声が、交互に変わっていく。
アリスの中に誰かがいる。
俺は、幼い頃にソイツと出会っていた。
「アリスの中から出て行け」
黒アリスが頭をおさえたまま、動きを止めた。
泣きそうな顔で俺をじっ、と見る。
「ちがうんだ、タクミ。ワタシが受け入れてしまったんだ」
『そうだヨ、タクミ。アリスが自らワタシを受け入れたノダ』
泣きそうだった黒アリスの顔が一変した。
「う、あ、ガァアアアアアアッ!!」
天に向かって咆哮する。
髪や瞳だけではない。
白かったアリスの肌までが黒く染まっていく。
「タクミがワタシをっ」
『見なくても構わないっ』
「それでもっ」
『他の誰かを見るよりっ』
「救われるっ」
『そうだっ』
「ワタシはっ」
黒アリスの声が入り乱れ、混ざり合う。
『邪魔』「を」『する』「なら」『タクミ』「でも」『壊す』
完全にアリスが黒く染まる。
口から吐く息ですら、真っ黒な煙のようだ。
「それが答えなのか? アリス」
『そうだ』「もう」『それしか』「ない」
「……そうか」
だったらアリスを止めるのは、簡単だ。
両腕を広げて、アリスの前に立つ。
「だったら俺を壊して終わりにしろ」
俺と共にいるために、世界を破壊するなら、俺がいなくなれば、すべて解決する。
「タクミさんっ!」
「タッくんっ!」
「タクミ殿っ!」
「タクミっ!」
「大馬鹿ものがっ!」
これまで黙って見ていたヌルハチ達が声を上げる。
だが、動けない彼女達に止めることはできない。
黒アリスは震えながら、大きく拳を振りかぶった。
『タッ!』「クッ!」『ミッ!』
目は閉じない。
じっ、と最後まで、今のアリスを見届ける。
それは、出会った時と一緒だった。
放たれた黒アリスの拳は、途中で失速し、ぺちん、と情けない音を立てて、俺の肩に当たる。
俺はあの時と同じように黒アリスの頭をそっ、と撫でた。
『んっ』
黒アリスがその場にへたり込む。
そして、へたり込んだまま、黒アリスが俺から地面を這いずるように離れていく。
かなり、離れた位置でようやく立ち上がり、足についたホコリをパンパン、とはらう。
「きょ、今日は、もう帰る」
黒く染まったアリスの身体が、また白く戻っていく。
「つ、次は、手加減しない」
目や髪はまだ黒いが、アリスの中にある黒い気配が小さくなった気がした。
「アリスっ!」
立ち去ろうとするアリスを呼び止める。
しかし、アリスは振り向かず、来た時と同じように、音を置き去りにして、立ち去った。




