閑話 マリアとアリス
「久しいな、アリス」
久しぶりに訪れた魔王の大迷宮。
その入り口、ヌと刻まれた大きな十字架の前で魔王は待っていた。
ワタシが来ることを気配で察していたのだろう。
「変わったな、魔王」
魔王は人間の依代に入っていなかった。
魔王が本体のままでいれば、側にいる周りの者はその力の影響で、立っていることもできなくなる。
だが、今、魔王からはその力を一切感じない。
「力をどこにやった? それがお前の望んだ姿か、魔王」
「ああ、そうだ。余が望んでそうなった。そして余はもう魔王ではない。今はただのマリアだ。これからはそう呼んでくれ」
まるで別人のような魔王に少し戸惑う。
生まれてから何千年もの間、魔王はその力を手放そうとしても手放すことは出来なかった。
「それは最初の依代、東方仙人の仕業か?」
「ああ、そうだ。余と離れた後も、この力を研鑽してくれていた。有り難いことだ」
やはり、ここに来たのは間違いではなかった。
シロに対抗する力、東方仙人なら、そのヒントを聞けるかもしれない。
「中にいるんだろう? 会わせてもらえないか?」
「残念だがそうもいかん。今、大切な局面なのだ」
「大事な局面?」
「ああ、リックとの将棋が大詰めなんだ。誰も邪魔しないでくれと言われている」
はっ、と大きく息を吐いた。
「怒らせないでくれ、魔王。急いでるんだ」
「マリアだと言っただろう。悪いが、通すわけにはいかない」
どうやら魔王は、いや東方仙人はすべての事情を知っているようだ。
ワタシとシロが争うことを望んでないのか。
それともシロを刺激することを恐れているのか。
どちらにせよ、直接会って、聞くしかない。
力のない魔王など、問題にならない。
無視して、その横を通り、大迷宮の入口に向かう。
ふわっ、と足元から地面がなくなり、宙に浮いていた。
突然のことで何が起こったかわからないまま、くるりと半回転する。
頭から地面に落ちていた。
ばっ、とぶつかる寸前に、身体を捻って着地する。
その目の前に魔王が迫っていた。
とん、と軽く胸の中心を押される。
それだけだった。
それだけでワタシは、かなり後方まで吹っ飛ばされる。
引きずった足が地面をえぐり、長い二本の線を描いていた。
「……なんだ、それは? 力を封じ込めたのではないのか?」
「そうだ。すべての力はうちにある。表に出してないだけだ」
これまで出しっ放しだった魔王の力を、必要な分だけ放出しているのか。
常に噴水のように噴出していた魔王の力が、細いホースの先から凝縮されて出てくるようなものだ。
その力は、予想を遥かに超えていた。
「それだよ、魔王。ワタシはその力が必要なんだ」
「尊師は言っていたぞ、アリス。お前はもうこれ以上強くなってはいけない」
「その忠告は聞けないな。今、ワタシはこれまでで一番、強くなりたいと思っている」
タクミの横に並び立つために強くなってきた。
だが、そのタクミ自体が目の前で奪われようとしている。
「やめておけ、アリス。アレには一切関わるな。大丈夫だ。タクミならきっと戻ってくる」
やはり、魔王はシロのことを知っているのだ。
そして、確かに魔王の言う通り、シロに惑わされているタクミも、やがてはそれに打ち勝つことができるだろう。
今の段階で、シロの力を超えているのは、タクミしかいない。
しかし、ワタシにはそれが我慢出来なかった。
「もう嫌なんだっ。ワタシはもうこれ以上、待ちたくない! 見ているだけじゃもう満足できないっ。ずっと側にいたいんだっ!」
「やめろ、アリス。もう力を求めるな。それは力では手に入らない。本当はもうそんなことわかっているんじゃないのか?」
「わからないっ。わかってたまるものかっ! ワタシには力しかないんだ!」
全力で魔王を殴りにかかる。
それを最小限の力で魔王が受け止めた。
その動きは見たことがあった。
初めてヌルハチに吹っ飛ばされた時のことを思い出す。
一本のパイプが頭に浮かんだ。
力を流すただの一本のパイプ。
ワタシの力をそのまま受け入れて、流していく。
魔王は左手でワタシの拳を受け止めながら、右手にその力を送っている。
「なめるなよ! ワタシの力をっ!!」
バンッ、と身体中の力を一気に限界まで引き上げた。
大爆発が起こったように、身体中から力が放出される。
「アリスっ!!」
同時にワタシに触れていた魔王が、力を受け止めきれずに弾け飛ぶ。
「う、あ、アアアアアアぁっ!!」
ここまでの力を出したことは、いまだかつてなかった。
制御が効かずに溢れ出した力が、天に向かって真っ直ぐ伸びていく。
それは、どんっ、と雲に大きな穴を開けて、青い空を切り裂いた。
「まずいな、すでに臨界を超えておる」
いつのまにか、背後に今にも倒れそうなヨボヨボの老人が立っていた。
なのに、ワタシから出ている力を、そよ風のように受け流している。
間違いない。
魔王、最初の依代、東方最強の仙人だ。
「ワ、ワタシに、力を……」
仙人に手を伸ばそうとしたが、上手くいかない。
身体中の血管が破れ、血が溢れ出していた。
まるで自分の身体でないように、力が暴走し、上手く動けない。
「尊師っ」
弾き飛ばされた魔王が仙人の元へ駆けつける。
あの力の衝撃を受けて無事でいられるはずがない。
それも、仙人が助けたのか。
絶対にその力を習得しなければならない。
制御の効かない身体を無理矢理動かして、一歩一歩進んでいく。
「尊師、余ではアリスは止めれません」
「仕方あるまい。肉体と精神を切り離す。このままでは、世界を滅ぼしかねん」
何を言ってるか、わからない。
ワタシがそんなことをするわけがないだろう。
タクミは、この世界を好きだと言っていた。
「ふざけるなっ! ワタシはタクミと一緒に……」
「すべてが終われば元に戻す。悪く思うな」
東方仙人が構えた瞬間だった。
『ソレはやめといたほうがイイ』
突然の声に、仙人も魔王も、ワタシも動きを止める。
聞いたことのある声だった。
生まれて最初に感じた感情は怒りだった。
見るものすべてが憎らしく、なにもかもが真っ赤に染まって見えた。
魔王の大迷宮に叩き落とされる前の記憶はほとんどない。
だが、一つだけハッキリとした記憶があった。
『お前は最強だ。だから……』
それは人間の言葉でも魔族の言葉でもなかった。
そして、ワタシは生まれた時からその言葉を理解していた。
『だから、全部破壊してもいい』
その言葉を言った者の顔は思い出せない。
ワタシの父なのか、母なのか、それとも赤の他人なのか。
言葉だけがワタシの中に残っていた。
今、その声の正体がわかる。
それは、ワタシが力を暴走させ、切り裂いた空からゆっくりと降りてきた。
『やあ、アリス』
黒い。ただ黒い存在。
目も鼻も口もない。
真っ黒な存在が、ワタシ達の前に降り立った。
「……間に合わんかったか」
仙人がすべてを諦めたようにそう呟く。
ワタシと魔王は声を出すこともできない。
『久しぶりダネ』
絶対的な絶望が黒い塊となってそこに立っていた。




