空中庭園の水怪「02 王家の亡霊」
「……つまり、亡霊が出たというのは見間違いではなく事実だったと?」
深夜二時。夜明けまではまだ遠く、窓の外は漆黒の闇に閉ざされている時間帯だ。一時間ほど前に鳴り響いた警笛で目を覚まし、曲者ありの報に軽く身支度を整えて待機していたオリヴィエルは、寝室にて近衛騎士からの報告を受けていた。
直立の姿勢を取っていたその近衛騎士は、些か強張った表情で肯定した。
「周辺に何者かが出入りした痕跡はありません。出現地点付近に多少の水撥ねがあった程度です。しかし魔力探査の結果、水中に微量の生体魔力反応が観測されました。人のものではありません」
「――なるほど。三度の計測全てに反応ありとくれば見過ごす訳にはいかなくなったな」
最初の二人については誤認として処理されたために、簡単な現場検証のみで探査は行われていない。
しかし目撃者が三人目となり、それがオリヴィエルの執務室付き書記官――大真面目が人の皮を被って歩いているような男だ――であったために念入りな検証が行われた。城内のヨーン・オロク礼拝堂経由で手配した聖魔導士を同行して調べさせたが、それらの検証では全て霊的なものの可能性が極めて高いという結果が出ている。
生体魔力反応は生命体そのものは勿論、魔法を使用したか、あるいはなんらかの生命体が同一個所に一定時間滞在した場合に観測されるものだ。完全に生命活動を停止したものについても死後十数分以内であれば検知される。そして死霊のような死者の成れの果て――つまりは魔獣化したものも同じだった。
しかしながら、亡霊は実体を持たない思念体であるがゆえに死霊の中でもとりわけ存在感が薄く、日中の明るいうちは姿を可視化することさえできない有様だ。明るい場所では存在してはいても視認できないほどの亡霊は、一部の例外を除いて生体魔力反応が極めて弱い。
そして数多の権力が集中し多くの有力者が集う王城は、強い欲や妬み恨み、怒りや恐怖などの残留思念が極めて滞留しやすい環境だ。負の感情を多く含む魔素はその性質上死霊の生体魔素反応と誤認しやすい。故に同一現場において三回以上の目撃証言及び、死霊の生体魔素が観測された場合においてのみ死霊発生として扱われることになっている。
「発生時に駆け付けた三名の騎士も対象を目視で確認しております。いずれも人や通常の魔獣とは異なる容姿だったと証言しました。最初に目撃した騎士二名と彼らの証言、そして現場検証の結果を合わせて考えますと」
空中庭園の亡霊の存在はほぼ確実――ということだ。
「……そうか。分かった。しかしまさか僕の代で亡霊が出ようとは思わなかったな」
オリヴィエルは低く唸る。足元のペルゥがぷるんと震えた。
――最後に実在が確認された亡霊騒動は百年ほど前、高祖父の時代だ。
過去、王城内での死霊騒動は幾度かあった。しかしそのどれもが噂話の域を出ず、実際に出現が確認されているのは建国以来三件だけだ。
元よりこの王城はヨーン・オロク礼拝堂を起点とした巨大な結界に護られており、よほど強い情念や魔力を持つ霊体でもない限りは具現化することはできない。先述の通り王城は残留思念が滞留しやすい環境であるがゆえに、時折死霊化する前の軽微な思念体の塊が発生することもあるが、大抵は時間の経過と共にゆっくりと浄化されていくのみだ。
しかし詳細な記録が残されている三件目、百年前の亡霊は極めて強い情念――それも近親者に対する凄まじい怨念を抱いて死んだ娘の思念体であった。当時調査に当たった近衛騎士団の調査記録や高祖父の日記によると、その亡霊は伯爵家に降嫁した王妹の末の娘だったという。
幼少期から親しかった従兄にあたる第二王子との婚姻を当然のものと思い込んでいた娘は、妃に選ばれたのが実の姉と知って酷く怒り、姉と王子の婚儀の夜、二人の寝所で恐るべき呪詛と怨嗟の言葉を遺して自刃した。
彼女に恋慕していた幼馴染みの青年の手引きで、療養先の修道院から脱走した末の事件。
その数日後から娘の亡霊が二人の前に現れるようになった。城内に漂う負の残留思念を取り込んで強大化した亡霊は、陰になる薄暗い場所であれば昼夜を問わず現れた。カーテンの陰や棚の隙間、衣裳部屋に並べられたドレスの奥や本棚の本を抜き取った隙間の奥に、狂気に歪んだ凄絶な笑みを浮かべた娘の蒼褪めた顔が覗いた。果ては手紙を認めるために腰を下ろした壁際の書き物机の下から青白い手が伸び、驚いて飛び退った姉の目の前――その書き物机の下の隙間いっぱいに詰まった妹の巨大な生首が、にたりと笑ったという。
姿の見えぬ明るい場所でさえ常に怪しげな気配が辺りを漂い、誰もいないはずの場所で突如花瓶が落ちたりクッションが破裂して羽毛が飛び出したりと、怪現象が相次いだ。
心労の末に閨の務めどころか公務を果たせなくなり、寝台から起き上がることもできなくなった姉。事態を重く見た王家は国内の有能な聖魔導士を全て集め、巨大な結界内を強力な浄化魔法で満たすという前代未聞の除霊儀式を執り行った。そしておよそ三日という時間を掛け、ようやく娘の亡霊を浄化したという。
――娘の憎悪の対象の片割れである第二王子は彼女を妹として可愛がりこそすれ恋愛の対象としては見ておらず、女として愛していたのは姉の方であった。結局愛されていたのに捨てられたというのはただただ彼女の思い込みに過ぎなかったのだ。自惚れと思い込みを拗らせ、壮絶な情念と高い魔力を糧に怨霊化した妹――。
男児ばかりで女児がいなかった高祖父は姪達を、とりわけ少女らしい無邪気さと我が儘さを持つ末の姪を実の娘のように可愛がっていた。王家の苛烈な血が誤った形で発露してしまった恐るべきこの事件は、彼女を甘やかしてまるで王家の姫のように扱った自身に最大の責任があると、当時の王であった高祖父は日記でそう締め括っている。
「正の感情以上に負の感情というものは激しく凄まじいものです。生者でさえ負の感情を抱く者の言葉や態度は、簡単に相手を傷付けるほどの力を孕んでいる。亡霊のほとんどは何がしかの強い負の感情を抱いて死んだ者の成れの果て。それだけ、強い恨みや嘆き、怒りの力は凄まじいものなのですよ」
あれは幾年か前の、私的な茶会の席だっただろうか。無邪気に怪談話を望んだ王家の子供達に、主賓であった宗教論の講師が語って聞かせた物語の最後。彼はそんな言葉を付け加えていた。
幸い高祖父の代を最後に亡霊は現れていない。時折幽霊話が持ち上がることもあったが噂話の域を出ず、全てごく短期間で自然消滅している。
――今日、このときまでは。
「亡霊の正体が何者で、何の目的があって出てきたのかは分からないが……早くに対処する必要があるね」
オリヴィエルの言葉に騎士も、そして同席しているセシリアや報せを受けて駆け付けたエドヴァルドも神妙に頷いた。
折しも今は星降祭の季節。死者が親しい人々に会うために幽世から現世に戻るとされているこの祭りは、天界の聖なる山に住まう死者が流れ星に乗って地上に戻るという古い伝承が起源とされ、いつの頃からか星降る祭り――星降祭と呼び習わされるようになった。
しかし、同時期には冥界の門も開かれ、未練を残した死霊もまた星降祭に紛れて現れるとされている。実際、この季節の風物詩として怪談話に興じる風習もあり、そんな中で些か質の悪い怪談をあたかも実話であるかのように語る者もいるのだ。
そして今、城内で流布している怪談がまさにそれだった。
――空中庭園の噴水の怪異は水死した者の成れの果て。そして王城の関係者で死因が水に纏わる者は直近ではただ一人――二十五年前、同盟国への視察の途中海難事故で非業の死を遂げた当時の王太子、ジークヴァルド・イングヴェル・ストリィディアに相違あるまい、と。
人のようで人ではないと証言され、顔形すら不明な亡霊の正体として語るにはあまりに不敬。時代が時代ならば不敬罪で処分されていてもおかしくはない。
「まだ人の亡霊かどうかも分からない。動物霊の集合体の可能性だってあるんだ。そんなものを亡き兄上の死霊であるかのように断言されるのは僕だって不愉快だ。それに」
不快そうに眉根を寄せたオリヴィエルはしかし、すぐにその表情を緩めて付け加えた。
「……万が一にも兄上だったなら、その未練を取り除いて一刻も早く天界に送らなければならない」
幸いその亡霊の残した魔力反応に悪意めいたものは感じられず、今のところ急を要するものではないと、検証に参加した聖魔導士は言い添えたという。実例はあまり多くはないが、対話が可能であれば話を聞いて未練を取り除き、自発的に天界に還すこともできるとも。
立ち上がったオリヴィエルは窓を開け、眼下に広がる空中庭園をテラスの柵越しに見下ろす。現場検証を終えて数人の近衛騎士を残すのみとなった広場の噴水は、直前の騒ぎが嘘であるかのようにさぁさぁと穏やかな水音を立てていた。