空中庭園の水怪「01 溶ける人影」
その晩、近衛騎士のイデオン・オーケルバリはひどく憂鬱だった。こうして城内を巡回している今このときでさえ、踵を返して自室に戻りたいほどに気が重い。闇夜の暗さなど野外訓練でとうに慣れていたはずだというのに、今日ほど闇が恐ろしいと思ったことはなかった。
少数の夜間勤務の者以外はすっかり寝静まって人気のない回廊。靴音が奇妙に反響し、何者かに尾行られているかのような錯覚に陥る。振り返って背後を確かめたくなる衝動を何度も堪えながら、イデオンはゆっくりと歩を進めた。
宮殿区画の回廊を抜けた先、開けた目前には王家が誇る空中庭園が夜の闇に沈んでいた。ところどころに照明が配置されてはいるものの、消灯後は光量が落とされていて薄暗い。植栽の低木樹の瑞々しい緑や薔薇が艶やかに咲き誇る日中の華やかさが嘘のような墨色に染まり、静まり返った庭園はまるで寂れた廃墟のような不気味さがあった。
この空中庭園を横切ればその先には王家の居住区画がある。生垣の向こうに見える居住棟では今まさに、オリヴィエル王を始めとした王家の者達が眠っているはずだ。騎士の叙任を受けて二年、近衛騎士の辞令を受けてから三ヶ月足らずの新米が受け持つには些か過ぎた場所だ。
イデオンの実力と人柄が見込まれたからゆえの配置であったが、実のところ別の理由もあった。この区画の警邏担当だった近衛騎士が巡回中に負傷し、一ヶ月ほどの療養を申し渡されたために欠員が生じたのだ。
急な移動で配属された先が巡回業務の中でも重要度が高い区画の一つ、空中庭園の警邏担当。本来は喜ぶべきものであるはずだったのだが――。
「……どうしたイデオン。浮かない顔だな」
二人一組で行われるこの任務。初めての巡回となるこの日の相棒はモルテン・ヘーグリンドだ。彼はイデオンよりも二十は年嵩で、近いうちに上級近衛騎士の叙任を受ける予定の男だった。年齢と実力の割に上級職への昇格が遅かったのは、数年前まで東方騎士隊に所属していたからだ。若い頃に一時期近衛騎士団に所属していたというが、自ら志願して国境警備が主体の東方騎士隊に移動したという。
そのまま務めていれば今頃は近衛騎士団の幹部になっていただろうと残念がる同僚達に、「鍛え直したかったのさ」と言って苦笑いしてみせたことは記憶に新しい。
そんな彼は、イデオンの警邏中に相応しくない表情を見咎めたようだ。
「君がいた戦闘部署のような華々しい活躍はできないかもしれないが、警邏もまた大事な職務だ。改めたまえ」
「申し訳ありません。ですが決して巡回業務を甘く見ている訳ではありません。その」
言い淀むイデオンにモルテンは察したようだった。
「……ああ。君もあの噂を信じるクチか」
話しながらも油断なく周囲を見回している彼は苦笑交じりに言った。
「本当にただの噂なのですか」
噂と断じたモルテンだったが、イデオンは懐疑的だ。
この数週間、城内を騒がせている噂がある。空中庭園に亡霊が出る――というものだ。
何がしかの強い想いを残して死した魂が現世に留まったもの、あるいは幽世から舞い戻ったものとされている亡霊は、死霊に分類されるれっきとした魔獣だ。人の魂であったものを獣と称することに疑問を呈する者も多いが、精神力に強く反応する魔素を媒介して具現化する亡霊は事実、魔獣と言えよう。魔獣は魔素を強く帯びた生命体及び思念体と定義されているためだ。
しかしながら死霊の発生数自体があまり多くはなく、生涯を通して一度たりとも遭遇せぬままの者がほとんどのため、存在そのものを疑問視する向きもある。
だからこそ、当初目撃者が出た際には一笑に付す者がほとんどだった。
ところが日増しに目撃者が増えるにつれて、この噂を程度の差こそあれ信じる者が増えたのである。イデオンもまたその一人だった。
「一人二人ならば噂に惑わされて見間違えただけだと思いますが、六人ともなるとさすがに何かあると思わざるを得ません」
初めの二人は夜勤の侍女や侍従だった。昼夜逆転生活のために日勤よりは体調を崩す者が多く、この二人もまた疲労による誤認として判断され、日勤への配置換えと十分な休息を言い渡されていた。しかし残業中の役人からも目撃情報が相次ぎ、直近の目撃者二人に至っては王家の信頼も厚い上級近衛騎士だったことから、いよいよ噂が現実味を帯びてきたのである。
元より空中庭園を含むこの区画に出入りできる者は限られている。王家の居住区画――つまりは極めて私的な場所だ。二十年ほど前の王位継承権争いの後により一層厳しいものとなった選考を重ねて選ばれた人員のみが配置される。決して想像力過剰で妄言を吐くような性質の者は選ばれない。
それゆえに程度の差こそあれ、この亡霊騒動を信じる者が多かったのだ。
イデオンもまたその一人だ。そして死霊との交戦経験はない。というより経験者の方が少なく、この日の相棒であるモルテンに一度だけ経験があるのみだ。
だからこそイデオンは、このタイミングでの近衛騎士への抜擢に内心気乗りしなかった。
万が一にも死霊が出現したら。
イデオンはごくりと唾を呑み込んだ。
死霊は魔素を媒介として具現化するモノ。見た者の精神を蝕むモノ。精神の影響を強く受ける魔素そのもので構成されているそれは、相対する生物の恐怖心を糧に強大化するという。その多くは見た者の不快感や恐怖心を強く煽る悍ましい姿をしているというから、ある種容姿そのものが攻撃手段といっていいかもしれない。
事実、ごく間近で亡霊を見たという直近の目撃者は、現在ひどい精神疲労で療養中――表向きは巡回中の負傷となっている――だった。
「……人は噂に惑わされやすいものだ。どれほど優れた人間であろうと、事実でなくとも噂話が重なればそうかもしれないと思ってしまうものさ」
その言葉が奇妙に強調されていたように思えて、イデオンはちらりとモルテンに視線を流した。生真面目で端正なその横顔はやけに白く、表情も強張っているように見える。
そういえば、とイデオンは思い至る。
件の直近の目撃者は確か彼と古馴染みの騎士だ。口では信じていないと言いながら、内心ではモルテンも亡霊の存在を信じているのかもしれない。
そんなふうに思ったその瞬間だった。
――ぴちょん、ちょん、ぴちょん。
微かな水音を聞いたような気がしてイデオンは足を止めた。聞き違いだろうか。しかし隣のモルテンもまた表情を険しくして耳を欹てている。
「なんでしょう」
「……しっ」
訊きかけた言葉に被さるように、再び水音が響き渡る。
――ぴしょん、ぴしょん……ぱしゃん。ぴしょん、ぴしょん……ぱしゃん。
は、とモルテンが鋭く息を吐く音が聞こえた。
水音が聞こえるのは巡回路の先――庭園中央部の噴水付近だ。
「……噴水の音でしょうか」
知らず声が囁くように低く掠れた。
暗い生垣の向こうから、水流の魔導具で昼夜を通して水を噴き出している噴水の音が微かに聞こえてくる。さあさあという穏やかな音だ。先ほどの音とはまるで違う。
「噴水の故障で水の流れが滞っているのかもしれん」
潜めたモルテンの声には自らに言い聞かせるような響きがあった。
――微かにではあるが、気配を感じるのだ。魔導具から発せられるものではない、それとは別の魔素の揺らぎ。
二人の利き手は既に剣の柄に掛かっていた。死霊は物理攻撃が効かないものが多いが、幸いどちらも魔法の心得がある。
「イデオン。対象を確認次第笛を」
「……了解」
周囲に異常を知らせる警笛。まさか初業務でこれを構えることになろうとは。じっとりと汗が滲む手で首から下げた警笛を咥える。
二人は静かに剣を引き抜き、ゆっくりと噴水広場へと足を踏み入れた。
噴水の音以外に聞こえる音のない広場。扇状に美しく敷き詰められた石畳の広場の中央には、壺を掲げる水の乙女の石像が置かれた大きな噴水が配置され、さあさあと軽快な水音を立てていた。明るい昼間であれば陽光に照らされた乙女の裸体は美しいと思えたであろうが、光量が落ちた魔法灯に照らされているその像は暗闇の中ぼんやりとした影のように浮かび上がり、不気味な様相を呈していた。
「……何もいないな」
言いながらもモルテンの視線は噴水に向けられていた。何かが潜む気配。これは決して人間のものではない。
噴水までは距離にしておよそ十メテルほど。急襲にも対応できる十分な間合いだ。
警笛を咥えた口元に力が籠る。
――と。
ちゃぷん、という水音と共に水中からゆらりと細長い影が現れる。ぶよぶよと不規則な形に蠢いたその影はやがて、人型を形作った。細身の身体を歪に歪めた、人のような何か。その何かはゆらりと身体の向きを変えた。
こちらを見ている――そう察した瞬間、ぞわりと総身の毛が逆立つ。
人のようで人ではない奇妙な造形のそれの悍ましさに、モルテンがひゅっと息を呑んだ。イデオンもまた警笛を鳴らそうとしたが強張って力加減を誤り、びひゃ、という鋭くも潰れた音が出たのみだった。
しかしその音で即座に我に返ったモルテンが、「警笛!」と鋭く叫ぶ。咄嗟に吹き直した警笛は今度こそ正しく鳴った。
ピィ――――――!
甲高い音が庭園内に鳴り響き、二拍ほど遅れて城内のそこかしこから慌ただしい人の声と足音が聞こえ始めた――瞬間。
――ぱしゃん。
噴水の人影が見る間に崩れ落ち、水音を立てて消えた。
――同僚達が駆け付ける足音が鳴り響く中、イデオンとモルテンは身動ぎ一つせず呆然と立ち尽くしていた。