2巻発売記念「偽花の香り」
通常営業です。
残念な人々の話。
かたん。
微かな物音に意識が浮上し無意識に気配を探ろうとして、ここが恋人の部屋であることを思い出して緊張を解く。ふわふわと柔らかで心地よい温もりと、爽やかで仄かな甘みの混じる優しい香りに包まれて、アレクはうとうととその幸せな微睡みを楽しんだ。
とんとんとんとん。くつくつくつくつ。
軽快な包丁の音、何かが鍋で煮える音。シオリが夕食の支度をしている音だ。
(――幸せ、だな)
ずっと昔、幼い子供だった頃。母がまだ生きていた頃は毎日当たり前のようにそこにあった温かな日々。それがまた再びこの手に戻ってこようとは思いもしなかった。
シオリという女に出会い、惹かれて――その人柄を知るほどに強く望むようになり、そして彼女の唯一という立場を手に入れた。それからはこれまで以上に充実した日々だった。
愛しい女と過ごす日々。温かく、柔らかく、優しい女と――
こつ、こつ。足音と共に近付く気配を感じ、アレクは緩く唇の端を吊り上げた。きっと食事の支度が整ったと起こしにきてくれたのだろう。甘く爽やかな香りが近付いてくる。彼女が好んで使っている洗髪料の香り。
驚かしてやろう、と。そんな悪戯心が涌いて、寝ているふりをしながら静かにそのときを待つ。
ふわりと辺りの空気が動き、己のすぐそばで気配は立ち止まった。微かな衣擦れの音がして、伸ばされたその手が己に触れる――その瞬間を狙って両腕を伸ばし、一気に引き寄せ抱き締めた――瞬間。
じょり。
いつも触れている柔らかな感触ではない何かひどくざらついた肌触りと、やけにごつごつと筋張って重い身体にぎょっとして目を開けたアレクは、目前で目を丸くして固まるザックの姿にひゅっと息を呑んだ。
筋骨逞しい大の男同士が長椅子の上で抱き合う構図。なかなかに衝撃的な絵面である。
ちなみに足元のルリィは先ほどから興味深そうにこちらを観察している。何を思ってそうしているのかは分からないが、何か妙な勘違いをしていないことを祈るばかりだ。
互いに固まったまま見つめ合っていた二人は、次の瞬間我に返って蒼褪めた。
「……あ、あんた何やってんだ!」
「何やってんだはこっちの台詞だろうよ! 何してくれてんだ!」
「何だってあんたはシオリと同じ匂いになってるんだ!」
「来る前に書庫の整理して埃まみれになったから風呂借りたんだよ!」
「人の女の部屋で風呂借りるとは一体どういう了見だ!」
「兄妹なんだから別に構わねぇだろうよ!」
さっさとどけろ、そっちこそ手を離しやがれとじたばた揉み合う二人に、じっとりとした声が掛かる。
「……お前達……さっきから何をしているんだ……」
見ればグラスを片手に引き攣った表情のクレメンスの姿。そのすぐ隣にはにやにやと含み笑いしているナディアの姿もある。
……そうだった。今日はシオリの部屋で皆を招いての食事会なのだった。長椅子に凭れて料理するシオリの姿を眺めているうちに、どうやら転寝してしまったらしい。その間に彼らが訪ねてきたのだろう。
「うわぁ……」
鍋を手にしたままのシオリがぽそりと言った。
「美男子だと男同士でも絵になるんだねぇ……」
アニーがいたら喜んで絵に描きそう、そう呟かれてアレクはぞっとした。愛しい女に美男子と言われて正直悪い気はしないが、この場合に限っては洒落にならない。あの変わり者の女伯がこの場にいたなら、本当にやりかねないからだ。
慌ててザックを押し退け身体を起こすと、深々と溜息を吐いた。何が悲しくて年上の無精髭男を抱き締めねばならないのか。あのとろとろと蕩けるような幸せな気分が台無しだ。
「……シオリでやり直したい……」
洗髪料の香りだけでシオリだと思い込んだ自分の迂闊さを棚に上げてそう呟くと、青くなったままのザックに背中を蹴り飛ばされる。
――とある冬の休日の夜。室内にナディアの爆笑が響き渡った。
誠に残念でございます。
3月4日、無事2巻発売いたしました。応援してくださった皆様のお陰です。ありがとうございます。
それから既に2巻をお手にとって頂いた方はご存じかと思いますが、活動報告にてコミカライズのお知らせです。