空中庭園の水怪「04 魂の祭」
その夜は新月だった。月明かりのないビロードのように滑らかな漆黒の空には数多の星々が瞬き、星明りが下界を静かに照らす中、人々は星送りの祭を楽しんでいた。通りや広場には多くの屋台が立ち並び、買い求めた軽食を肴に酒を飲みながら故人の想い出話に興じている。王都に屋敷を構える貴族も例外ではなく、町人に扮して祭りを楽しむ者もいれば、屋敷の庭で星空を眺めながらごく身近な人々と細やかな会食をする者もいた。
星降祭の最終日と定められているその新月の夜は星送りの日とされ、楽しい想い出と共に「里帰り」していた魂を送り出す慣わしだった。
王家の居城、ストリィド王城もまたこの祭の只中にあった。城勤めの者達はこの日ばかりは仕事を定時には終わらせ、一般開放された城門内の庭園広場で屋台――無論厳選され厳重な監視が付けられた店ばかりだ――の軽食を楽しんでいる。
祭であっても近衛騎士に休みはなくむしろ普段より遥かに忙しい一日であるが、祭を楽しめるようにと配慮され、歳の若い順に交代で二時間の休憩を与えられていた。
同僚とその祭を十分に楽しんだ後に業務に復帰したイデオンは、穏やかながらも楽しげな様子を眼下に眺めながら「盛況ですね」と呟いた。隣のモルテンもまた「そうだな」と微笑を浮かべて同意する。
――初日こそ「亡霊」に驚いて些かの醜態を晒したイデオンであったが、既にこの仕事にやりがいを見出していた彼はいっそ清々しい気分でこの勤めに就いていた。正直に白状してしまえば、辞令が降りた当初こそ喜びはしたものの、年間を通して巡回業務ばかりの近衛騎士の仕事に内心気落ちしていたことも確かだった。決して亡霊ばかりが理由ではなかったのだ。
だが、陽気で人懐っこく、それでいて厳格で苛烈さも持ち合わせているオリヴィエル王と間近に接してその人柄を知るごとに、彼とその一家を護ることの意味を深く思い知るようになっていた。
この王と歴代の王の功績あってこそ、今の豊かで穏やかなストリィディアがある。その王家を、そして王家を支える人々を護ることは即ち国を護ることに他ならない。私服に着替えて参加した祭で何の不安もなく祭を楽しむ人々を見たイデオンは、近衛騎士に向ける彼らの尊敬と信頼の眼差しに己の職務の重要さを十分に思い知った。華々しい活躍がなくとも確かに己は貢献しているのだ。
襟を締め直したイデオンは、眼下の喧騒をもう一瞥してからきりりと表情を引き締めた。そうして振り返って見たモルテンの物憂げな表情に、僅かに眉根を顰める。
「どうしたんです。このところずっと変ですよ」
「……ん? ああ、そうだな」
若さゆえの明け透けさで訊くイデオンに、彼ははっと我に返ると薄い苦笑いを浮かべた。
「やっぱり気になるんですか。亡霊のこと」
「……ああ……まぁ、な」
あの日――自分の近衛騎士としての初仕事をしたあの夜とはまるで逆だなと内心苦笑しつつ、どうにも歯切れの悪い年嵩の同僚の言葉を待った。
――城中を騒がせた亡霊騒動。かの騒動は様々な憶測を呼んだが、結局王の使い魔の仕業として決着がついたはずだった。王の使い魔は厳重注意と一日減給処分、騒動の発端となった近衛騎士二人は二日の謹慎と減給処分、そして彼らの直属の上司にもまたいくらかの処分があったはずだ。騒動の規模に対して軽い沙汰で済んだのは、自らの使い魔に対して人間の作法の指導が不足していたと深く自省した王の意向によるものだった。
こうして全て解決してから一日と経たぬうちに、王自身が噴水広場の再調査と警邏を命じたのである。王の使い魔が全てが自らの犯行ではないと「供述」の一部を覆したためだった。数日掛けた再調査の結果、微弱ではあるものの何がしかの魔力反応が検知された。無論その間王の使い魔は一度たりとも噴水広場に足を踏み入れてはいない。
それは、即ち――。
巡回を再開して歩き出したモルテンは、結局一言も弁明しないままだった。あの日と同じように、夜の闇に沈んだ空中庭園を二人で歩く。途中、もう一組の近衛騎士と擦れ違ったが、今のところは異常なしということだった。
やがて二人は件の噴水広場へと足を踏み入れる。二人に気付いた立哨の聖堂騎士――王の私費で呼び寄せた大聖堂の聖魔法剣士だ――が教団式の敬礼をした。
「そろそろ始まりますね」
聖堂騎士の一人が生垣の向こう、庭園広場がある方向に視線を向けて言った。
間もなく午前十二時。星降祭最終日、星送りの儀式まであと数分だ。城門前の庭園広場を見下ろすテラスで王自ら儀式を執り行う慣わしになっている。
やがて喧騒が止み、微かなどよめきがさざ波のように押し寄せて消えた。王とその一家がテラスに姿を現したのだろう。
星送りの儀式を最後に目にしたのは子供の時分、騎士訓練校に入校する前年のことだ。あのときに見た王の清廉な立ち姿を脳裏にまざまざと思い描いたイデオンは、ふと辺りに満ちる魔素が僅かに揺らいだのを感じて剣の柄に手を掛けた。モルテンも、聖堂騎士もまた既に構えている。
魔素が動いている。中央の噴水に向かって魔素が集まっている。
ぱしゃん。
噴水とは異なる水音が響いた。それも束の間、あの日に見た「亡霊」と同じように怪しげな影が水中から現れる。ぐにゃりぐにゃりと奇妙な形に蠢いていたその影はやがて、人の形を模った。
――二人の、人影。
ゆらりと動いたその人影は、ぱしゃりと音を立てて噴水から足を踏み出す。水を落とした水彩画のように奇妙に滲み、強風で揺らされたようにぶれるその姿が、二人の少年の形に像を結んだ。水を張った水槽越しに眺めるような、ゆらゆらと揺らめく少年達の姿。
身に付けた衣服の意匠は一昔――否、二昔は前の流行りだろうか。ともすれば空気に滲み溶けてしまいそうな二人の顔立ちはいまいち判然としなかったが、それでもその身形から高い身分であることが知れた。
年若い貴人の亡霊だ。
――ああ、どうにかこの日に間に合った。
その亡霊の片割れが確かに言葉を発した。
ひゅっと息を呑みながらも抜刀したイデオンの横で、聖堂騎士が印を結んだ。その亡霊に悪意めいたものは感じられなかったが、彼らが足を向けた方向には王がいるテラスがある。間違っても王の元へと行かせてはならない。事と次第によっては指示を待たず浄化せよという命令を受けている以上当然の行動ではあったがしかし、それを制止する者があった。
モルテンだ。
「モルテン殿!? 何を――」
抗議の声を上げたイデオンは、自身を押し留めるその腕が小刻みに震えていることに気付いて口を噤んだ。モルテンの顔は色が抜け落ち、驚愕に目を見開いている。
「モルテン殿、」
言い掛けた言葉に被さるように、脳内に響くような声が聞こえた。
――相変わらず精が出るな、モルテン。この調子でこれからも頼むぞ。
くぐもった、しかしどこか爽やかな少年の声は言った。
――ロルフに伝えておいてくれ。驚かして悪かったってな。
親しげな声はそれだけ告げると、もう一人の亡霊と共にゆっくりと歩いていく。
今この場にいるモルテンだけではない、警邏中亡霊を目撃してから未だ自宅にて静養中の騎士の名まで亡霊が知っていたことに驚きもしたが、それ以上にイデオンは、モルテンが亡霊に対して最敬礼したことにひどく驚かされていた。
「……ヴァレンティン殿下」
彼の唇から一つの名が漏れる。
ヴァレンティン。それは二十五年前、十五歳の若さで事故死した第二王子の名だ。
だとすれば、もう一人の亡霊の正体は――。
ただただ涙を流して最敬礼の態勢を崩さないモルテンと共に、イデオン達は呆然と二人の亡霊を見送るしかなかった。
その頃庭園広場では祭の興奮が最高潮に達していた。王と王太子が掌中に魔法の光を灯し、恭しく天に掲げている。二人の掌中に生まれた光はやがて、その手を離れて天空へと昇っていく。それを合図として広場の至る場所から輝く光が解き放たれた。数多の光は淡く辺りを照らした後に、ゆっくりと先の二つの光を追って上昇していく。
星送りの儀式。この光を道標として、地上に「里帰り」していた魂が天界へと還るのだ。
美しく幻想的なその光景。感嘆の溜息と共にいつか訪れるだろう再会の日を約束する声がそこかしこに満ちる。
「……今年も無事終わりましたね」
愛息ベルンハルドの言葉に頷きながら人々を穏やかに見回していたオリヴィエルは、ふと誰かに呼ばれたような気がして視線を巡らせた。
オリヴィエと親しげに呼ぶその声はひどく懐かしい。しかしその声の持ち主は随分昔に見送ったはずの人のものだった。気のせいだろうか。聞き間違いだろうか。この星送りの空気に呑まれた己の幻聴だろうか――そう思ったオリヴィエルの視線が、ふとある一点に釘付けになった。
このテラスから見上げた視線の先の、空中庭園。その片隅の城下を見下ろせる場所に、二つの人影が揺らめいている。
二人の少年。顔を見分けるには些か遠い場所だというのに、オリヴィエルにはそれが少年だと分かった。否、それどころかあの立ち姿には覚えがある。
「まさか……」
湧き上がった懐古と惜別の念が激しくこの胸を焼き、オリヴィエルは小さく喘いだ。
「……父上?」
内心の激しい動揺とは裏腹に表面的には落ち着きを保っていた父王の異変を察し、慌てて身体を支えたベルンハルドが衆目に気付かれぬようテラスの奥まで導いてくれた。駆け寄ったセシリアが夫の背を支え、寄り添うペルゥもまた気遣うようにぷるんと震える。
しかしオリヴィエルの視線は上に向けられたままだ。
二つの人影がふわりと揺れた。まるで微笑んでいるかのようだとオリヴィエルは思った。
――良い臣と家族に恵まれて安心した。
少年らしい瑞々しさが残る落ち着いた声が言う。
――それに、良い王になったな。
最初の声より幾分明るく力強い声が言う。
二つの声が、甘く柔らかに響く。
――あの幼く可愛かったオリヴィエが、立派な王になった。
――優しいあの子に務まるだろうかと心配だったが、これならもう思い残すことはない。
――できればブレイザックとナディアーナにも会って行きたかったが……それはいつかの楽しみにとっておくことにしよう。
――それは私も同じだが……まぁ、彼女は別の幸せを見つけたというからな。遥かな地から祈るだけにとどめておこう。
そう言った二人の姿が揺らめき霞んだ。
「――兄上……!」
咄嗟に踏み出して叫んだオリヴィエルの掠れた声が、祭の喧騒に掻き消されていく。
夜の闇に溶け消えていく二人の少年はふわりと笑った。
壮健でな。長生きしろよ、と。両親によく似た面立ちと髪色の二人は、最後に弟の身体を気遣う言葉を残して消えていった。消える間際、片手を挙げて軽く振ってみせたその仕草が、今生の別れとなった二十五年前のあの日と同じものだったことを長兄は気付いていただろうか。
――この年の星送りの夜、ある一つの再会と別れがあったことは、ごく一部の者が知るのみにとどめられた。
こうして星降祭の終わりと共に、亡霊騒動は今度こそ幕を下ろしたのである。
「……亡霊の真の正体が本当に兄上だとは思わなかったな。それも、二人一緒だなんて」
城中に流布していた亡き王太子の亡霊が空中庭園を彷徨っているという噂は、結局は真実であったのだ。噂と異なる点があるとすれば、それは悪意の有無であろう。長兄は決して怨霊などではなかった。
輝かしい人生が今まさに始まろうとしていた矢先に海難事故で命を落とし、確かに未練は残していただろう。だがそれは決して自分のものになるはずだった居場所を手に入れた末弟への恨みではなかった。
王太子であった長兄も、長兄死した後にその立場に収まる予定であった次兄も、そのどちらも末弟を案じていた。心優しく大人しい子供だった末弟を案じた末に死霊化した二人は、堂々たる王となったオリヴィエルを見て安堵したのだろう。末弟との僅かな邂逅を果たした末にあっさりと、しかし満足げに消えていった。
――翌日の空中庭園、その中央に位置する噴水広場。水の乙女を抱くその噴水の際に、オリヴィエルはそっと花束を置いた。
「何故この噴水だったんだろうって一晩ずっと考えてたんだ」
死霊が水場に集うという理屈は分かっている。だが、二人の兄がこの場所から現れた理由は他にもある気がした。死霊は思いを深く残した場所に憑くとも言われているからだ。
――この噴水は幼い頃の遊び場だった。まだ幼かった頃、兄と三人でよく水遊びをして遊んだものだ。夏は冷たい水を飛ばし合って遊び、冬は温水に変わる噴水に雪遊びで冷えた手を浸して温めていた。
市井の子供と同じように、無邪気に遊んだ噴水広場。まだ無邪気で純粋だった頃の兄弟の想い出が詰まった大切な場所なのだ。
「……星降祭の時期に死霊の目撃談が増える理由は諸説ございますが」
噴水の清めを終えた老年の聖魔導士が、濡れた手を拭いながら問わず語りに言った。
「死霊は残留思念が具現化したもの。思念を残すのは何も死者ばかりではございません。生者もまた日々何がしかの想いをその場に残しているものです。想いが強ければ強いほど思念は残り、やがて一つの思念体となる。星降祭の時期には故人を思い出す機会が増えますからな。故人に会いたいと強く願うその思慕の念が、故人の霊として像を結ぶのではないかという説があるのですよ」
聖魔導士は目尻の皺を深めて微笑む。
「この城には貴族の方々が多く勤めておられます。当時、殿下と懇意にしていた方もきっと多くおられるでしょう。その方々のお二人を偲ぶ気持ちが集まった結果、お二人の残留思念が強化されて具現化したのかもしれませんな。ご兄弟想い出のこの場所に」
今年は節目の年でございますれば、なおさら。
そう聖魔導士が付け加えた言葉に、オリヴィエルは静かに目を閉じる。
――瞼の裏に思い浮かぶのは、まだ幼かった二人の兄の無邪気な笑顔だ。この場で最後に兄弟三人が揃って遊んだあの日の笑顔。あれは恐らく長兄ジークヴァルドが十二になる前日だろう。
貴族の子女は幼少期から礼儀作法や語学、基礎計算、芸術などの初等教育を受けて育つが、それも十一の歳までだ。十二歳は現行法で準成人として扱われ、正式に社会での労働が認められる歳。この年齢に到達した貴族の子女もまた、一般教養に加えてより専門的な教育を受けるようになる。王太子も例外ではなく、十二回目の生誕祝賀会を終えた翌日から帝王教育が施されるのだ。
一日のほとんどが勉学の時間に充てられ、公務で外出する機会も増える。これまでのように遊びに費やす時間はほとんどなくなる。
『……お前達とここでこうして遊べるのは今日これまでだ。だが、お前達と遊んだこの日々は私の大切な想い出。これからの日々を生きる私の糧となるだろう』
あのときの自分はまだ五つ。ジークヴァルドの言葉を全て理解するにはあまりにも幼く、断片的に覚えているだけだ。だが、そんな趣旨の言葉を言ったことは確かに覚えている。
『兄上。ここで兄弟三人が過ごす最後の日の今日、誓いを立てよう』
そう言って次兄ヴァレンティンが拳を掲げたことも。いつか芝居で観た三勇士の誓いの真似事。それでもあのときは子供ながらに真剣だった。
「――この魂は共に在れ、共に国の礎たれ……確かそんな文句だったな」
幼少期から厳しい教育を受けて育った王子とはいえ、子供が考えた誓いの言葉はひどく拙く短いものだ。だが、遠いあの日にこの場所で誓いを立てたその想いは本物だった。
二人の兄が二十五年という節目の年にこの場所に現れたのは決して偶然ではないだろう。教団の教えでは、死者の魂は死後二十五年から三十年で現世を完全に離れて天に還り、新しい命の素となって新たな生を待つと言われている。
ジークヴァルドとヴァレンティンは、たとえ魂が天に還ろうとも我々の想いは共に在ると、そう伝えたかったのかもしれない。
「……僕がアレク、アレクって言ってばかりいるから、妬いてくれたのかもしれないな」
そんなふうに冗談めかして口にした小さな呟きはしかし、語尾が震えて空気に溶けた。
足元で大人しく控えていたペルゥがそっとオリヴィエルから離れ、噴水に近寄った。しゅるりと伸ばした触手が水面に触れ波紋を作る。その小さな水音に紛れて、遠い日の少年達の笑い声が聞こえたような気がした。
――星送りの儀式は魂の祭。昨夜見送った魂のいくつが次の生へと旅立ったのだろうか。願わくはその新たな人生に幸多からんことを。そして未だ天界と現世を行き来することを許された魂に、安らかな眠りがあらんことを。
そんな願いと祈りを胸に、オリヴィエルは天を振り仰ぐ。
抜けるように青く高い空は、遠い少年の日に見た空と同じ色をしていた。