書籍化記念「命の軌跡、命の奇跡」
いつかどこかでのお話。
抜けるように透明で美しいセルリアンブルーの空を、真綿のような雲が千切れ飛んでいく。照りつける日差しは強く、街道を行く旅人達の体力をじりじりと削っていく。高緯度の北国とはいえ、夏は身体を動かせばすぐにも汗ばむ程度には気温は高い。
「これは早々に野営地を決めて湯浴みしたいところだな」
「そうだね……」
額や首筋を伝う汗を手布で拭いながらアレクが顔を顰め、シオリは上気した顔で同意した。日本の暑さに比べれば遥かに涼しいけれど、それでも日の照りつける下を荷物を背負って長距離歩けばやはり暑い。
「あとは空調魔法の効いた中でよく冷えた果汁水が飲みたいなー」
「贅沢だなぁ」
手で扇いで起こした小さな風で茹だった顔を少しでも冷やそうとしながらリヌスが言い、水筒の薬草水で口を湿らせたニルスは苦笑いした。
確かに遠征の最中に望むには贅沢な希望だったけれど、シオリがいればどちらも叶えられる望みだ。
「まぁでも、アレクの意見には賛成だな。今日はいつもより気温が高いようだから、早めに休んで明日の朝涼しいうちに出発したほうが身体の負担も少ないと思う」
医師免許を持つ薬師のニルスが医師らしい意見を述べ、この日は次の水場近くで野営することで皆の意見が一致した。
もう少し歩けば休めるとあって、冷涼な山岳地帯出身で暑さに弱いリヌスの足取りが軽くなった。それを揶揄するように皆で笑い合いながら街道を歩いて行く。
街道沿いにところどころある私設の休憩所や程良い日陰では、暑さを避けて一息つく旅人が目立った。小川では足を浸して水遊びに興じる年若い冒険者の姿もある。
(世界が違っても、こういうのは変わらないなぁ)
夏の昼下がりの風景にシオリは目を細めて薄く微笑んだ。暑さで微妙に形を崩し気味にしてぽよぽよ歩いているルリィは、水遊び中の若者達に対してどこか羨ましげだ。野営地に着いたら水遊びさせてあげよう、そう思った時、喧噪に気付いて視線をそちらに向けた。
男達の叫ぶ声、女の悲鳴。
「何事だ?」
進む街道沿いの少し先の開けた場所に、長距離移動用の幌馬車が停められているのが見える。その周囲を慌ただしく動き回る複数の人影。騒ぎの発生源はどうやらあそこらしい。
「なんだろう。喧嘩かな?」
面倒事は御免だけれど、本当に喧嘩なら場合によっては介入する必要があるかもしれない。仲間達とそう話しながら、足早に歩を進めた。
と。
人々の声に混じって女の悲鳴交じりの激しい苦鳴が上がったのを耳にして、ニルスが即座に反応した。普段は聖職者のように穏やかな彼の表情が厳しいものに変わる。
「急病人かもしれないね」
「なら急ぐか」
本当に病人ならニルスの医療知識が役立つかもしれない。
小走りでその馬車に近付くと、野次馬を決め込んだらしい物見高い旅人から視線を遮るように乗降口前に陣取っていた女達から険しい視線を向けられた。
「野次馬のつもりなら他に行っとくれ! 見世物じゃないんだよ!」
気の強そうな女が腹立たしいといった様子で怒鳴りつけるのを人当たりの良いリヌスが宥めたところで、ニルスが前に進み出た。
「僕は薬師だ。医師免許も取得している。もし病人や怪我人がいるなら役に立てることがあるかもしれない」
「そりゃありがたいね! お医者様だったのかい。ああ、でも……」
彼の台詞に、女達がそれぞれ異なる反応を見せた。喜色を浮かべる者もいれば、安堵と戸惑いがないまぜになったような顔つきの者、難しい顔で考え込む者。
その様子にこちらもまた怪訝な表情で顔を見合わせる。
「どうかしたのかい? 何か難しい事情でも」
「――実は……」
女達に代わり、蒼褪めた顔でなす術もなく佇んでいた御者らしい風体の男がおずおずと口を開いた。
「客の一人が急に産気づいてな。仲間が近場の村まで産婆を呼びに行ったが間に合うかどうか」
「妊婦が長距離馬車に乗ってたのかい!?」
「どうも駆け落ちして一緒になった夫婦らしくてな。長らく会ってない里の親父さんが危篤とかどうとかで、あんまりにも切羽詰まった様子だったんでつい乗せちまったんだが……こんなことになるならもっと強く止めとくんだった」
「なるほどね……しかし出産となると確かに難しいな。とはいえ何もしないというわけにもいかないね」
ニルスの言葉に皆考え込んでしまった。
一人、いまいち状況が分からないシオリは首を傾げた。出産はさすがに専門外なのだろうかとも思ったけれど、その点に関してニルスからは明言しなかったはずだ。顎に手を当てて何か思案しているらしい彼を横目に、隣のアレクに小声で訊いた。
「……ね、何か問題でもあるの?」
話し掛けるが、アレクは何か考え事でもしているのか無反応だ。
「ね、アレク……アレク?」
「……うん……? ん、なんだ?」
もう一度名を呼びながら腕をつつくと、彼ははっと我に返ってシオリを見下ろした。
「……? んと、ニルスさんだと何か問題でもあるのかなって」
「んん? 問題って、それはお前……」
何故かひどく驚いた顔をされてしまって益々困惑する。
「ニルスは男だぞ。出産に立ち会うわけにはいかんだろうが」
「え、あ、そういうこと……?」
確かに日本でも男性の産婦人科医に抵抗があって女性医師を選ぶ者もいるとは聞いているけれども。やはり昔ながらの生活や考え方が色濃く残っているこの世界では、まだ男性が出産に立ち会うことは一般的ではないのだろうか。
「お前の国では男でも立ち会うのか?」
「うん。父親が立ち会ったりもするし、男の産婦人科医も沢山いるよ」
「さんふ……なんだって?」
「産婦人科。妊娠出産専門のお医者様だよ。妊婦はそこで健診を受けたり出産したりするの。お医者様も男性女性両方いて、妊婦が任意でどちらかを選べたりする病院もあるみたい」
「それは……凄いな。専門の医者に施設、それに男の産婆も当たり前か。随分と先進的なんだな」
アレクは目を丸くした。
「この国は他国に比べれば先進的な方だが、それでも出産の介助に専門職の男が関わるようになったのはここ十数年、それも相当裕福な家くらいだ。王侯貴族でも上位のごく一部だな」
「へえぇ……そうだったんだ」
この数年で色々と勉強してきたつもりではいたけれど、さすがに出産についてはノータッチだった。
そうこうしている間にも馬車から苦鳴が漏れ聞こえてくる。
方針が決まったのか、問題の妊婦に付き添っているらしい年配の女と話し込んでいたニルスが足早に歩み寄ってきた。
「ご主人の了承を得て、介助の助言をすることになったよ。専門外だから医療書を読んだ程度の知識しかないのが心許ないところではあるが」
主な介助役は出産経験のある女達がどうにかやってみるということだった。陣痛間隔から見て出産が近いらしく、馬を出して呼びに行かせた産婆は恐らく間に合わないだろうというのが彼女達の見立てだった。
「それで、シオリにも手伝ってもらいたい。なるべく沢山お湯を沸かしてほしいんだ」
「わかりました」
「じゃあ周囲の警戒は俺達に任せてよ。他の乗客の手も借りようー」
どのみち男は立っているくらいしかできないからねー、そう言い添えてリヌスは笑った。
困惑した面持ちで立ち尽くすばかりだった男達は、見張りの仕事を与えられてむしろ安堵したようだった。混乱に乗じた物盗りや魔獣などの異変があれば下手に立ち向かったりせず、必ずアレクかリヌスに伝えるように言い含めると、それぞれが割り振られた持ち場に散って行く。
ルリィは暇を持て余してぐずっていた子供達の相手をするつもりのようだ。ぽよんぽよんと楽しげに弾んで見せながら彼らの機嫌を取り、気を揉んでいた子連れ客は助かったというようにほっと息を吐いている。
「じゃあ、シオリも頼むよ。あとは清潔な布……できれば柔らかい物が沢山あると嬉しいが、これはありったけの手布でどうにかするしかないな」
「それなら私が熱湯消毒します。手持ちのタオルを出しますからすぐに作業に移りますね」
「湯を溜めるなら桶が必要だろう。よければこいつを使ってくれ」
「じゃああたしは手布を出すよ。ちょうど予備の新しいのを買ったばかりなんだよ」
「そういうことなら私も出させてもらうよ。仕入れたばかりの品なんだが、祝い代わりに一つ差し上げよう」
同乗者の突然のお産への対処へが決まったことで気持ちに余裕が生まれたのだろう。慌ただしく動き始めたニルスとシオリの元に、話を聞きつけた乗客達からの善意が集められた。御者からは馬の飼い葉桶や飲み水用の桶を、旅行者からは手布を、行商人からは柔らかい木綿や晒しを。
「ありがとうございます。助かります」
提供された桶や布類は産室となった馬車のそばに集められ、早速作業に取り掛かろうと袖を捲り上げたところで、馬車に入ろうと垂れ幕を捲ったニルスから短い呻き声が上がった。
「どうしました?」
「中の空気が悪過ぎるんだ。これではご夫人の身体に障る」
了承を得て馬車に顔を入れてみると、馬車特有の臭いや破水した羊水のものだろうか、何か生臭い臭いが入り混じった臭気と、籠ったような熱気が中から溢れて来て、思わずニルスのように呻いてしまった。
お産を見せるわけにはいかないからと閉め切った結果がこれらしい。これでは妊婦どころか介助役まで具合を悪くしてしまいそうだ。
「空調魔法を使いましょうか。それとも乗降口の前に壁を作って垂れ幕を開け放しますか?」
「じゃあ、壁を作ってもらおう」
「了解」
土魔法の術式を展開して乗降口前に土壁を出現させると、周囲から驚きの声が上がった。同時にニルスが垂れ幕を半分だけ開けて紐で留める。新鮮な空気が流れ込み、中に詰めていた女達が玉のような汗を浮かべていた顔を緩ませた。それでもまだ馬車の奥まで換気するには時間が掛かりそうだと、シオリは空調魔法で淀んだ空気を入れ替える。
「……どなたか存じ上げないが、すまない。妻も少し楽になったようだ」
女達の陰になってよくは見えなかったが、馬車の奥から男の声が聞こえた。隠しきれない疲れの滲んだ声。どうやら件の妊婦の夫らしい。
「いえ、お役に立てて何よりです」
控えめに返した途端、一際高い女の苦悶の声が上がった。続いて男の慌てたような声。介助役の女の一人が小声でニルスに何事かを囁き、彼が短い助言を与えると、再び持ち場に戻っていく。
「出産は間近だ。お湯と布、頼んだよ!」
「はい!」
急いで本来与えられていた仕事に取り掛かった。
手持ちの洗面器を取り出し、借りた桶と合わせて綺麗に洗ってから魔法で作り出した熱湯で念入りに消毒する。それが終わってからそれぞれを熱湯で満たすと、驚いたような顔で作業を見守っていた乗客達が運ぶのを手伝ってくれた。
「温度を下げたいときは言ってください。魔法で適温まで下げます」
「ああ、わかった!」
続いて布の消毒だ。善意で集められた手布や木綿類は結構な枚数になっていた。
(あんまり時間なさそうだから、まとめてやっちゃおう)
いつもの洗濯魔法の要領で空中に大きな水柱を発生させる。それから加熱して煮沸し、布を全て放り込んだ。煮沸時間は五分もあれば十分だろう。
大量の布が巨大な水柱の中でぼこぼこと煮沸されながら回転する様子はちょっとした見世物になっていたらしく、ルリィが相手をしてやっていた子供達から歓声が上がった。道行く人々の中には、何事かと足を止めて見物する者もいる。
「このくらいでいいかな」
洗濯魔法を解除して脱水してから、強めの温風を起こして一気に乾燥させた。それを待ち構えていた女達が次々と運んでいく。
それと同時に馬車の中から女達の掛け声と息む声が聞こえた。お産が始まったのだろう。どうにか間に合ったようだ。
「始まったみたいだねー」
一通りの仕事を終えて額の汗を拭っていると、周囲を警戒していたリヌスが歩み寄ってくる。
「ええ。安産だと良いですね」
「そうだねー。こんなに沢山の人が付いてるんだから、きっと大丈夫」
つい不安な言葉を漏らすと、リヌスらしい前向きな言葉が返ってきて破顔した。軽薄そうに見えるが気遣い上手の彼は、だから皆に好かれている。
「……でもさ」
「はい?」
「アレクの旦那の様子がなんとなくおかしいんだよねー」
「え」
言われて向けた視線の先には、見張りに立つ男達の合間を縫うようにして巡回しているアレクの姿。一見すると普段と変わらないように見えるけれど。
鞘に添えた手で魔法剣の柄を弄び、もう片方の手は所在無いといった様子で前髪をかき上げたり顎先に当てたりと、どこか落ち着きがない。周囲に向けている視線も警戒中に見せるいつもの鋭いものではなく、ぼんやりと焦点が定まらない。
普段仕事中には決して見せることのない、集中力を欠いた様子の彼。
「あ、確かに……」
先ほどもどこか心あらずといった様子で何か考え込んでいたようだったけれど。
と、彼の足が止まった。その視線が産室代わりに使われている馬車に向けられる。
「……さっきからずっとあの調子なんだよねー」
お産が気になるというのとも違う、あの視線は――。
ほぎゃ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
聞こえてきた元気な産声に、どこか遠くを見るようだったアレクが、はっと目を見開く。
皆が弾かれたように産声のした方へ顔を向けた。馬車の中から産声とともに男の感極まった声や女達の夫婦を労う言葉、そして新しい命への祝福の声が聞こえる。一瞬の間の後に、弾けるような歓声が場に溢れた。
「生まれた!」
「良かった良かった!」
夏の明るい日差しの下で人々が口々に祝福の言葉を口にする中――アレクだけが取り残されたかのように、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
――出産を見届け、昼を大分過ぎた時間。
華やいだ空気の中、馬車の乗客達にシオリ特製スープが振舞われた。リヌスが採集した茸や野草で作った滋養のスープ。出産という大仕事を終えた女とそれを支えた夫や介助役の女達にも差し入れられたスープの滋味深い味わいは、概ね好評だったようだ。
しばしの時が過ぎ、赤子を抱えた女とその夫が馬車から姿を見せた。若い夫婦は居合わせた者達への謝罪と礼の言葉を述べ、そしてごく僅かな時間ではあったものの、生まれたての赤子のお披露目がなされた。
父親似の顔立ちに母親譲りの柔らかな栗毛の、健康な男児。
ニルスの診断では赤子に目立った問題はなく、幼子連れの女から分けてもらった乳を口に含ませた今は、洗い立ての清潔な綿布に包まれてすやすやとよく眠っていた。
乗客達はそれぞれに夫婦への労いと赤子の健やかな成長を祈る言葉を贈り、それから馬車に乗り込んでいく。
夜の訪れが遅い夏のストリィディアでは日没までにはまだ数時間あるとはいえ、手続きの関係でなるべく早く最寄りの宿場町まで辿り着かねばならないとあって、もう出発するということだった。
偶然に出会った親切な旅人達との別れを済ませると、夫婦は今度はシオリ達と向き合った。彼らは、ようやく到着した産婆とともに近場の村で休養してから郷里へ向かうことにしたという。いくら郷里の父親の急事とはいえ、さすがに赤子が生まれた今は無理をするわけにはいかないからだ。実家へは事情を記した手紙をしたため、早馬を出して送ることにしたそうだ。
――下級貴族の出の夫婦。想い合っていながら互いに意に沿わない縁談が持ち上がり、思い詰めた末に駆け落ちしたのだという。男の父親が病に倒れて容体が思わしくなく、家の者がどうにか彼らの居場所を突き止めて急を知らせてきたのだということだった。
二人の結婚を許すから、せめて最後に一目だけでも会いたい、と。
この機会を逃したら、二度と和解することなく永久の別離を迎えることになるからと、むしろ女の方の勧めで遠距離の乗合馬車に飛び乗った末のこの騒ぎらしい。
「貴方がたにも本当にお世話になりました。貴方がたが偶然にも通りかからなければ、こうまで恵まれたお産にはならなかったでしょう」
赤子を抱き、そしてどことなく気遣わしげな表情で夫を見上げる妻を労わりながら、男は礼を言った。
「知識の豊富な薬師さんに――家政魔導士さん、でしたか。お蔭さまで、こんな場所だというのに驚くほど快適な環境でお産に臨むことができました。貴女がいなければ、清潔なお湯も布もなく感染症の危険もある不衛生な中で出産せざるを得なかった。それに、剣士さんと弓使いさんも。母子ともに無事でいられたのも、貴方がたの存在があってこそです。本当に感謝してもしきれません」
何度も感謝の言葉を口にしながら、夫婦は産婆を乗せてきた馬車に乗り込み、そして去って行った。
――場に、数時間ぶりの静寂が戻る。
「……俺達も行くか」
未だに何か考え込む様子ながらも、アレクがぽつりと言った。
次の水場まではあと一時間ほど。四人と一匹は足早にその場を後にした。
夜半。
夏の長い日が落ち、人々が眠りにつく時間。
リヌスとニルスが先に眠り、シオリとアレクは最初の見張り番につく。ルリィは子供の相手で疲れたらしく、食事後はすぐに地面に広がって眠ってしまった。
二人の寝息を聞きながら、シオリはアレクにちらりと視線を向けた。昼間ほどではなかったけれど、それでもいつもよりは口数は少ない彼。
「アレク」
「……ん? どうした?」
呼び掛けると、一瞬の間があってから返事があった。心なしか声にも覇気がない気がする。
「どうしたって聞きたいのはこっち。どうしたの? なんだか昼からずっと元気がないみたいだけれど」
自覚はあったらしい。彼はほんの少しだけ目を見開いてから、気まずそうな表情を作った。やはり様子がおかしいのは気のせいではなかった。
「……母を」
「うん?」
「母を思い出していた」
「……アレクのお母さん?」
「ああ」
確か母子家庭だったと聞いていた。
「母は女手一つで俺を育ててくれた。父は健在だったが、訳があって母と一緒になることはできなかった。母は――独りきりで育てなければならないことを承知の上で俺を身籠った。修道院で隠れるようにひっそりと、俺を産んだ」
アレクの紫紺の瞳が魔法灯の光を滲ませて揺らめいた。
「……父は当然そばにはいなかった。承知の上とはいえ、たった独りで俺を――好いた男に見守られることもなく、身を寄せた修道院のごくわずかな修道女の手を借りて、独りきりで子を産まなければならなかった母は一体どんな気持ちだっただろうか。心細くはなかっただろうか」
あの昼間の夫婦は――あの女は、夫に見守られて子を産んだ。あの男は身分を捨て、実の父親の急事よりも妻と生まれてくる子を優先しさえしたというのに――父は、母と俺よりも優先させたいものがあったのか、と。
「……そう思ったら、どうにもやるせなくなってな」
アレクは力なく笑ってみせた。
「両親は好き合っていたが、父は少し難しい立場の人間だった。だから母を選ぶことができなかったというのは俺も理解している。理屈では理解しているんだ。だが、どうしても感情が追い付かないというか……納得できないところもあってな」
自らの境遇を嘆くこともなければ愚痴の一つを言うこともなく、ただただ彼を慈しみ育てたというアレクの母親。それでも苦労が祟ったのか、身体を壊して亡くなった。
「あの男のように父が母を選んでいれば――いや、俺を生みさえしなければ、もっと長く生きていられたのではないかと……そう思ったことは一度や二度ではなかったな」
――場に下りた沈黙。
アレクの両親がどのような立場の人間で、何があってどうして別れることになったのかは分からないし、普通の家庭で生まれ育った自分には彼の気持ちを正しく理解することはできない。
ただ、生み落とされたアレクが微妙な立場に置かれたのだろうということは理解できた。話から察するに、私生児だった彼。私生児として母子家庭で育ち、母亡き後は父に引き取られて育てられた、と。
「――でも」
「うん?」
「好きな人とは一緒にはなれないし苦労するって分かってても、アレクのお母さんはアレクに会いたかったんだね」
「……え」
ぽつりと落とした呟きに、アレクの俯けていた視線がこちらに向けられた。
「だって、お父さんと一緒になれなくて、独りでアレクを育てなければいけないって知ってたのに、それでもアレクを身籠って、そして産んでくれたんでしょう?」
「……ああ」
「愚痴一つ言わずに育ててくれたんでしょう? これって凄いことだと思うよ?」
「ああ。愚痴らしい言葉を聞かされたこともなければ――ああ、そうだな、恩着せがましいことを言われたこともなかった。遊び仲間の中には似たような境遇の者もいて、お前のために頑張ってるんだとか我慢してるんだとかそんなふうに言われながら育てられて、母親の愛情や期待が重くて辛いと言っていた奴もいたが……母はそんなことは決して言わなかった」
「そっか」
「ああ」
「じゃあ本当に大切に、純粋な愛情だけを注いで育ててくれたんだね」
好きな男とは一緒になれず、全て自分が背負うことを覚悟の上の妊娠と出産。その上で息子が歪んだりしないように、愚痴も言わず自らの望みを背負わせることもなく、ただ真っすぐで純粋な愛情だけを注いで育てるなど、並大抵の精神力でできることではないだろう。
「母は優しい人だった。だが、それ以上に強い人だった。父も、父なりに俺と真摯に向き合ってくれた。母亡き後に引き取って成人まで育て、様々な教育を施してくれたことは、今の俺を形作る重要な要素の一つになっている」
「うん。そういう人達が、心の底から望んで生んで、真っ当に育ててくれたんだから――自分が生まれてこなければなんて、そんなこと言ったら悲しむんじゃないかなぁ」
揺らいでいた紫紺の瞳に、力強い光が戻る。
「……ああ、そうだな。その通りだ」
アレクは笑った。その手が伸ばされ、頬に触れる。
「それに、母が生んでくれたからこそ、俺はお前に出会うことができた」
「そうだね」
シオリもつられて笑った。
「アレクが生まれてきてくれて、ご両親に沢山愛されて育ったからこそ、私は強くて優しい貴方に会うことができた」
逞しい腕に引き寄せられて、抱き締められる。くすくすと笑い合いながら頬と頬を摺り寄せ、そして――唇を重ね合わせた。
月明りと星々の輝き、そして魔法灯の柔らかい光に照らされ、夏の虫が涼やかで優しい音楽を奏でる中――唇が柔らかく溶け合うのを感じながら、互いの存在を深く確め合う。
遥かに遠く異なる場所で生まれて育ち、決して交わるはずのない人生を送るはずだった――数々の軌跡を経て奇跡的な邂逅を果たした自分と、彼。
命の奇跡。
命の軌跡。
――今、この瞬間にも、世界のどこかで数多の命が生まれている。
ルリィ「仲間が寝てる横での濃厚な(以下略」
7月26日の活動報告で書影と特典情報を掲載しています。
アニメイト特典SSや書き下ろし1本はルリィ視点のお話なので、ルリィファンの方にお楽しみ頂けるのではないかと(´∀`)
内容ですか?
少なくとも特典はA、Bともにわりと残念なヒーローがいますヽ(゜∀。)ノウェ