植物人間
「植物人間?それって植物状態のこと?」
「文字通りさ。なんでも体から葉っぱが生えてる全身植物になってしまった人間のことさ。都市伝説ってやつだよ」
コールマンは自身のワイシャツの右袖のカフスのボタンを掛けてから、ベッドの下に落ちていたネクタイを手に取った。その様子を、ベッドの上に佇む赤銅色の短髪の女は、無表情で眼で追っていた。
「なんだか夏のB級ホラー映画にありそうね」
女の言葉の何がコールマンの琴線に触れたのかはわからない。
ただ彼は一息噴き出すと、ベッドサイドテーブルの上に置かれたピッチャーから慣れた手つきで二つのグラスに水を注いだ。女はコールマンからグラスを素直に受け取ると促されるままにグラスの水を飲み込んだ。
「そう茶化すなよ。うちの生徒達が最近噂してる」
「信憑性のない出所ね」
「そうかい?子供は大人なんかより、ずっと悟いよ。色眼鏡で物事を見ないからかな?教鞭をとっていると時々そう思わされることがある」
「じゃあ、娘も私たちの関係に気付いていたりするのかしら」
「それは君の娘に聞いてみておくれよ」
炎天下の真夏の、日曜日の午後。
ニュージャージー州の高級住宅街の一角に佇む家。
虫の声がやけに五月蝿くて、アスファルトは湯気を放っていた。
今、この家の主は会社の上司とゴルフに行き、娘はボーイフレンドとマンハッタンでデート中だ。今頃は自由の女神の足元で写真でも撮影しているかもしれない。
コールマンはその娘の担任の教師で、ベッドの上の女はその母親だった。
二人の出会いは、数ヶ月前の娘の三者面談の時だ。
それから数日後、女からコールマンは食事に誘われた。娘の進路のことで相談したいことがあると。確か、二度目の出会いのきっかけはそうだったとコールマンは鮮明に記憶していた。
地元のヤンキースタジアムで、これまた地元のニューヨークヤンキースがスペイン人の投手のせいでぼろ負けした日のことだ。コールマンはよく覚えていた。
軽食店の雰囲気は最悪で、八つ当たり気味のドンちゃん騒ぎがいつ起きても可笑しくない状況だった。そのせいで落ち着いた場所で話をするため高級バーに行かされるハメになった。
結果的にそれが間違いだった。
その日から暇な時間を見つけてはコールマンは彼女を誘うようになった。女も予定がなければ彼の誘いに乗った。
二人の関係は今でもずるずる続いていた。
「意地悪な人。さっきの話の続きをしてよ。ちゃんと聞いててあげるから」
「……なんでも植物人間の発する胞子を吸った人間がさ、その植物人間になるんだってさ。ゾンビとか感染症みたいに」
「それっておかしいわ」
「何が?」
「だって植物人間の発した胞子から植物人間が生まれるんでしょ?それって因果性のジレンマじゃない。最初の植物人間は誰って話になるでしょ。卵が先か鶏が先か。そういう話でしょ?」
「まぁ、都市伝説ってやつだからね。深い話じゃないのさ……話つまらなかったかい?」
「いいえ。貴方にしては面白いことを話すと思っていたわ」
コールマンが横目で彼女のご機嫌を伺うと、彼女はいつも以上にニコニコとしていた。直後彼女が自分をからかっていたことにコールマンは気付いた。
植物人間の話を盛って、ちょっと彼女を怖がらせてやろうという下心が彼に芽生えたのも不思議な話ではなかった。
「話を続けるよ。その植物人間なんだけどさ。胞子を吸ったら最後、前触れはないのさ。いつ植物になるかなんてわからない。突然植物の芽が目玉から伸びてきて……」
「目玉から?」
「あぁ。きっとそのほうが話を作った人間もインパクトがあると思ったんじゃないかな?だってただ肌から蔦とか葉っぱだかが生えてきたりしても、怖くないだろう?まぁ、それが初期症状ってわけだ」
「それから?」
「植物の芽が肌を突き破り芽吹くんだよ。実はすでに内部は根がひしめいていて、葉が全身を覆うんだ。そのうち肉体全てが植物に養分を吸い尽くされて枯れ木みたいになるんだ。まるでヤドリギとか冬虫夏草みたいだろ?最後には顔にパンジーみたいな花が一輪咲くんだって」
「パンジー?今は夏なのよ?」
「ただの比喩さ。実物を見た人間はいない」
「なんだ。つまらない」
女は先ほどまで消していたテレビとクーラーのスイッチをつけて、薄手のシーツで頬にじわりと溢れる汗をぬぐった。
コールマンはその扇情的な様子をひとしきり眺めて、さきほどまで気にならなかった全身の汗のべとつきに不快感をおぼえ始めた。今すぐにでも着始めていたワイシャツを脱いで、冷水のシャワーを頭からかぶりたかった。汚泥にまみれたような全身の気持ち悪さをなんとかしたかった。
「ねぇ、もし植物人間になったら、それは人として生きていると言えるのかしら?」
「というと?」
だが、コールマンは彼女の哲学的な質問に気が逸れて、風呂場に行く機会を逃してしまった。シャワーを浴びる替わりに、コールマンは手にもったグラスの水を飲み干す。
冷たい水がのど越しに伝わり、生き返った実感が湧いてくる。
「植物人間になっても意識は残っているのかってこと。生きているのか死んでいるのかわからないって疑問に思わない?永遠にそのままなのかしらね」
「うーん、わからないな。でも直感だけど植物人間になっても人は生きて、意識だってあると思う」
「なぜ?脳みそだって植物になってるんでしょ?」
「もちろんさ。でもそう考えた方がロマンチックじゃないか?植物になって光合成だけして孤独に何年も生きていくなんて」
「ふうん」
「知ってるかい?カルフォルニア州のセコイア国立公園にあるシャーマン将軍の木は4000歳なんだぜ?それだけ長い間植物として生きるなんて素敵じゃないか?」
「珍しいわ」
「何が?」
「貴方と意見が一致したこと」
「それは珍しいこともあったね」
コールマンの言葉に、女はシーツに包まりながら微笑を称えていた。
もう40台に差し掛かるこの女性を、コールマンはとても美しく思えた。
フランス人の祖父を持つ彼女の高い鼻と、赤銅の髪、橙色の瞳、そばかす一つない艶めかしい頬。
依怙贔屓に見ているのかもしれないが、それを差し引いても彼女は美しかった。彼女が自分のようなうだつのあがらない男を誘ったのは、魔が差したためだということはコールマンはよくわかっていた。
自分に無関心な夫との冷めた夫婦仲と、年頃の娘とのギクシャクした関係、ご近所や実家とのつきあい。保険だって入ってるかどうか。そういう様々な外的要因が結びついた結果が今の関係だった。
お互い心の隙間を埋める打算的な関係だった。
「ねぇ、そういえば……」
気付けば、彼女は顔色を青くしていた。
様子から察するに、何かを思い出したようだった。
しかもそれは決して良い情報ではないことは、彼女と数ヶ月一緒にいるコールマンにはすぐに解った。
まさか、夫か娘が自宅に戻ってくる予定でもあったのか。コールマンのこめかみに先ほどとは違う、一すじの汗が伝った。
「何を思い出したんだ?」
意を決して質問したコールマンのことも見ずに、女はただ人差し指を先程つけたテレビの方に向けた。
「今朝道端でね、服を着た植物が何本も地面に根を張っていたことを思い出したの。今の話となにか関係があるのかしら?無いわよね?」
テレビを見ずとも、流れてくる音声がコールマンの耳に嫌でも入ってきた。
臨時ニュースです……
ホワイトハウスは先程、各州に緊急避難命令を……
落ち着いて軍の指示に従い避難してください……
ふとコールマンは、自身の左目の裏側にごろごろとした異物感を覚えた。
まるで目の奥から、植物の芽がびっしり伸びていくような。そんな感触だった。